62 栄養剤
夕方になったので帰ろうとしたら送るといわれた。ネムは迷った末その言葉に甘えることにした。最寄り駅でいいといったのだが、夜道は危ないといわれ、アパートの前まで送ってくれることになった。高級車の中に乗り込むと、温かい飲み物と軽い食べ物、毛布が用意されていた。車内の暖房は機能していたが、外で凍えていた時間が長かったことを心配されているようだった。
雪が残っていたので、渋滞はなかったが、30分はかかっただろう。
眺めていた車窓の外で、どこか見慣れた路地が見えた気がした。
街灯がほとんどなく、夜は出歩かないので定かではないが。
ほどなくして高級車は停止した。
扉が開き、彼が先に出て――エルムで教育を受けていたというから、その習慣なのだろう――手を差し出された。そして、裏地に毛皮が付いた黒いコートを渡される。着ていくようにとのことだった。……すぐ目の前がアパートなのだが。
「……ありがとう。またね」
「ああ」
玄関のパスコードを入れてアパートの建物に入る。
外へ向けて、まだ止まったままの高級車へ手を振った。
するとようやく発進した。
「建物に入るまで安心とは言えないのね……」
管理室の前の時計で、18時半であることを確認した。
これほど外が真っ暗になるのか。
そのまま照明が点灯した階段を上っていく。
そして部屋の鍵を鞄から取り出して顔を上げると、悲鳴を上げた。
――蹲る影。
慣れないブーツにうまく足が動かず、たたらを踏んだ。
その拍子に、鍵を取り落とした。
アパートの扉の前には何かが座り込んでいた。
その物音に気付いたのか、うそりと顔を上げた。
幽霊、ではないらしい。
「……ど、どなたですか?」
「……………………あ」
3階の廊下の電気が遅れて点く。
口を手で押さえながら尋ねると、「……ルームメイトの子?」としゃがれた声で聞かれた。まるで老婆のような声だったが、明かりに照らされ、見えた肌はまだ若い。赤茶けたざんばらの髪を振り乱した、ネムより数歳は年上の女性だった。
「わ、わたしはその部屋の者ですけれど……」
震えながら指で示すと、女性は凭れていた扉を振り返り頷いた。
「アタシはここの204号室に住んでる、エミ・チョウノです……」
「あ……ネ、ネム・ズマといいます」
膝を抱えて蹲る女性は明るいところで見てもなお、いや、明るくなってよく見えるようになったからこそ、違った恐ろしさを感じた。割れた黒縁眼鏡、その奥の落ちくぼんだような眼孔、べっとりと張り付いた黒い隈、紫に変色した唇。髪は引き千切ったように不揃いだ。
エミ・チョウノ……。
その名前を聞いた覚えがある。マリエからだ。そしてルヴィのこのアパート唯一の顔見知りだとか。どうしてこんなところに一人でいたのだろう。マリエが帰宅してからだと、照明は感知式に切り替わるので、電気が消えていたということは、エミはずっと動きもせずに長時間座り込んでいたことになる。
「『…………なんだ、恋人いんじゃん』」
「え?」
ネムは突然聞こえてきた母国語に驚く。
エミは立ち上がり、扉から離れる。
「邪魔したね。ごめん」
「あ、待って。ルヴにご用なら、わたしが代わりに」
「――いい。構わないで」
取り付く島もない。
ネムの横を通り、階段を下りていく。
2階の奥の部屋へ行き、乱暴に扉を閉める音がした。
……そこは以前、女性のすすり泣きが聞こえてきた部屋な気がした。
詰めた息を吐きだし、そろそろと手すりから身を起こした。落としてしまっていた鍵と紙袋を拾い、部屋の鍵を開けた。ノブを回して部屋の中へ滑り込み、鍵をかけた。部屋中の電気をつけて、明るくし、その場にしゃがみ込む。
「次からは絶対、ルヴと帰りましょう……」
ひとりで行動するなり見舞われた様々な出来事に、回復しかけた心が今まさにぽっきりと折れてしまった。しばらくしてから紙袋の中身を始末するために立ち上がった。ランドリーを回すか、クリーニングに出すか、捨ててしまうか……。
靴はとりあえず玄関に置いて、紙袋の中身をランドリーに入れた。
洗剤と柔軟剤を入れて回した。乾燥機付きなので待つだけだ。
ぐるぐると回転するのを眺めて、しばらくして決めた。
「この服はもう、捨てましょう」
ネムは立ち上がった。濡れた靴も捨てる。
何もかも、整理するのだ。
「明日が休みでよかった」
新しい靴と、コートを買いに行こう。ブランド物をまとってカレッジに行くような気にはなれない。すると通知音が聞こえた。
『ネムへ。家にはもう着いてるよな?』
『着いてるわ。ルヴはいつ帰って来るの?』
『実は、その件でちょっとな。パットのとこに泊まらせてもらおうかと思ってる』
今から電車に乗って帰って来るのは危険だ。
遅くなってしまったのなら、誰かの家に泊まった方がいいのは確かだ。
『そう。わかったわ。リックとは話はできた?』
『おう!』
『ならいいの。明日は何時に戻って来るの?』
明日一緒に服を買いに行ってもらおうと思ったのだ。
『……ごめん、明日もけっこう掛かると思う。一日がかりくらい』
ネムは返信する指が止まった。
今までこんなことはなかった。
「ルヴは……わたしに友達が出来たと思って安心しているのね」
鞄を見る。中にはルヴィと揃いの時計が入っている。
……離れていても。
『分かったわ』
『ごめん。よかったらオレがいない間……友達と親睦を深めてくれよな!』
「ルヴったら………まるで親ね。でも」
ルヴィがいない間……。
2階に住むエミがやって来ていた。
ルヴィ宛にだ。
しかし彼女は帰ってしまった。
ルヴィに取り継ごうと思ったが、構わないでくれと。
彼女がルヴィに用があるのなら、直接言うのだろう。
『そうね、最近よく会うの。また誘ってみるわ』
『へえ、そりゃ仲良くなれるな。友達ってのは、結局よく一緒にいるやつだもんな。何の関わりもないやつとはなれないもんだぜ。継続は力なり。継続して遊ぶのも、仲良くなる秘訣だぜ?』
ネムは笑った。
ルヴィはネム以上に喜んでいるようだ。
『ありがとう。そうしてみるわ』
『おう! それじゃ、今日はいつも以上に、戸締りをきっちりしてゆっくり休んでくれよな』
『ええ。おやすみなさい、ルヴ。リックにも、よろしく伝えて』
『おうよ。お休み、ネム』
トークを終える。
「………はあ」
胸に重たい何かがつかえていた。
今日、一つルヴィに隠し事をした。
知られたくなかった、ただそれだけだった。
それなのに、やり取りが終わった途端、不安になった。
「こんな気持ちになるなら、さっきのこと言えばよかったかしら」
エミについて、黙っていたのは正しかったのか。
だいぶ……私生活が荒れているように見えた。
けれど、構うなと。
「でしゃばって、余計なことをしてまた今回のようにトラブルになるのも……」
結果的にだが……また一つネムが知っていて、ルヴィが知らない事柄が増えた。
ネムは、何か重大な間違いを犯したような心地になった。
「なんで今日に限って……ルヴがいないのかしら」
今まで迷ったこと、自分の中に受け止めきれなかったことはすべてルヴィに相談していたのに、それが出来なかったからだ。……ルヴィが知らない、ネムのことが増えていく。
ああ、そうだと腑に落ちた。それが不安なのだ。
まるで、神様の知らないネムの側面が増えてくるようで。
「ルヴと離れていても、大丈夫……成長するのよ、ネム」
雪に30分近く埋もれていれば、風邪になるもの。ただし、産まれてこの方、大病らしい大病もなく、ほとんど風邪もひいたことがない健康体であるネムにとっては何のこともない。昨日のひと悶着について、警察との間に入ってくれていた彼からの連絡によると、アンドリューは現在病院で高熱にうなされている為に、取り調べは後日になるという。
「軟弱ね。……わたしのは正当防衛だもの」
我ながら、学友にもかかわらず容赦なくスタンガンを行使したものだ。
しかし顔を確認してはいなかったし、そもそも背後から襲って、木の影に引きずり込もうとしたのだからそれは誤解だったとしてもアンドリューに非があるだろう。
躊躇なく使えるなら、スタンガンは素晴らしい護身具だ。
ネムはいつものように自室で夜のうちに充電したスタンガンを鞄に入れる時に気づいた。
「……ボルト、最大だったの?……」
ネムはそこらへんの見せかけのスタンガンではなく、信頼性があるところで入手したというものを受け取っていた。強度は設定済で、体格の大きい相手であっても、必ず気絶する程度だと聞いていたが……。
「催涙スプレーにした方が……でもスプレーは顔面に向けないといけないし」
ネムは両方バッグに入れた。今日はタブレットを入れたり、書物を入れられるようなカレッジの用の鞄ではなく、外出用のものだ。財布と携帯を入れて、準備は終了だ。コートは駄目になってしまったのと、これほど寒い日に耐えうるものは手持ちにないので、昨日彼に用意してもらったものを着る。着替えやすいように、白い前開きのブラウスに、濃紺のワンピースを着て、裏起毛のタイツ、靴はショートブーツだ。
階段を降りると、管理室の前に、グレーのスエット姿の男性がいてマリエと話す声が聞こえた。
ネムは、驚いたが、他の住人だと気づいて、声を掛けた。
「――おはようございます」
「あら。おはよう、ネム」
「……どうも……」
住人から返されたのは、小さな声だった。
すると管理室からマリエが窘めた。
「まあ、ケータ。おはようと言われたら、何と返すのかしら?」
「……お……おはよう……」
萌黄色の長い前髪をしている青年だ。
肌は白く、前髪の隙間からは、明るい茶色の瞳が見えた。
しかしすぐにおどおどとマリエの方を向いてしまう。
「ネム、この子は、ケータよ。会うのは初めてかしら?」
「はい。はじめまして、ネム・ズマです。301号室にルームメイトと住んでいます」
「……ケイタ・マナイです……」
背丈はルヴィと同じくらいある。
その広い肩幅のわりに、肉が薄いのでどこかあどけなさを感じる。
「……203号室に住んでる……」
隙間から見える瞼の瞬きが激しく、目線が合わない。
マリエの話だと、2階は一人用、3階が二、三人用、4階が短期滞在者用だということだ。
「よろしくお願いします」
「よ、よろしく……」
マリエはほほ笑んでいる。
「ネムはこれからお出かけ? ルヴィは一緒じゃないのね?」
「ルヴは昨日友達のところに泊まっていて……わたしはこれから友達とショッピングです」
「まあ素敵ね。これから駅に行くのなら、今から外に出る用事があるから送って行くわよ?」
「……では、お願いできますか?」
外は数センチ程度だが、一面に雪が降り積もっている。
もちろん、とマリエは快く頷いた。
そして所在無げに手をいじっていたケイタに向き直ると優しく目を細めた。
「じゃあ、ケータ。後で薬を持って行くから、それまで部屋で休んでいて」
「あ、ありがとう……マザー」
ケイタはネムに会釈をして階段を上がっていった。
室内履きのスリッパだろうか。
茶色いもこもことしたクマの顔がついていた。かわいらしい……。
「私たちも行きましょうか。ネム」
マリエの車に乗り込む。
駅までは5分ほどだ。
「マザー、さっきの方は風邪なのですか?」
よろよろとした足取りだった。
マリエは運転をしながら、困った顔をした。
「いいえ。でも眩暈がするようなの。聞いたら、実験で研究所に泊りがけの間、ほとんど飲まず食わずだったというから、栄養失調ね。これから栄養剤を買いに行くのよ」
本国でも理系の研究室は泊りがけの実験になることも少なくないと聞いた。
いつも午前中に帰って来て、昼過ぎに研究室に戻るのだという。
ネムたちとは真逆のサイクルだ。
「わたしたち、マザーがいてくれてよかったです」
ネムは笑って礼を言い、駅で降りた。
マリエはほほ笑み、楽しんできてと送り出してくれた。




