61 立ち位置
どのくらい経ったか、じっとシャワーに打たれていると、バスルームの開いたままの扉のさらに向こう――部屋の扉の前で足音が聞こえた。ネムは蛇口を閉めて、バスタブの外に出ると、バスローブを着てから、裸足のまま部屋の扉を開ける。
驚いたように目を瞠る彼がいた。
屈んでいる為、扉を開くネムを見上げる形だ。
その純黒の瞳が、照明に反射して煌めく。
「なあに?」
ネムが首をかしげると、彼は腰を上げ、床に置こうとしていた紙袋を見せた。
紙袋の表面では光沢が反射する。そこにはロゴが付いていた。
「着替えを」
「……まあ、ありがとう」
ネムは脱ぎ捨てた服を振り返ったがすぐに視線を戻した。
「店に用意させた。サイズもおそらく問題ないだろうと」
両手で受け取る。そのロゴは以前、ネムがマリエと教会へ行くための礼装を購入するために訪れた店だった。服を紹介される前に、体型を測られたことを思い出す。
「すぐに着替えるわね」
ネムは紙袋を受け取り、扉を閉めた。紙袋の中には下着も揃っていた。サイズは見覚えのない表記だ。アクイレギア基準のだろう。すべてあのブランドのものだった。黒いセーターに、深いワインレッドのタイトなロングスカート、黒いストッキングだ。ネムがいつも着ているスタイルに似ているが、赤系統は着ないのと、ロングスカートのところが自分では選ばないなと思った箇所だった。ロングスカートには深いスリットが入っているので、動き辛くもなさそうだった。そのまま扉の傍で着替えて、紙袋に脱いだものを指でつまんでぐしゃぐしゃに入れた。
いつの間にか扉の前から気配が消えていた。なので急ぐ必要もあるまいと、面倒だが髪をドライヤーで乾かしてから、扉を開ける。すると誰もいない代わりに、ベージュのブーツが揃えて置いてあった。女性物だ。
「………えい」
ストッキングに包まれたつま先をそこへ差入れて履いた。
内側に毛皮が張ってあって温かく、サイズは少し小さめだったが歩けないほどではない。
ネムは一旦その状態でベッドルームに戻った。
机の上に置かれた鞄の中から、携帯を取り出した。
時刻はあれから2時間が経っていた。
ルヴィからは、1時間前にメッセージが届いていた。
『ごめん、長引きそう。ちょっと寄るとこあるから、夜になる前に先に帰っててもらえるか?』
『わかったわ。わたしは買い物をしてからアパートに戻るので、気にせずゆっくりして話してきて』
返信を送って、ネムは額にくっつけた。
異様な緊張感があった。落ち着かない。大きく深呼吸をする。
床に置きっぱなしにしていた腕時計を、鞄の中のハンカチで包んだ。
そっと鞄の中に入れる。
防水だが、泥水に浸かったようなものだから、点検が必要かもしれない。
それからやっと部屋を出た。
「………ここは行き止まりで……あそこかしら?」
画廊かと思ったのだが、なんと居住区間内の廊下であるらしく、辿っていくと、扉があった。ノックをすると足音がして扉が開き、彼が現れた。手を引かれて中へ迎え入れられるとすぐに、まるで外とつながっているかのような一枚の景色が見えた。床から天井まであるような窓ガラスだ。一枚の岩のような長テーブルの端に、開いたノートパソコン、脇にコーヒーが置いてある。他にも私物らしい本などがあった。……とりあえず、窓際には近寄らないようにしよう。
高層階から広く見渡す景色に目を背け、彼へと向き直った。
彼がネムへと顔を傾けると、長い純黒の髪はまるで絹の川のように肩から零れ落ちる。
ネムは気を取り直して、携帯を持ち上げた。
「服、ありがとう。お金を返すから、メッセージのIDを教えてくれる?」
お互い、電話でしかやり取りをしていなかった。この国で使われる主要なメッセージツールでならば、電話もメッセージトークもできるし、こちらのメジャーな電子通貨で送金することもできるのだ。
ネムの言葉の途中で口を開きかけた彼は、最後まで聞くと、ぎこちなく頷いた。
携帯でIDを交換して、ネムは明細を見せてもらえるよう頼んだ。
「いや、いい」
「お金を返したいの」
「……いくらか、把握していない」
ネムはその物言いで理解した。ツケで払うタイプだと。こういう人々は、現金で買い物をしない。もちろんクレジットでも。そして彼が以前、ネムに行きつけの店と言ったが、おそらく自宅まで商品を運ばせてその店の外商から、見繕われたものをそのまま着ているのだろう。言っては何だが、センスの微妙そうな彼の服装がいつも洗練されているのも、今回の用意された服がまとまっているのも、これで頷ける話だった。間違いなくコーディネートする人間が別にいる。
そしてこの部類は、商品を選び、ツケておいて後からまとめてその店に支払う為、ひとつひとつの金額の確認などしない。本当にいくらかは把握していないのだ。
ネムは黙り込んだ。
追加された彼のアカウントを眺める。
手段としてIDを交換したというのに、目的を果たせない。
さらに言えば、目の前の青年にとって、こんなのははした金なのだ。
単純に金銭を返すだけでは、何もこの親切の見返りにはなりはしない。
「わたし、あなたにどう返せばいいのかしら」
見合うものを返したいのだが、何も思いつかない。
緊張して彼の顔をまともに見られなかった。
じわりと嫌な汗をかく。
まさか、ここへ来て、体の一部を持って行かれる恐れがあるのだろうか。
そんな人物だとは思えないが、人には意外な一面があるものだ。
「………また、連絡を」
ネムは震えかけた手が収まった。その言葉に瞬く。
ちらっと彼の顔を見上げた。
純黒の瞳がネムを見下ろしている。その瞳孔と光彩の色が限りなく近しいが、ここまで近づいていると瞳孔の開き具合というのが分かった。
……ふとルヴィの言葉を思い出した。
「その……そうじゃないかと思っていたのだけれど、勘違いしたくなくて」
彼はじっとネムを見ていた。
輝く美しい純黒の双眸には、ネムの緊張した顔が映っていた。
意を決して、確認する。
「あの、わたしたち、友達、なのかしら?」
妙な質問だ。自分でも思う。
ただ、自分の都合の良い思い込みではないか、確認をしたかったのだ。
「………ああ」
彼は目を伏せてから、頷いた。
「君さえよければ」
そう呟くように薄い唇が言った。
ネムはぽかんと見上げた。
そうしてじわじわと頬に熱が上がって来るのを感じた。
「もちろん……!」
このアクイレギアに来て、ルヴィのいないところで初めてネムが自分で作った友人だ。嫌なことを忘れる勢いだった。いや、もう忘れてもいいあんなことは。ネムはこの通り、きれいに、清潔になった。汚れ一つなく、爪の間の泥もない。シャボンの仄かな良い香りもするし、頭皮にじゃりじゃりとした砂の感触もない。何に汚れたのか分からないものはすべて排水溝の中だ。
おかげで、今日から数日間は髪のトリートメントやヘアパック、肌の保湿を念入りにしなければならないが、そんなのいつものことに少々プラス程度だ。
ネムは満面の笑みで彼を見上げた。
「じゃあ、わたしたち前からお友達ね!」
「……ああ」
友達宣言までして、子どもっぽいと思われただろうか。
それでもアクイレギアに来てから、これまで自力では友人を一人も作れなかったのだ。グループワークでも終わればそれきりで。まさかカレッジ内ではなく、道端で偶然出会って親切にしてくれた人となるとは。感動していると、ふと、通知音が鳴った。
携帯を見てみると、ルヴィからだった。
「ちょっとごめんなさい」
「ああ」
ネムは彼から少し体を傾けて、メッセージを確認した。
『夕飯どうする? 買い物してくる途中に食う?』
『ルヴはどうするの?』
『パットとそのルームメイトといるんだけど、食べるかどうか迷い中。ネムに合わせようと思って』
ルヴィは、ネムがいないところで知り合いを増やしている……。
いつもなら自分の社交性のなさに自己嫌悪するところだが今日は違う。
隣にはネムの友人がいる。軽やかにメッセージを打った。
『わたしも友達と食べて来るから、ルヴも気にせず食べてきて』
『お、例のショッピング友達か?』
『そうよ』
『おけー。りょーかい!』
それでメッセージを終えた。
ずっと待っていた彼に向き直った。
「今は15時近くだけれど、お昼はもう食べたのかしら?」
「いや………」
「あ、そうよね。わたしがいたから食べられなかったわよね」
ネムは迂闊さを恨んだ。
言葉選びをいつも間違える。
「その、わたしも食べていないから、一緒に食事をするのはどうかしら? お腹が空いていなければ、お茶でもいいわ」
もちろん、ネムが奢るつもりだ。用意してくれた服、なにより電話一つで息を切らして駆け付けてくれたことへの感謝を表したかった。すると、彼は僅かに頷いて机を指で一つ叩く。パネルが浮かび上がった。
「わかった。何がいい。運ばせよう」
……奢れないかもしれない。
水餃子に小籠包、ふかひれスープに焼売、青椒肉絲が広いテーブルの一角に所狭しと並んでいる。表現としておかしいかもしれないが、座っているのはその一角のみなので、料理もそこにしか並ばない。彼がピオニーの血を引いているというので、本場のピオニー料理を食べて見たくなったのだ。すると、どこのレストランか分からないが、専門料理が30分もしないうちにやって来た。
ピオニーの長い箸が特徴的で、ネムは面白く思った。
彼は箸を扱えないようなので、ネムが隣で教えた。
見かけは東洋人の割合が多そうなのだが、実際は8分の1。つまり、遡って8人いる曽祖父母の内の誰か1人が、ピオニー人だということだ。そう考えると、だいぶ遠いし、面識もないだろう。
「そうそう。上手だわ。でも、難しければ、無理をして使う必要はないわ」
ネムはナイフとフォークも渡すと、彼はそちらを受け取った。
「練習しておこう」
「慣れたら便利よ?」
ネムは笑って、向かいの席に戻った。
出来立てのような数々の料理だ。
どれも暖房が効いている部屋の中で湯気が立っている。
「どこか、怪我はしていないか」
「平気よ。それにしても護身用のスタンガンはここへ来て本当に役に立っているわ」
活躍の場がないだろうと思いながら、それでも護身のために準備して鞄の中に入れていた。それが一度ならず、二度も使用の機会があったのだ。いかにアクイレギアの治安が悪いか知れるというもの。治安がいいと言われていたアパートのある郊外で一度使用し、カレッジ内でも一度。
「今日のことは驚いたわ。いきなり後ろから掴まれたんだもの」
「グループワークで一緒だったと」
警備員に事情を聴かれたときに、ネムが答えたのかもしれない。
あまり覚えていないが、関係を聞かれたような気もする。
「ええ……それでわたしのこと恨んでいたのかもしれないわ。彼は積極的に発言していたけれど、わたしはそれを強引に棄却してしまっていたから。発表の時も、散々だったし」
それでもここまで追って来られるほど、恨みを買うとは思わなかった。
気を遣ってフォローもしたつもりだが、それでも足りなかったのだ。
俯いて、箸を握りしめる。
「発表が終わり、これで関係も切れたと清々していたらこの通りだもの」
「……仲が良かったのではない、と?」
驚いてネムは顔を上げた。
「まさか。その時のグループワークのメンバーはみんな少なからずわたしに嫌な思いを抱いていると思うわ。特に、アンドリューはわたしを疎んでいるはずだもの」
「――何か理由が?」
彼のその静かな顔でそう聞かれると、ネムは本当にとんでもない罪を犯して懺悔するような心地になる。よろよろと視線を落としてネムは箸を机に置いた。
「その……発表の前日にトラブルがあって、わたしが出しゃばってしまったの。それが一番の原因じゃないかしら? 質疑応答の時も、名指しでわたしについて言っていたくらいだから」
その時のことを思い出し憂鬱な気分になる。
ルヴィが励ましてくれ、その後一緒になったグループワークのメンバーにも慰められた。しかしそれは逆に、ネムがうまく対処できなかった事実を浮き彫りにした。
大問題の発表になったそのグループワークのメンバーとはそれっきりだ。
他のメンバーもトークからちらほら退出し、ネムもそれに続いた。
「ルヴ……ルームメイトと違って、わたしは優秀ではないの。だから、あの講義を絶対に落とせなくて、Cも駄目だから……焦っていたの」
「メンバーの中に……他に東洋人はいなかったか」
彼からの具体的な問いかけにネムは首をかしげながら思い返す。
「いたわ。アマンダ・ヘイリーという女の子よ。黒い瞳と髪が見事な――」
ネムは急に口の中が苦くなった。
乱暴に小籠包を摘み、齧りついた。
すると嚙み切った端から熱々の肉汁が溢れだした。
彼に差し出されたハンカチで口を押え、水を受け取って飲んだ。
「ありがとう。……それで、彼女がどうしたの?」
「危害を加えられるようなことは?」
思いもかけない言葉に、ネムは瞬いた。
「いいえ、まさか」
アンドリューの話をしていて、彼女の話が出るのはどうしてか考えた。
思いついたのは、共通点だ。
「たしかに、彼女はアンドリューと同じピオニー系アクイレギア人だったせいか……他のメンバーより、アンドリューと関係が近いように見えたわ。でも、そもそも彼女はわたしに関心がないのよ?」
ハンカチを机に下ろし、ため息を吐く。
彼女の視界にネムが入ることはほとんどなかったと言っていい。
「彼女は……わたし以外の、他のメンバーといつも楽しそうに話をしていたの。あまりにも仲良さそうだったから入れなかったほどよ。きっと、ああいう子のことを社交的っていうのでしょうね……」
ネムがいてもいなくても進むトークは、ストレスがたまる反面、友人同士の会話が楽しそうで、羨ましい気持ちがないとは言い切れなかった。疎外感だ。ネムは、あのグループの時、焦りで空回っていただけではなく、中に入れない空気に疎外感を感じて余計に上手く振る舞えなかったのだ。
「……今更になって、うまくいかなかった理由に気づくのね」
自己嫌悪に陥って、ふかひれスープを飲んだ。彼があまりにも寡黙で、それでいて静かに聞いていてくれるので、ついつい自分の話をし過ぎてしまう。決して良い話でもないだろうに、いやな顔一つせず。
甘え過ぎはよくない。
ネムは気を引き締めて、笑顔を作った。
「でも、もう終わった話だわ」
「――ああ。そうしよう」
肯定的な相槌を得て、今度は心から笑った。




