60 雪泥
階段下から風が吹き込んでくる。白いコートの下に、カーディガンまで着こんているが、これ以上冷え込むとなれば、この防寒着では追いつかないだろう。
「せめて、内側に毛皮でもついてたらマシかしら」
ネムはひとり講義室から出て、いつもとは違い階段を下りた。
少し時間が経っているので、学生の行き来はほとんどない。
カレッジ内であれば時間潰しはいくらでもきく。
自習室で勉強すればいい。しかし、今日のところは、それも適当に区切りをつけて一人で帰るのだ。パトリックは、ルヴィと何か人に聞かせ辛いことを話したあと、ネムと顔を合わすのが気が引けるのだろう。少なくとも、ルヴィはそう考え、ネムに先に帰るように言ったのだ。
「リックって……そうよね」
ルヴィは気づいていないようだが。
ネムには割と確信に近いものがあった。
あれは、まだこれほど寒くもなかった先月のこと。
パトリックが知らないところでネムたちには、パトリックとの思い出が作られていた。
図書館に行く途中で、紅葉がきれいだとルヴィと話していると、芝生の小道を歩くパトリックがいたのだ。ジャケット姿で、いつも通り、品のいい佇まいだった。
講義以外で見かけることはないほど、ネムたちは寄り道もせず勉学に打ち込み、遊びもせずにアパートに戻っていたのだ。だから、その偶然の機会を逃さずに声を掛けようと思ったのだが、ちょうどネムたちと同時か少し遅いくらいに気づいた女子学生がパトリックに走り寄って話しかけていたのだ。それを皮切りに女子学生たちがパトリックに集まった。勢いよく何事がまくし立てる女学生たちを、パトリックは丁寧さを崩さず器用にさばいていた。
秋の庭園の貴公子だ、とルヴィはネムに耳打ちし、ネムは笑った。
しかし、ネムはその時のパトリックの表情を見て、ああやっぱりと思ったのだ。
「リックは女の子が苦手なのね」
ルヴィは気づかず、無邪気に笑い、ネムも笑った。
でも、ネムは、気づいた。
「何の話をするにせよ、わたしがいると話しにくいのね、きっと……」
階段を下りる途中で、渡り廊下を見た。
しかし今はひとりなので、大人しく一階に降りる。
――そう、ひとりだ。
自覚すると、かなり胸に来た。
勉強をしようかとも思ったが、そんな気になれなかった。
ルヴィが傍にいなくなると、一人になる。
そんな状況は、いつも分かっている。
外に出て、冷たい風にでも当たり、落ち着こうと思った。
転ばないように下ばかり見る。
学生が多く通る道は、雪が解けている。
地面の泥と交じり合っていて、誰も歩かないところは白く奇麗なまま……。
ネムは新雪を歩いてみたくて道から逸れてみた。
白い足跡が続く。
子どもの遊びだ。
いつもとは違うことをしてみた。
白い雪にずぼりとはまるブーツをみながら、歩く。
建物近くの、雪を被った常緑木を通り過ぎる――突如。
背後から腕を思い切り掴まれて後ろに引かれた。
あっという間のことだった、そのまま樹木の影に引きずり込まれる。
「……っ……何」
荒い息が耳元で聞こえ、ネムは危険を感じ、すぐに鞄の中の護身用のスタンガンを後ろ手にひっつかんで相手に押し当てた。獣のような唸り声がネムの後頭部に落ちつけられた。ネムは驚き、腕を振り払って離れようとしたが、そのまま相手がネムの方に倒れ込んできた。
その顔を見て、ぞっとした。
レフェルト教授の講義でグループワークを共にしたメンバーの一人。
アンドリューだ。
ネムは逃げようとしたが、足元がぬかるんでいて思うように動けず、そのままアンドリューの、体格に押しつぶされた。べしゃりと後ろ髪に、泥と雪の混合物が浸み込むのを感じた。重たい。ネムの顔の横に、生暖かい呼吸が当たる。
「……ひっ……る、ルヴ! ……やだ、ちょと!」
ネムは生理的嫌悪に堪えきれず、意識を失ったアンドリューの下でもがいた。
しかし、もがいてももがいても重くてネムは抜け出せない。
「いや、ちょっと! やだ、どいて! ルヴ!」
ネムは気持ち悪かったが、腕をアンドリューの首の下に潜り込ませて、顔を両手で下にどけた。しかしほとんど動かない。ネムの髪には泥が浸み込み、背中にも冷たいものが浸み込むのが分かった。
「もう、なんなの! どいて! どいてよ!」
視界に入るネムの袖は、泥の汚れがじっとりと付いていた。
それを目にして瞬間的に、涙が目じりに浮かんだ。
「もう、最悪……………………どいてよぉ」
アンドリューの意識がないのは、ネムがスタンガンを使ったからだがそんなことは頭にない。苛立ちから腕を振ると、近くの樹木に当たり、降り積もった雪がネムの顔に落ちてきた。
「うぷ……っけほ……うっ…………もうぅ」
冷たい雪に覆われながら、ネムは泣き出した。
汚い汚い汚い汚い。気持ち悪い。
妙な熱をまとっているアンドリューの重たい体を足で蹴って、抜け出したい。
なのに、腕は動かせても、脚はピクリとも動かせない。
「なに……もう、なんなのよ、ふざけないで……だれか……」
場所が悪いのか、建物沿いにある植込みの影なので人気がない。どうしてこんなところに来てしまったのか。そして、建物の近くにある植込みがきれいなはずがない。ネムは嗚咽しながら、鞄を探り当て、携帯を何とか出す。
そしてすぐにルヴィを呼び出そうとしたが、腕時計が目に入る。別れてからまだそれほど時間もたっていない。今はパトリックと話をしているだろう。今呼んだらパトリックも来るかもしれない。ルヴィに、パトリックに、こんなところを見られるのか。それは、こんなに差し迫っている状況なのに、嫌でたまらなかった。
ルヴィの名前をみながら、ネムは涙が次から次へと目じりを伝って、地面のぬかるみと一緒になるのを感じた。
「もうやだ……だれか………っうぅ……ううぅうー」
携帯を手にしたまま、コールボタンを押すに押せず、泣きながら鼻を啜っていると、着信音が聞こえた。誰かは確認しなかった。それに出てすぐに、ネムは助けてと言った。
どこからか鋭い息と荒い足音が聞こえてきた。ネムは朦朧とする意識をなんとか維持して横を向く。裸の木々の間から、絹のように長い黒髪が見えた。何度か瞬くと、ネムの――目の前に手を伸ばされるので、あの時のように、地面に浸っていた手をそこへ乗せた。爪の間には何が混ざり込んだか分からない泥が入って、とても、とても汚い手だったのに――彼はいつものようにそっと握った。
気を失ったアンドリューは、後からやって来た警備員に引き渡された。
ふたりの警備員のうち、ひとりがアンドリューの状態を確かめていた。
警備員から事情聴取をされたが、うまく答えられたか分からない。
ほとんど彼が代わりに答えていた。
体の大きい警備員が傍にいるのが気分が悪かったが、彼が傍にいてくれた。
ネムは着ていたコートを地面に脱ぎ棄てた。
落としたコートは見もしなかった。
その場の注目を浴びたが、ネムはほとんど他人ごとのように感じられ、気にもならなかった。
俯いていると、彼がコートを脱ぎ、ネムの頭から被せる。
そして、脱ぎ捨てられたネムの汚れたコートを拾いあげその腕に掛けた。
『……シャワーを浴びたい』
ネムは手を取られたときに、そう口にした。
警備員がアンドリューの傍らに座り、コートを頭から被ったまま、ネムは彼に連れられるまま歩いた。彼は白いコートを腕にかけ、どこかと連絡を取っている。それを終えると、ネムの背中に腕を回して支えた。歩いている間、考える思考も、ネムにはない。ただただ、髪の毛に染みついた泥が肩に落ちてくるのを感じていた。
気が付けば、彼がいつもの高級車の前にいて、その中に連れられた。
どこへ行くのか尋ねるものだと思うが、ネムはじっと自分の汚れた手足を見ていた。いったい何と何と何が混ざった汚れなのだろう。虫の死骸、人の嘔吐物、吐いた痰、動物の糞尿……考えては駄目だった。ひどく耐え難く、涙がボロボロとこぼれた。
すると低音の声が聞こえた。
「こちらへ」
走っていた高級車がいつの間にか止まっていた。
開いた扉の外はどこかの建物の中のようで、目の前には入り口があった。
外の景色を見ていなかったが、ここはどこだろう。
そう考えながらも、ネムは差し出された奇麗な彼の手に、自分の汚れた手を乗せた。
とても狭い視界だった。
コートを被ったネムから見える世界は、清潔で奇麗で煌びやかだった。
彼はネムのコートと鞄を持ち、ネムを誘導した。
エレベーターに連れられ、扉が閉じる。
「………あ……」
黄金の薄っすら反射する扉は、ネムの今の現状をよく映し出した。
コートの隙間から見える、頬には泥が、髪の毛先になるにつれて濃い汚れが。
タイツは左脚が破けていて、素肌が汚れていた。
「なに……これ」
腕を広げて、見る。
斑に泥の汚れがついている。
「え………?」
泥はこんなところまで浸食していたのか。
髪から落ちた雫が、またカーディガンの上に斑点を作った。
見えないところが汚れていて、ずっとそれは見えないだけで汚れていた。
首にかかった生ぬるい空気は、ネムの顔にこびりついているのか。
首を押さえると、急に目の前が、暗くなった。
気が遠くなったのではない。
彼の黒いハイネックのセーターが視界を塞いだのだ。
「もうすぐで着く」
ネムは顔を上げると、彼は上向いて、エレベーターの階数を見ていた。
そして扉が開いた。
彼の体が離れ、そこには黄金の鏡に映るネムではなく、洗練された画廊が見えた。
手を引かれて通路を歩き、角を曲がり、一つの扉の前で止まった。
そして彼がその扉を開いた。
ベッドルームだ。そして彼がネムの手を放し、その奥にあるもう一つの扉を開いた。
そこには広いバスルームがあった。続きの間になっている。
彼はそのまま入り、蛇口をひねって湯を出した。
「使うといい。タオルはここに。替えの服は用意させている」
戻ってきた彼は、ネムの頭に被せたコートを取った。
バスルームへ手を引いて、鞄を机の上に置き、コートだけ腕に下げた状態で部屋の外に出た。
「鍵は内側から掛かる」
彼はそう言って、扉を閉めた。
ネムはしばらくその扉を見て、それからバスルームを見た。
シャワーの流れる音が聞こえ続けている。
ネムはまず、手首の腕時計を外しそっと床に置いた。
そしてその場で服を脱ぐ。カーディガンを、ブラウスを、スカートを、靴を、そして破れたタイツを。そこで思う。タイツが破れるなんて初めてだ、と。全部脱いで、ネムは流れ続けているシャワーの下に行った。汚いものが、全部洗い流されるように。
バスタブを超えるほどシャボンを作って、流す。
二回、三回、四回……。
汚い呼気が、諸々の要因で汚れた土が、交じり合った泥が、こんな目に合っている自分のみじめさが――すべて洗い流されるように。
「………うう……」
情けなくて嫌になる。
涙と鼻水と混ざってとても汚い。
足元を流れるものが汚水から色を透明に変えて、やっとネムはバスタブのなかで膝を抱えた。




