57 ターゲット
エルムの歴史において、娯楽のために最も多く潰されてきた動物に、キツネが挙げられる。80年ほど前に非合法化されるまで、伝統的なスポーツとして狩りが行われていた。エルムのどこにでも見かけて、軽やかに飛び跳ねる姿は、過去の残虐な娯楽とを結びつけるのが痛ましく感じるほど、身近な動物だ。
目の前の少年をじっと見る。
どこか毛並みのいいキツネを彷彿とさせた。
実際は少年ではなく、自分とそう変わらない年齢だ。東洋人は若く見える。見た目に反して、この老成した配慮に、ちぐはぐさを覚える。
パトリック・コールデンは、意図してこの少年に見紛う、ルヴィアス・キングサリに近づいた――わけではなかった。
ターゲットは別にいて、その接近には苦慮していた。本件の適任者は絶対に自分ではないだろう、と頭を抱えていた。それでも地道にその周囲から情報を得ていたのだが、芳しくない。姦しく流される噂という名の作り話や盛り過ぎて事実とかけ離れた話、まるで虚言癖の巣窟だった。なのに、当のターゲットがそもそも情報を零さない。
さりとて本件では、大学院生という身分で在籍している以上、学業もおろそかには出来なかった。評価Cが3つ下されたら即退学だ。……幸いなことに、エルムはアクイレギアよりも専門教育が進んでいる。ほとんどの内容は既に勉強済みだ。
なかなか進展が見られないことに焦るのは得策ではない。学業ではわずかに余力があったのと、ストレスが溜まっていて血迷ったのか、偶には気晴らしに違う分野の教養科目をかじってみようと思い立った。――ルヴィたちとはそこで出会ったのだ。
『気にしないで』
先ほどの、ビスクドールのように美しい少女が去り際に口にした言葉は、パトリックについての、あることを察しているように感じられた。
極東の島国から来たふたりの留学生。まさか、ここまで懐かれるとも、信頼されるとも思っていなかった。ただ、ファーストコンタクトで、他より気が合いそうだ、と思っただけだった。
「端的に言うと、だね」
パトリックは自分の顔を撫でた。自身が周囲に与える印象というのものをよく理解していた。うぬぼれでもなく、育ちがよさそうで、荒事とは一切無縁の好青年に見えるだろう。実際、エルムでも良家の出身であることは間違いない。
教授の前では外さなかったマスクを取った。唇の端は殴られて今は腫れている。そこを指で撫でながら、パトリックは話し始めた。
「この怪我は、父に反抗して殴られたんだ。僕は殴り返さなかったけどね」
「な、殴られるまで反抗したのか。……痛くなるじゃん……」
少年の顔をした友人は自分が痛みを感じたような顔をする。
それに笑って今度はパトリックが、引き攣れた痛みを感じた。
顔をしかめて、口の端を舐めた。
血は出ていなかった。
「そうだね。でも僕はこの歳になって大勢の前で裸にはなりたくなかったのさ」
ローブを一枚羽織っているとはいえ。
そういうと、ルヴィは目を見開いて、身を引いた。
思った通りの反応で、面白くすら感じる。
……これくらいターゲットもわかり易いといいのだが。
「な、なんでパットの親父さんが、パットを大勢の前で裸にさせるんだよ?」
「ちょっと長くなるんだけど。僕の家はエルムでも古い家なんだ。歴史が長い分、掃除をされずに降り積もった埃のように、決まり事も増え続けてる。それで、代々いくつかの組織っていうか団体に所属するという伝統もあるんだ。今回はそのうちの一つかな」
「ええ?……なんて団体?」
「ピエトラっていうんだけど、表にはあんまり出てないかな?」
「聞いたことない……福祉団体とかじゃなさげ……」
パトリックは笑った。
「今回のは古美術蒐集家の集まりって感じかな。エパティカが発祥だね。このパイプをなくしてしまうと、他の家に情報収集の面で後れを取るんだ」
「古美術の愛好家の集まりで……?」
パトリックは手を縦にして、ルヴィの疑問を押しとどめた。
「僕の家は歴史が古いって言っただろう? 同じように思って入らなかったやつが、痛い目見てるんだ」
ちなみにパトリックの祖父だ。
祖父は教訓として父に最初にその団体に入らせた。
「この時代になっても……いやこの時代だからこそ、直接取引される情報っていうのが重要だったりするんだ」
「……いくつかっていうと、他の団体にも入ってるのか?」
パトリックは頷き、残り2つのうち、有名な方を挙げると驚かれた。
「こんな身近にいるんだな……」
「エルムだとそんな珍しくもないよ、ついでで入ってるんじゃないかな?」
「そんなノリ……」
歴史が古い家はだいたい複数の団体に掛け持ちで所属している。
ただ、歴史が古いと無駄な伝統も無駄に保持される。
「こういう排他的で秘密主義な組織って厄介だよ。伝統とかっていうのに拘るんだ。今回で言うと、団体が指定する用意するローブ以外の一切を身にまとわず、団員の前で宣誓をするという、ね。言っておくけど、それ以上でもそれ以下でもないからね! 由緒正しき様式美ってやつで……」
「以上ってなんだよ……ローブ羽織ってるって言っても、その下はすっぽんぽんだろ?……うげえ」
ルヴィは嫌そうな顔をする。
何はともあれ共感してくれて何よりだ。
久しぶりに家に顔を見せたら、これだ。
パトリックは絶賛とある案件に取り込み中で、全く暇ではないというのに。
「冗談じゃないって断る僕に、数百年続く家の伝統だって言い張る父と大喧嘩さ」
ため息を吐く。家には、代々の当主の肖像が壁にかかっている。その下のネームプレートには、いつどの組織に所属していたか、上げた功績は何かというのが昆虫標本のように勲章やらリングやらが収められている。どの当主も5つ以上の組織に所属している。パトリックは今回やっと3つになった。
「でも僕の父は高齢でね。ちょっとでも僕が払いのけたら、きっと骨折して入院してそれっきり出てこれなくなるだろう。だから家族が止めに入るまで、殴られても『嫌だ』と言って抵抗したね」
「………で、結局どうしたんだ、入団の儀式」
「やったよ。ゆくゆくは入ると分かってたからね」
「な、殴られ損では……」
結果的に見ればそうかもしれない。
ただ意思表示というのは何事も重要だ。
「僕が駄々をこねたおかげで、見届け人は身内にしてやったよ。裸ローブに巻き込んでやったけど、すごく気まずくなって地獄の空間だった……あ、その団体には僕の従弟や義兄たち、その他の親戚もいるんだ」
「親戚、既にめっちゃ入ってね?」
親類同士も結局は競争相手なのだ。
それをわざわざ告げる必要はないだろうが、どうしても苦い笑いは零れた。
「言うなれば、一種の社交だから。自分よりも上の階級だとか、財政界だとかのつながりを維持するためにも便宜上、エルムの古い家はもれなく入ってるかな」
「お、おう。なんか、想像と違うけど、終わってよかったな……」
一人の成人男性として――ローブはまとっていたとはいえ、人前で裸になったことは口を閉ざしているつもりだった。まあ……ルヴィなら、いいかと。
「これは言いにくいもんなー……」
苦笑いするルヴィに、パトリックは鬱屈とした心地が晴れた気がして笑った。
「あの顔最高だったわ。蒼褪めちゃってもー痛快!」
甲高く下品な女性の声が、耳に飛び込んできて、思わず、パトリックとルヴィは口を閉ざした。目と目を合わせて、お互いの驚きと不快感を伝え合う。
何がおかしいのか、まるで爆発するかのような、何重にも廊下に反響する笑い。女性の声というのはなぜこんなにも耳に刺さるのか。まるで弦楽器の不協和音だ。
「可哀想じゃない、レシュノルティアからわざわざ舞い戻って来たのに」
「マーシャルがいなくなっても認識されてないし、終わってるでしょ」
例の、ターゲットの周囲にいる連中だ。そういえば、この講義棟から続く連絡橋は、ビジネススクールの講義が主に行われる講義棟とつながっていると思い出した。
「メリアのことはもういいわ。リーリン。さっき言ってた、あれはどういうこと?」
「ええ? あれって?」
「ほら、メリアの男バージョンって言ってたじゃない。どちらかというと、リーリンがその話をしてから、急にレギーが出て行ったと思うけど」
その言葉を受けた返答は、やや声音が小さくなる。
「………まさか、違うわよ」
「あれって、何の話だったの?」
声を小さくしても講義室内にいるパトリックたちに丸聞こえなのが不思議だ。狙っているのかとすら思う。甲高いヒールの足音にまぎれもしない。この雪の日になぜヒールで来ようと思ったのか……。永遠に理解できない謎だ。先ほどまでここにいた薄青色の髪の少女だって、かかとの低いブーツだった。
「………レギーの周りの女を威嚇してるデメトリアみたく、東洋人の女の尻を追っかけてる下半身男のことよ。アマの方が詳しいでしょ」
なんて下品な物言いだ。耳が腐り落ちそうだ。
早く立ち去ってほしいものだが、面白がるように、アマと呼ばれた女学生が話し出す。
「うーん、アンジーはマッチョの下半身男に迫られたらどんな気持ち?」
「体によるわ」
「あれ? みんなが言ってる、超美形でお金持ちのマホニアの御曹司に一筋ってわけじゃないんだ?」
アマと呼ばれた女学生は、軽薄で幼い口調だ。
まるでティーンか何かだ。
それにしても……珍しい組み合わせだ。
答えるアンジーとは噂で『お堅い真面目女子』と言われるアンジェリーナだろう。アンジェリーナと呼ばれるのを嫌っているという要らない情報もパトリックの耳にも入っていた。
そして先週の時点では、彼女は、ピオニー経済の重鎮の娘であるリーリン・チャンと不仲であるという話を聞いた。……この辺りはいつも誰かしらと諍いを起こしているが。今はリーリンと同じ集団で話しているようだった。
「メリアじゃないけれど、休みが明けてから、完全に近寄らせないじゃない。私は降りるわ。ロカはどうするの?」
「……見込みが薄そうではあるけど、でももう少し様子を見るわ。思い出のワンナイトぐらいはチャンスがあるでしょ。レギーも男だもの」
またどっと笑い声が上がる。
女性の明け透けな物言いに、ルヴィとパトリックは顔を見合わせた。
表情筋と目が死んでいた。きっと自分も同じ顔をしているだろう。
「どうしたの、アマ」
一人の女学生がこちらを向いていた。
目が合ったのは、絶対に目を合わせないようにしているルヴィではなく、パトリックだった。その女学生は、講義室にふたりだけしかいないのが珍しかったのかじっくりとパトリックたちを見てきた。そしてパトリックの横へ視線が流れた時――のっぺりとしたムーンフェイスがにんまりと笑う。
…………気味が、悪い。
パトリックを見下ろす傍若無人な存在たちを思い出した。
「あたし、ちょっと電話する用事思い出した」
「ええ? アマ、このあと私と一緒にカフェテリアに行くって約束じゃない」
「ごめん、リーリン……この埋め合わせに明日、ケーキとシェイクを奢るから!」
にんまりと笑っていたアマという女学生は走って集団から抜けたようだった。
幼稚に尽きる。裏口入学の前に、年齢を詐称しているのでないか。
あの輪に入っているということは、大学院生で飛び級をしていても20は超えているはずだが。
「何あの子、ドタキャン? 講義終わるのをわざわざ外で待ってたのに?」
「はあ……急用ができたんでしょ」
「この秋休みのパーティーで知り合ったんだっけ。ピオニーって仲間意識強いよね。あれってこの秋入学の子でしょ? リーリンって、同じピオニー人相手だと優しいんだ」
また笑い声が上がり、階段を下りる音が遠ざかって、やっとパトリックたちは息を吐いた。
「じゃ、そろそろお開きにするか。ネムも待ってることだし」
時間を確認して立ち上がったルヴィを、引き留めた。
言うかどうか迷ってここまで引き伸ばしてしまったが。
「ちょっと耳に入れたい話があるんだ」
あの集団を見るに、やはり知らせた方がいいと思った。
パトリックは自分の――目の痣を指さした。
「こっちの怪我について」




