56 別行動
ひらりと手を振ってジェンキンス教授が去り、ルヴィ、ネム、パトリックの三人だけになった講義室。幼馴染は、じっとジェンキンス教授が去って行った出入り口を眺めて、ぽつりと聞いてきた。
「――来年は担当教員を決めるじゃない? ルヴは誰にするか決めた?」
ルヴィは腕を組んだ。
実は、次の学期の履修登録は11月の秋休み前には既に開始されている。
春学期からは講義に加えて新しくフィールドワークが始まるのだ。
今のところ、単位を落とす見込みはないので、最短の1年で修士を目指せる。
となれば、来年の秋学期には、ルヴィはとうとう研究のための担当教員を決めるのだ。博士号を取れるか取れないかはルヴィの研究にかかっている。
それには、自分に合った担当教員を選ばなくてはならない。
オルガが仕事時間を削ってまで、聴講という下見を念入りにしたのは、ルヴィたちが無理をしてまで履修科目を増やして、どの教授のもとにつくかを見ていたのと同じことだった。
「まだ、だなー。オレが研究するのがフィールドワークだから、その現場に参加してみないと、わからん……」
「……そうね」
どのような現場に行き、どのように調査するのか。
講義で聞くのと、実際にやるのとでは違ってくるだろう。
たしかに、ネムが今それを聞いてきた気持ちは分かる。
ルヴィは、昨日今日とで、気持ちが大いにぐらついた。
ザイガー教授は専門とは外れていても、学生に対して親身に提案してくれる姿勢が見えた。
ジェンキンス教授にはその含蓄に富んだ人生経験と、様々な視点を同時に持つ才覚に圧倒された。
成分分析を行い、数字による解析を得意とする、ザイガー教授。企業からの受託研究をいくつも抱えている為に、費用が豊富で、研究機材は最新のものを取り揃えている。
歴史や土着の文化など人類学的な要素も加えた、多角的な視点を持つ、ジェンキンス教授。長く教員をやっていただけあって、教え方がとても上手だ。ルヴィにはない考えを提示してくれる。
詳細な地形や気候に基づいた植生に精通した、メールリ教授。最近では土壌についての研究も発表していた。これはザイガー教授とも似た部分になるが、植物の生長という点から見た環境的な問題を投げかけた面白いものだった。
先の二人の教授に傾いてはいるというものの……。
やはりどの教授も素晴らしいとしか言いようがない。
重要なのはルヴィが何をしたいのかだ。
ここで絞るのには、ルヴィには足りないものが多い。
するとネムは頷いた。
「じゃあ、また満遍なく受けるのね?」
「おん。必須科目は熟しながらな」
「……君たち、今回だいぶ履修科目をオーバーしてるんじゃなかったかい?」
「追加の上限にはまだ余裕があるぜ」
必要単位のほかに、追加上限が年間10単位と決められている。
ルヴィたちはその上限をまだ残しているのだ。
やる人は少ないらしいが。
1コマの負担が大きく、成績を落とす可能性が増えるからだ。
GPAはAが優、Bが良、Cが可であり、その下はない。
つまり単位を落とすということだ。
一般にカレッジ側に期待されているのはB以上。
Cが3つになった段階で、退学が決定するため、履修科目を増やすということは、リスクが大きいばかりなのだ。
「次の学期は1コマあたりの単位が増えるから、そんなに課題も増えないだろうけれど」
「フィールドワークが始まるからな!」
「……ロースクールでよかった」
法学でフィールドワークは確かに聞かない。
探せばあるかもしれないが、学生も負担が大きいのは避けるのだろう。
パトリックはため息をついていた。
気が抜けているところ悪いが、本題だ。
「んじゃ、話を聞くぞ。ふたりとも」
ネムは真顔で二度、三度、と瞬きをした。
パトリックはマスクをしているが、上半分で重々しい顔になる。
ルヴィはそれらを眺めつつ、「どうぞ」とまずネムに促した。
話が早い方を済ませようと思ったのだ。
そっと一呼吸おいてから話し出す。
「その……足をひねったようなのは気づいたのだけれど、そのまま歩いていたの。それを見た看護師さんが、歩けるのなら退院しても問題ないと言われてそのまま……ルヴが起きたときにはもうなんともなかったの」
「歩けるならって……アクイレギアって感じ……」
なんとも、豪快。
ありそうが過ぎる。
ルヴィが頷くと、ネムは肩から力を抜いた。
「心配した」
「……ごめんなさい。ありがとう」
目を合わせて、笑いかける。ネムもやっと顔を緩ませた。かわいい。
それを見て勇気づけられたか、パトリックが意を決して口を開いた。
「……込み入った話になるんだけど……」
「ふーん。じゃあ、いいや」
荷物を片付けだす。
するとパトリックが慌てだしたが、先にルヴィは首を振った。この話を振ってから思い出したが、いつものこの時間はパトリックとはそそくさと別れている。なぜなら。
「パット。お前、次の講義あるだろ。その後でもいいし」
「あ、ああ……次の講義は休講になったんだ」
ルヴィたちは不思議に思い、首を傾げた。
パトリックは、浮かせた腕を下ろして説明した。
「通勤中に教授が事故に遭ったらしい。今朝、騒々しかったサイレンとクラクションはそれが原因のようだよ。交差点で車4台を巻き込んだ玉突き事故だって。久しぶりの大事故だったけど、死傷者がなくて幸いだった……あ、ルヴィたちは郊外に住んでいたから知らないか」
ものすごい騒音で叩き起こされたらしい。
負傷者は病院に運ばれ、車は撤去されたらしいが、騒然としていたと。
パトリックは携帯でニュースを見せてくれた。
ルヴィとネムはサイドから覗き込んだ。
事故現場の写真には、雪に赤い血が飛び散っていた。
モザイクなしだったので、慌てて目をそらす。
ネムは口を押さえながら呟いた。
「降雪があったせいかしら……ルヴも転びかけていたものね」
「ネムがいなかったら、完全に転んでた。ありがとね」
「どういたしまして」
しみじみとネムと頷いた。
するとパトリックが目線をずらしながら、言い辛そうにする。
「事情、だけど、その……」
話す気はあるらしい。
しかしなかなか話し出さない。
しばらく考えたルヴィはネムに向き直った。
「なあ、ネム。パットが男同士の話をしたいらしくてさ、ちょっとだけ別行動いいか?」
「……男同士の……?」
ネムが不思議そうな顔をしてルヴィを見る。
腕組みして、うんと頷く。
自分で言っておいてなんだが、字面がえらく酷い。
「ル、ルヴィ……!?」
何かを察するというのはイクシオリリオンの十八番だ。言った内容は適当な出まかせだが、パトリックの様子を見る限り、配慮的には間違っていない筈だ。
何も言えずにいるパトリックを見て、ネムは頷いた。
「いいわ」
ネムは荷物を片付け、鞄を持つ。
そしてもう片方の時計をした手で携帯を見せる。
「終わったら連絡して。たぶん、自習室にいるわ」
「あんがと。悪いな」
「いいのよ」
ルヴィは少し迷ってから付け足した。
「遅くなりそうだったら、連絡する。先帰っておいてくれるか」
「……そう。わかったわ」
ネムは気負いなく鞄を肩に掛けて手を振る。
動揺しているのはパトリックだ。
「あ、あの、ネム嬢……」
「気にしないで。ルヴとゆっくり話していて。ルヴが聞くならわたしも安心だもの。それじゃあ、リック。またね」
パトリックは可憐で優しいネムの微笑に、胸を打たれていた。
ネムはにっこり笑って講義室を去った。
「んじゃ、話してくれるんだよな?」
ルヴィは付け加えた。
「話してもいい――話せる範囲でいいからさ」




