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黄金が降る  作者: 毎路
56/95

55 “カレッジ”

 足元は、泥と雪がぐちゃぐちゃに混ざり合ったマーブル色だ。

 こうのようにぬかるんだ地面というのは滑りやすい。


 ひょこひょことした足取りで進んでいると、背後からネムの心配げな視線を感じた。ルヴィは安心しきって背中を任せ、既にこの道中の三、四回は転びかけたのを助けてもらっている。


「や……っとついたな」

「そうね、これが毎日だと大変だわ」


 講義棟に入り、ルヴィはネムとお互いの頭の雪を手で払いのけ合う。

 昨日の天気予報の通り、リグナムバイタに来て初めての、雪が降った。


 いつもよりもここまでに来るのに時間がかかってしまった。

 それは他の学生も同じようだ。

 ルヴィたちはいつもよりも遅い時間にも関わらず、多い学生の姿を見かけた。


 午前の講義まであと15分。


 階段を上り、いつもの講義室へ向かう。

 しばらく見ていなかった友人の後姿を見つけて、ルヴィは顔を上げた。


「あ! おーい……って」


 ぎこちなく振り返る人影。

 ルヴィは上げた手を下ろした。


 休み明けというのは、不思議なものだ。休みの間にそれぞれで時間を過ごし、再会する。何も変わらない人もいれば、急に垢抜けたり、日焼けしていたり、見るからに浮かれる人もいれば、まるきり様変わりする人もいたりする。相手は相手の時間を過ごし、自分は自分の時間を過ごす。自分の過ごした時間を他人が分からないように、相手が過ごした時間をルヴィは知らない。


 だから、ルヴィは相手の腕をつかみ、人気のない区画へ連れて行き、硬い表情で久しぶりに再会した友人を見た。ネムも口を押えたまま、ついて来る。


「………それどうした、パット」


 ネムは口を押える手の影で、何とか呼吸し、パトリックを見上げた。

 そして恐る恐る問題に触れた。


「リック、目が……」

「…………あー、あはは」


 パトリックは、黒いマスクはそのままに、サングラスを取った。


「気びっくりさせたくなかったんだけど、やっぱりわかるかな?」

「真面目に不審者だぞ……わからいでか」


 ルヴィは戦慄いて、顎でしゃくる。

 パトリックは諦めたように黒いマスクも外した。

 隣でネムの息を飲む音が聞こえた。


 ルヴィは拳を握りしめる。


「……その目の痣と口の切り傷、誰にやられたんだよ」


 左目の部分に、大きな紫の痣が出来ていた。

 唇は端が腫れていた。

 どちらも治りかけの痕だ。


 パトリックが肩をすくめた。

 肩のコートには雪が残っている。


「もちろん話すよ。ただ、そろそろ時間だ。講義の後にね」

「………だな」


 学業を疎かにはできない。ルヴィたちは一旦話を切り上げ、講義室に戻ることにした。その時には、パトリックは焼け石に水のような、黒いサングラスと黒いマスクを装着していた。


 その下には、痛々しい傷がある。

 品の良い顔が、見る影もないほど無残な有様で。


 酷い怪我をした友人を間に挟み、ルヴィたちは席に着く。

 休み明け初の、火曜午前のジェンキンス教授の教養の講義が始まる。










 空調が効きすぎているのか、ジャケットを脱ぎ、腕をまくって教壇に立つ。

 高い鼻に引っかかるような丸眼鏡。

 やせぎすの顎を引いて学生たちを見渡し、灰色の瞳が笑みの形になった。


 まるで――悪戯を思いついた子供のような顔をする。


「今日はオーソドックスに行こう」


 ジェンキンス教授の教養科目は世界の地域の歴史をピックアップして流れを説明し、学生たちに議論させるというディスカッション形式をとっていた。しかし、休み明けというのを考慮されているのか、ルヴィたちという入院していた学生に配慮しているのか、はたまたいかにも怪我を誤魔化しているパトリックに気を遣ったのか、珍しく完全にジェンキンス教授が話すだけの講義形式で行われた。


「歴史というのは、面白い。その土地に刻まれた記憶を解き明かす。だから私は私の専攻している分野について、人は複数あるというが、不可分の領域だと思っている」


 ジェンキンス教授自身は、昔から一貫して出し続けている研究論文は地政学だが、世界の地政に目を向けるうちに文化人類学へ、その地の歴史を遡り歴史学へと範囲を広げ、それぞれで博士を2つ、修士を1つ取得するまでに至っているほどの優秀さを持つ。歴史学専門の教授がいるにもかかわらず、ジェンキンス教授に教養科目とはいえお鉢が回ってくるほど有能だ。


「人間が引いた国境は目に見えない概念だ。私たちが実際に(・・・)目にするのはどこまでも陸続きの大地。学問の区分なんて本当はない、この大陸のように地続きだ、と」


 だが、見かけからはそうは想像できないだろう。


 このカレッジにおいて、地理学の教授は5人いるが、博士を取得している教授は3人だ。ザイガー教授、メールリ教授、そしてジェンキンス教授だ。ルヴィは博士課程を選択している。人文系の教授というのは、修士のみでも教授になる場合がある。しかしその場合には、修士までの学生しか見ることはできない。つまり、ルヴィにとって地理学の教授は5人いたとしても、実質三択なのだ。


 この3人の誰かの研究室に入り、博士論文を提出することがゴールとなる。

 だというのに、他分野と合わせて2つも博士を取得しているジェンキンス教授は異様だ。


 あのとっつき難いザイガー教授でさえ、ジェンキンス教授と話すのを見かける。


 見た目は人のよさそうなおじさんなのだが。

 博士を取得している地理学の教授の中で、最年長にして唯一の妻帯者でもある。

 

 ……というより、メールリ教授とザイガー教授が若すぎるのかもしれない。


「君たちも知っている通り、このアクイレギアの変革は40年ほど前の大事件が起点となっている」


 教養としてふさわしい、この大国アクイレギアの近代史についてだ。


 ルヴィたちの母国であるイクシオリリオンの近代での最大の転機が今から約60年前の還都だとすれば、アクイレギア史における青天の霹靂とは40年ほど前の例の大事件だろう。あまりにも甚大な被害を被ったために、未だに名前すらついていない。


 アクイレギアの大学および大学院は、その時を境に改革されている。

 そうするよりほかに手がないほどに深刻な被害だったとされる。


「一時はこの大国アクイレギアが壊滅状態に陥った。最悪の事態だが、これを切欠に、専門家などの有識者主導のもと、都市の再構築が行われた。地下を通る鉄道の敷設、当時の最新の技術の採用、交通機能の利便性をさらに高めるため、地下道と一般道と高速道路の併用を行い、人口過密都市であっても渋滞の起こりにくい機能的な都市設計は、今の繁栄に一役買っていることは間違いない。この都市設計は、未開発地帯の理想的な都市モデルとして現在でも採択されているそうだが、この辺りは、交通について詳しい教授に聞いた方がいいだろう」


 アクイレギアにとって21世紀最大ともいえる大事件により、東側にあった主要な都市機能が、西へ西へと移動したのだ。それに伴い、新都市開発計画が施工され、その流れにあい、アクイレギア最古と呼ばれた大学も移転を余儀なくされた。


「最高学府の体制も見直されることになった。教育機関の一新だ」


 この改革により、大学と大学院は同じ敷地内に置かれることを推奨された。

 大学院を持たない大学や、大学を持たない大学院は統合や廃校の対象となった。

 そして呼び名は一律、カレッジとした。


 多くの学園都市はその形態を変容させざるを得なかった。


 もともと名前のつかない大事件により、取り返しのつかないほどのダメージを負った各地の大学は、近接する大学や同レベルの大学との統合や廃校により、急激に数を減らしていった。


 名門と謳われるこのカレッジも、もともとはベイステイツという場所にあったが、移転し、巨大都市リグナムバイタへと移動した。歴史ある建物は出来得る限りそのまま移動した。カレッジの門である赤煉瓦やアイアンアーチなどもそうだ。しかし昔の名残として、大学附属病院の名がベイステイツ総合病院となっていたりもする。そしてこのカレッジがもともと置かれていた場所には、別の名門大学があったが、こちらは統合というよりも廃校に近い形だ。ひと昔前には、8校あった権威ある大学は、現在5校へと数を減らしている。


「大学と大学院とのつながりは密になった。そして大学から大学院への進学率はここから大いに飛躍する」


 大学院進学を希望する大学生は、現役大学院生と同じ研究室で、実践的で学術的な研究を行い、垣根を超えた活発な議論が進められるような選択が取れることになった。それまでは経営学のビジネススクール、法学のロースクールは別の建物を持ち、外で行われる場合が多かったが、この教育を可能とするために、同じ敷地内に講義棟を持つことが必要となった。ただし、医学のメディカルスクールは大学附属病院と切り離せない部分があるために一部が飛び地になっているところもある。


「かつて飛び級が盛んだった時期があったが、それは現在ではあまり推奨されていない。あっても4年までだ。しかし裏では、国が主導して4歳児検診により、早い段階でギフテッドの子どもたちを見つけ、別の教育を施しているという実しやかな噂があるが、真偽のほどは定かではない――とされる」


 講義の内容はウィットに富み、悶々としていたルヴィですら笑いが零れた。


「今までは幅広い分野を一般教養として施していた大学教育も、分野を絞って深い研究を主としていた大学院教育も、変容していった。少子化の進んだこの世界において、ひとりひとりの質が高度に成熟していった時代が今だと言える。事実、研究室において研究を進める大学院生の中には、社会に出ていなくとも、優秀な学生が数多い。このカレッジという敷地内で、最新の研究が個人の学生によって進められているのも珍しくない」


 世に知れた企業の技術研究所などは早くからそういった優秀な大学院生を見つけるなり、ヘッドハンティングしてしまうため、書類上では大学院に在籍しているにもかかわらず、ほとんど大学院の研究室ではなく、外部の研究所に出入りしている場合もある。しかし、そのまま大学院に姿を見せず、何年も籍だけを置いたまま、行方知れずになっている学生も少なくないそうだ。


「彼らが書面上でなくとも生存しているのか、そうではないのか。不思議なことに、学費は払われ続けているので、カレッジ側は5年以上姿を見せない学生に対しては除籍とする制度を教授会で作成し提出するが、何故かいつも理事会において反対多数で棄却されて通らないまま今に至る。君たち自身の自衛が必要だ。怪しい勧誘にはくれぐれも担当教員に相談するように。君たちはこれからの時代を担う一人だ。アクイレギアはそうした人材の宝庫となるだろう」


 華麗な演説のような幕引きに、どこからか拍手が上がる。

 それが広がりルヴィもそれに続いた。

 するとジェンキンス教授がにこりと典型的なスマイルを見せ、お辞儀をする。


 こんなに素晴らしい講義はいつまでだって聞いていたい。

 感動したが、この時間の次には、専門の講義を控えている学生が多いため、終了の時間と共に、足早に他の学生が去っていく。そして教壇からその切れ目を見計らってジェンキンス教授が声を掛けてきた。


「元気な姿をみれてよかったよ、ルヴィアス」

「ご心配おかけしました。お見舞いのフルーツもありがとうございます」


 入院していた病室には果物籠があった。

 あれはジェンキンス教授からだという。


「なかなか目が覚めないとネムから聞いて、フルーツは失敗だったかなと思ったよ。アクレギアの果物は育ちも早いが、傷むのも早いから……。妻に言われた通り、花の方がよかったかとね」

「そんな。気にかけていただいて嬉しかったです。美味しくいただきました」


 それに、ネムが適切に処理をしてくれたので。

 しかし……アクイレギアの果物事情を調べるのは恐ろしい気がした。


「ネムも脚の具合が良くなったようだね。あの時は少し引きずっていたから」


 何のことだとネムの方を見ると、可憐な笑顔でもう治りましたと答えていた。

 かわいい。……いや、そうじゃなくて。


「ネムさんや……オレ怪我してたとか聞いてないんだけど?」


 ジェンキンス教授の前なので、問い詰められない。

 ルヴィは奥歯を軋ませて、やんわり尋ねる。

 するとネムは如何にも不思議ですといった顔をした。


「ルヴに話したときはもう何ともなかったもの」


 すました顔だが、そっと盗み見ると、瞬く回数がいつもより多い。

 ジト目で睨みつけていると、ジェンキンス教授がパトリックに声を掛けていた。


「それでパトリックは、やんちゃでもしたのかな」


 パトリックはさすがにサングラスを外した。

 丸く薄っすら残る、治りかけの痣が痛々しい。


 へらりと目許だけで笑う。


「どうです? ちょっとは男前になりました?」


 ジェンキンス教授は首をすくめた。


「なかなかにね。訴えるのなら、知り合いの弁護士を紹介するよ」

「実は既に5億ドルで示談中なんですよ」

「それは腕のいい弁護士だ」


 パトリックが馬鹿馬鹿しい冗談を言う。

 はあ、とジェンキンス教授がため息を吐く。


「まったく、長く教員生活をしているけれどなれないものだ。不意打ちで背中から銃撃を食らったような心地がする」


 まず予想していなかったということだ。


 ルヴィもそうだ。

 ネムが足を引きずる怪我だったとは知らなかった。

 パトリックが殴られるとも思っていなかった。


 自分が、丸二日も眠っていたとは分からなかった。


「人生、思いもしない目に合うものなんだなって思いました」

「言うなれば、人生とはそういうものだよ」


 ジェンキンス教授は歯を見せて笑った。


「だがね、目の前に起きることに対してどう向き合っていくかは、自分で選ぶことができる。身を引いて自衛することも大事だが、恐れず踏み込むことも選択肢としては常にそこにあるんだよ」

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