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黄金が降る  作者: 毎路
55/95

54 意外性

 秋休みが明けて初日の月曜午前。今期履修している中でも抜きんでて中身がずっしりとしたザイガー教授の地質学の専門講義を無事に終え――あとは帰宅するばかりとなった。しかし体は動かない。外界の気温は既に真冬の寒さを誇り、屋内では暖房が常時稼働している。おかげで窓ガラスは結露しているし、講義室の備え付けの長机には確かなぬくもりがあった。木目が美しい暖かな天板に頬を寄せて、ルヴィはため息を吐く。腕で枕にすると、手首の銀の輝きの時計が目に入る。ルヴィの体温と同じ温かさになっている。机を撫でながらため息を吐いた。


「はあああー、これがカレッジだよなー。はるか昔のことのようだぜ」

「頭が呆けていたわ。講義の感覚を取り戻さないと」


 無事に退院したので、ザイガー教授の専門講義に出席できた。

 ネムは久しぶりの専門用語の数々に頭痛を覚えた顔をしている。


 すると、教壇にいたザイガー教授が動いた。


 扇状の段々になった席を一歩一歩上がって来る。

 緩くまとめられた銀髪が揺れ、残っている学生たちの硬い視線が集まる。

 学生の戦々恐々とした注目をものともせずに、ルヴィたちの前で立ち止まる。


「――事故に遭って入院したとジェンキンス教授から聞いたが」


「あ……はは。昨日退院しました。今はこの通りなもんで……」

「は、はい。その、ご心配をおかけしました。もう大丈夫です……」


 あのザイガー教授から自ら学生に話しかけたことに、驚きすぎて変な声が出た。ネムも声が裏返っている。しかし、考えてみれば、専門講義の学生はもともと十数人しかいない。そのなかの学生が入院したと聞けば、言葉も掛けに来るだろう。


「わからないことがあれば言いなさい。今日は無理せず帰って休むように」


 ザイガー教授はそう言って去りかけたが、振り返った。


「言い忘れていた。オルガ・クィーニーだが、受けるカレッジを決めたそうだ。ここではない」

「あ、じゃあもう……」


 そういえば先週の講義終了後に、オルガが珍しく、ザイガー教授に話に行っていた。……その時には、既に気持ちは決まっていたのかもしれない。


「まあ……お知らせくださり、ありがとうございます」


 社会人として働く聴講生のオルガは、学生のルヴィたちとは一線を引いていた。

 そのため、友人とは言えなかったが、その中でも話している方だった。


 残念ながら同じ道を進むことはなかったが、応援したい。

 ただ、気がかりがあることも事実だった。


 オルガが話していたことすべてが正しいと鵜呑みにするわけではない。

 しかし、悪評のありそうな教授のもとに行ったのかそうでないのかだけ確認したかった。


「差し支えなければ教えていただけませんか。オルガはどこを受けるのか」

「エリフエール大学だな」

 

 あっさりと返され、横にいるネムと一緒に呆然とした。

 否応なしに、モラルに問題のあるという教授のことが思い出される。


「それは……」


 ネムは何か言いかけたが唇を噛み、難しい顔をしていた。

 潔癖なところがあるネムには、あれ自体が受け入れがたい話だっただろう。

 そして知り合いがその教授のもとに行くかもしれないと思うと……。


 するとしばらく黙っていたザイガー教授が薄い唇を開いた。


「――聴講していた環境科学のゼミと迷っていたようだが、結局、私が先週紹介した同大学の地質学のヘイズ・ゴリッジ教授のもとにしたようだ。畑違いではあるが、検査機器は同じものだ。聴講してどんなものか確認できなかったことを気にしていたようだが、ヘイズとは機知の仲なので、私がある程度話をつけておいた。問題ないと断言はできないが、融通の利かない奴ではないので何とかするだろう」


 まともな教授のもとならよかった、これで安心です――そんな言葉はルヴィたちの口からはまず出てこない。この会話に聞き耳を立てているこの講義室に残った全ての学生(専門講義なのでそれでも数名だが)に共通する衝撃があっただろう。


 内心で悲鳴を上げながらルヴィは周囲を見回し、ぶつかり合う視線へ、言葉にできない驚きを互いに伝え合う。



 こんなにも……こんなにも学生に対し親身になってくれようとは。

 しかも相手が、正規の学生ではないにもかかわらず、だ。



 冷淡と思われていたザイガー教授の意外な一面は、ルヴィに、スキャンダラスな教授をギリギリ回避したオルガを祝福する以上の感動を与えた。


 勿論、これはオルガにとっても大いなる安心材料だった。

 見るからに自分にも他人にも厳しそうなザイガー教授が認める相手なのだ。

 紹介されたゴリッジ教授がモラルを欠いた人物の筈がない。


 ルヴィは自分の隣で輝く薄青色の瞳に無言で頷きかけた。

 何も言ってはいないが、ふたり同時にほっと顔を緩ませる。


 その様子を、眼鏡越しに静かに眺める視線には気づかなかった。

 ザイガー教授は眼鏡の蔓に手をやり、掛け直しながら補足した。

 

「伝言だが、『心配するな』とのことだ。連絡すればいいものを」

「あ、オレたち、連絡先を交換してなくて」

「……こんなことになるとは、その、思いませんでしたので……」


 ネムの言葉は違う意味も含まれていそうだった。


 勿論、オルガのこの話が、急だったのもあるが。

 ルヴィの理由として、一番は、相手が一線を引いているのに、踏み込もうとは思えなかったのだ。そして、これでつながりが完全に切れてしまった。


「でも、ザイガー教授のおかげで、心配はなくなりました」

「……ありがとうございます」


 まだ気がかりなことが満載ではあるものの、社会の荒波に揉まれてきたオルガならばうまくやるだろう。あのザイガー教授が推挙した教授のところなので、オルガの門出を素直に祝う気持ちに切り替わるのは難しくはなかった。


「最後の頼みだというから応えただけだ。まったく……教員を伝言役にするなど、聞いたことがない」


 でも伝えてくれてるよ、とは勿論指摘できない。怖くて。

 ザイガー教授はそういって、体の向きを反らすと、教壇まで下りていった。

 そのままいつものように無駄のない動きで片付け、講義室を出て行った。


 講義室のそこかしこから、ため息のようなも声が漏れ聞こえてきた。

 ネムも口許を押さえながら零す。


「………ザイガー教授って、何といえばいいのかしら……うまく、言葉が見つからないのだけれど」

「わかる、分かるぜ………衝撃だな」


 ただし、きゅんとするには鋭すぎる方なので、ルヴィたちはそっとその衝撃を胸に収めた。ただ、この件で来季のザイガー教授の専門講義の面子は、ここにいる学生がほぼ確だろうと思った。









 名状しがたい感情ならば、今は無理をせず名前をつけなければいい。各自、己の身の内にそっと秘めることにして――いつも以上に言うことを聞きたくなるザイガー教授の言葉に従い、ルヴィたちは図書館やカフェテリアなどにも寄り道せず、ひたすらまっすぐアパートに帰ることにした。


 そうしてやはり実感したことだが。


「さ、さび………」

「こ、の道路、凍ってない、かしら……?」

「……そ、かも」


 外は寒く、出ている時間が長ければ長いほど、風邪になる確率が高くなるだろうとひしひしと感じる。ゲームであれば体力のゲージが歩くだけで削られるタイプの極めて鋭い寒気だ。吹き付ける風にも負けず、最寄駅から降りた先を歩き続けた結果、昨日の夕方から復帰したマリエによって管理された、温かい我が家へ迎えられた。


「まあ、寒かったでしょう。お帰りなさい、ふたりとも」

「あたたたかーい! ただいま、マザーマリエ。明日は雪が降るそうで、オレは怖いです」

「戻りました。マザー、雪が降ったら、車の運転には気を付けてくださいね」


 管理室にマリエがいないなんて考えられない。ネムはマリエを気にしつつもそこいるのを見て喜んでいた。家に帰って来る時に、母親がいる感覚だろうか。


「心配してくれてありがとう。チェーンを巻くから大丈夫よ。何年も運転しているの。もし何か買い物に出かける時は連れて行ってあげるから伝えてね。それと……あったわ。ルヴィに重要な届け物が来ていたの。さっきよ。どうぞ」


 ネムをみながら考え事をしていると、マリエから封筒を差し出された。受け取ると、それは、入院していた病院からのルヴィの分の医療費の明細書だった。


「うわあ……ありがとうございます。ついに来たって感じですね」

「ああ……確認しなきゃだわ」

「海外保険の範囲内だろうから、そんなに心配はいらないと思うわ」


 マリエの元気づける言葉に、ルヴィもネムもにっこり笑顔で頷いた。

 そして、階段を上り部屋の扉をパタンと閉めると同時だった。

 大きなため息が二つ零れる。

 

「……わたし、あっちで甘いものを用意するわ」

「頼んだぜ……」


 ルヴィはぱんぱんと頬を叩く。

 ネムはキッチンへと向かった。



 そしていざ、決戦の時。



「さー始まりました! よっ開封式ー!」


 無理やり盛り上げてみたが、気が重い。

 ネムは砂糖増し増し激熱ココアを用意してくれた。

 二人で息を吹きかけて、一口飲み、明細の開封に臨んだ。


 一枚目から、細かな金額の内訳が書かれていた。

 イクシオリリオン円に直すと、大雑把に以下の通りだ。


 部屋代が一泊80万円。7日間で、560万円。

 検査と結果で30万円。

 再検査と結果で30万円。

 緊急入院費で150万円。

 救急車費用で基本15万円。郊外だったため追加費用で計30万円。


 しめて、800万円。

 注釈で、治療費は請求なし、再検査費用は通常料金とある。


「ネ、ネムの分ってこんなんだった?」

「………こうかしら」


 ネムが出した用紙には、入院2日分の明細が載っている。


 部屋代が一泊80万円。2日間で、160万円。

 緊急入院費で150万円。

 治療費で4万円。

 救急車費用で基本15万円。郊外だったため追加費用で計30万円。


 しめて、344万円。


「ふたり合わせて、1144万円……」

「まだあるわ……」


 欧州豪華列車の旅における、キャンセルにおいて、唯一料金がかかった、行きのジェット機チャーター代100%負担で700万円。


「すべて合わせると、1844万円……」


 900万かける2人分。

 しかし、これは大雑把な数字なのだ。


「ネムさんや、わかり易く900万円って言ったけど、兄貴からの送金は、実際のところ細かくいくらだっけ?」

「待ってね。……ひとり当たり936万円ね」


 ふたり合わせて1872万円。


「……大丈夫、予算の範囲内よ」


 そんな、大丈夫、傷は浅い――みたいな。しかし……。

 ルヴィはソファに倒れ込んだ。クッションがいくつか落ちる。


「ファインプレーだぜ……」


 ルヴィは胸に手を当ててドクドクと音を立てる心音を感じた。

 これが血潮の音……。

 ルヴィの額には冷や汗が出ていた。


 ネムがクッションを拾い上げて胸の前に抱え、ココアを飲んだ。


「保険だけれど、今回については、一旦わたしたちのほうで立て替えをするわ。口座からの引き落としで、後日全額戻って来るの。通帳の登録は、ルヴが入院しているうちにやっておいたから、あとは自動よ」

「ネムにオレの通帳の管理もしててもらってよかったぜ」


 おかげで兄から送られてくる、期限付きの、溶かす金の管理は完璧だ。


「ちなみに、今回のお金はちゃんと使ったことになるらしいの」

「やった、じゃあ兄貴には心配ないって伝えとこ。端数も生活費で消えるだろうし、完璧だな」


 これからも頼んだ。そういう気持ちを込めて、起き上がりココアを手に取った。

 かつん、と音を立てて乾杯する。


「ひとまず安心だな。……でもさ、こんな大金、普通は立て替え出来ない人も多いんじゃないか?」

「通常はキャッシュレスで立て替えておくの。そうすると、翌月の引き落としになるのだけれど、その間に保険会社が手続きをして、実質の立て替えはなしで、保険会社が直接支払うようにできるの。ただ、弁護士を間に立てたり、延長するための申請が必要になっているらしいわ。これは最近になっての新制度ね」

「口座を登録したら、延長の申請が要らないのか」


「ええ。そんな暇ないもの」


 あっけらかんとネムは答えた。

 ふむ、とルヴィは幼馴染のすっきりとした表情を眺めた。


 今日のザイガー教授の講義もだが、ネムは時々勉強でいっぱいいっぱいな節がある。かくいうルヴィも、やっと目覚めたときには、一瞬エルム語が頭に入ってこなかったものだ。それだけ異国の言葉は自分のものになりにくいということなのかもしれない。


「やー、金って便利だな」


 ルヴィはうんうんと頷き、長兄に感謝した。

 金は万能というが、そうじゃないことばかりだと恨めしく思っていた。

 今、改めて実感したが、なかなかに万能だ。


「ところで、さっき確認するときに気づいたのだけれど、また送金があったのね」


 ルヴィはココアを飲み込むのを忘れた。

 昨日の通信を思い返す。


『じゃ、また明日よろしく頼んだ』


 ごきゅりと音を鳴らして飲み下した。


「このことかよ……」


 ルヴィも確認したところ、新たに生活費の10倍の金額が入ってきていた。

 前回の30倍よりはましだ。


「期限は『年明け以降も可』ですって」

「差出人のコメントのところを、使用期限で送って来るのはどうなん、ってオレ思うんだけど」

「わかり易いじゃない」


 ネムは肩をすくめた。

 ルヴィの隣に腰掛け、他の落ちたクッションも拾い上げた。


「フォールセメスター終了の12月まであと少しよ。そしたら冬休みじゃない? その時に、今度こそ旅行しましょう?」


 瞬時に頭が切り替わる。

 ぴんと指を立てて腕を上げて発言する。


「オレ、シンシティのカジノに行きたい!」

「……そんなに行きたかったのね」


 期待を込めて年下の幼馴染を見つめる。

 ネムは苦笑した。


「お兄さんだけれど、ルヴはちゃんとFBIの人のこと伝えたの?」

「おん。まーやるかやらんかはわからんけど」


 金を積まれたら、あれはやるなーと思いながらため息を吐く。

 長兄には、教えられていたデイビッドとヒーカンそれぞれの連絡先を伝えておいた。

 あとは、自分でやると言っていたのだ。


「オレからはノータッチ。勉強に集中しろだってさ」

「………まあ、わたしたちは学生だもの」


 それもそうなのだ。


 明かりの灯った部屋で、ネムとココアを飲む。

 両手でマグカップを包むネムの手首には、カーディガンの端から銀色の腕時計が見えた。ルヴィと揃いの腕時計だ。同じ時間を共に歩む。今までも、これからも。


 ……長兄に、釘を刺されるまでもないことだ。


 身の回りで起きる様々な事象の内、自分に必要なものだけを選び取る。

 そうでなければ。

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