53 ムーンフェイズ
マリエの車を降りると、久しぶりのアパートが見えた。ガレージの壁は壊れたままだが、きちんと掃除されていた。刈り込まれた芝生と、花壇には傷みかけた白い蔓ばら。玄関の扉が開き、褐色の肌の女店主が姿を現す。白いケープをしたマリエが玄関へと片腕を差し伸べ、ほほ笑んで振り返った。
「さあ、ふたりとも。お帰りなさい、ウェーピング・ウィローへ」
ここにふたりの管理人が揃い、出迎えてくれる。
はじめは『ようこそ』
その次は『いらっしゃい』
そして今は『お帰りなさい』
ルヴィとネムは顔を見合わせた。
そして声を揃えた、「ただいま」
青い芝生に、しだれ柳の先端が掠めていく。
墨で描いたような影が揺れていた。
我が家だ。アパートの中に入ると温かい空気が迎えてくれた。これは雰囲気もあるが、物理的に温かい。セントラルヒーティングのおかげだ。ネムの荷物を持ち、木造の階段を上るとぎしぎしと特有の軋み音が聞こえる。上がっていく最中に、他の住人の気配を感じた。普段はほとんど感じないのだが、寒くなってきた季節の日曜なので、外に出ずに部屋に籠っているのかもしれない。3階に上がって、ネムが鍵を開けてくれるのを待ち、懐かしく感じるようになった扉を開く。
「ちょっと埃っぽいわね……」
「今日は掃除だな」
それぞれの部屋に入って着替えや荷物の整理、そして数日間いなかったため、掃除をする。ルヴィは、やることがあったので、片付けを早々に終えると、早速PCを起動した。来ているパスワード式のメールを開封し、中身を確認し、接続のテストを試みた。
すると、扉が叩かれた。
ルヴィは手が離せず、代わりにネムが出る。
扉越しに、いくらか話して、扉が閉まる音が聞こえた。
ルヴィはPCの接続で、ようやく正常に作動していることを確認した。
兄からのアドレスは更新されていて、接続時間をメールで送った。
「ルヴ、今いいかしら」
「おう、大丈夫だぜ」
入り口に、甘い香りのするケーキと、小さな紙袋を下げたネムが佇んでいた。
ネムは礼装から、普段着のワンピースとカーディガンに着替えていた。
「ジャミラさんが、快気祝いにショートケーキを持ってきてくださったわ。あまり特別扱いは良くないから、こっそり食べるように言われたから、ここで食べるのと、この紅茶はマザーから。ハーブティーだそうよ」
「うわ、オレもお礼言って来ればよかった」
時間をみれば、16時半だった。
マリエは帰宅する時間で、ジャミラは雑貨店を閉めるのに忙しい。
「せっかくだから、今食べましょう? お礼の品はまた後日ね」
ネムの提案にルヴィは頷いた。
なんとワンホールあるショートケーキは、本国のものと変わらないフォルムをしている。白い生クリームでコーティングされたケーキにイチゴが乗っていた。そこへ、ネムが細い蝋燭を立てて、火をつけた。
「お祝いらしくね」
「いいな。パーティーみたいじゃん」
ネムがそっと机の上で両手を組んだ。
その上に華奢な顎を乗せて蝋燭の火を見つめる。
蝋燭の先端で、小さな火がひっきりなしに揺れ動いている。
「わたしたち、ここへ来るまでの準備のために、まともにお祝いもしなかったわ。難関の入学試験に合格したというのに、ね」
「あーあのときは忙しかったからな……今もそうか」
課題に追われ、勉強に日々の時間を費やす。
目まぐるしく時が過ぎていく。入院していた時間が惜しいくらいだ。
そう考えるルヴィの向かいで、ネムが眉を下げて微苦笑した。
そして、机の下から、包装された箱を出した。
「今更にはなるけれど。これ」
ルヴィは幼馴染にリグナムバイタの大学院へ行こうと誘いをかけた。
慣れないながらも、わき目も振らず、この渡航のために時間をかけた。
そういえば、前回立ち止まったのはいつのことだっただろう。
「合格おめでとう。……本当は、欧州横断列車でのサプライズを用意していたのだけれど、頓挫してしまったから」
「そっか。………いろいろありがとな、ネム」
走り続けるばかりがいいのでは、きっとない。
こうして立ち止まって振り返る心のゆとりを、示してくれる人がいるのは有難いことだ。
震える両手で受け取る。
開けていいか聞いてから、包装を解くと――箱の中には、腕時計があった。
シルバーの落ち着いた色合いが美しい。
文字盤の下のところに、目盛りではない、円形の何かがあった。
ルヴィは詳しくないので、どこのメーカーかは分からない。
けれども、ネムが選んだだけあって、洗練されたデザインだった。
「ムーンフェイズ。お揃いよ」
ネムが机の上で頬杖をついていた。
その左手首のカーディガンの袖をめくって見せた。
一回り小さく華奢だ。
「これまでも。そして、これからの時間も。いいでしょ?」
「やー……………………ちょっと」
ルヴィは瞬くのを堪えた。
柄ではないが、眼球の水分量は、防波堤の決壊寸前だ。
「なあに、泣いているの?」
幼い記憶まで遡っても、ネムはルヴィの傍にいた。
思い返す、どの記憶の中でも、薄青色の髪と瞳を持つ女の子の手を、ルヴィはいつも引いていたように思う。
上に兄はいたが、下の兄弟はいなかったルヴィにとって、年下の存在はただそれだけで嬉しかった。どこへ行くにも連れて行きたかったし、色んなところを見せてやりたかった。
いつまでこの手を引いていてもいいのだろうか。
……いつまでだって引いていたかった。
涙腺にたまった水分が鼻孔に移動し、ずるずると鼻をすすった。
すると、笑いを含んだ声で畳みかけられた。
「感動した?」
「いやさ。………オレは幸せ者だなって思ったんだ。ここまで一緒に来てくれて、ありがとな」
新しくできた帰るべき場所。向かいの雑貨店にジャミラがいて、1階の管理室にはマリエがいる。3階の角部屋に、ルヴィとネムの部屋がある。カレッジからの帰り道、病院から戻る場所が、異国の見知らぬようだった土地にできた。それはとても幸せなことだと思った。
「あら、ルヴ。これで終わりじゃないのよ?」
ネムが、オットセイのような嗚咽を漏らすルヴィの顔を覗き込んで笑った。
面目ない。しかし兄ちゃんは感動してるんだ。
「ああ、始まりも始まりだよな」
湯舟に浸かるネムが流すクラシックが微かに聞こえる。
シャワーから出て、目も冷やし、体調はばっちりだ。
電源をつけて、いつものように操作すると、接続はすぐに出来た。
「あー。はよ? ばんわ? 兄貴」
『いやー判らん。こっちが朝なのか夜なのか。……昼だな』
「ちわー。昼めし食ってる?」
兄は手に持っていたものを見せた。
銀色に光る真空パック。
『これだな。ライチ味のゼリーだ。こんにゃくタイプ』
「ちゃんと食べててよかったぜ」
ルヴィはうんうん頷いた。いつも錠剤やエナジードリンクで済ませている兄だが、こうしてルヴィがチクチク言ってきたおかげか、固形物を食べるようになっている。感動だ。
『心配かけてすまないな。俺はいい弟を持った』
「照れるぜ。……あ、報告なんだけど。オレ今日退院したんだ」
兄は笑顔を解いてゼリーを後ろに放り投げた。背後でべしゃっと音が鳴る。
そして腕を組み、上体を起こした。
疲労による目つきの悪さが、迫力の眼光となって画面越しに突き刺さる。
画面の発光できらりと一筋光る。
しかし、白髪みっけ、とはなかなか指摘しずらい空気だ。
『詳しく言おうな』
「な、なんか事故に巻き込まれてん……」
似非方言を使って誤魔化そうと試みる。
しかしあまりに兄の眼力が強くて誤魔化し切れず白状した。
『んで? なんでFBIが出て来るよ?』
「……こう、偶然の産物で」
ルヴィは小さくなりながら、細々と説明した。
話し終わると、目を閉じて聞いていた兄は黙ったままなので、しんとした。
そしてしばらくしてから、兄はおもむろに口を開いた。
『………ネムちゃんが大変だな』
「それはそう」
キャンセル手続きのところで、兄が目を閉じたまま、うげえと顔中に皺を刻んで嫌そうな顔をしていた。……その手続きをすべてしたのはネムだ。
ルヴィは兄の言葉に即座に同意した。
眉間の皺を揉みながら、兄は突っ込んでくる。
『んで? なんで、睡眠薬を知らんやつに盛られてるんだ?』
「これがさーっぱどわかんね」
兄は深いため息をついた。
天井を仰ぐ。顎には無精ひげが見えた。
相変わらず兄は多忙である。
仕事ぶりを実際に見ているわけではないが、さすがに鈍いルヴィでも判る。
『ネムちゃんに心労かけたな……』
「それはそう」
しみじみとした口調も一転して、冷ややかな顔になる。
『FBIも原因や動機が掴めないのか?』
「うん………らしい。知ってそうな実行犯は現在行方不明だもんよ」
『無能め』
仕事での長兄の顔は、裸足で逃げ出したくなるほど冷徹で厳しい。
ルヴィは黙り込み、こわごわ長兄の顔を盗み見る。
怯える末弟の視線に気づいてか、長兄はガシガシと頭を掻いた。
『……んで?』
「実はさ、その……FBIから兄貴に依頼らしいんだ」
『その手の依頼は別ルートで来るはずだ。ほんとにFBIか?』
ルヴィは空気を飲んでしまい、咳き込んだ。
思いも掛けなかった疑いだ。
「えー……どうだろ。IDは見せてもらったけど、偽物って可能性もあるかもしれんかも微小に。その、デイビット・バートンとヒーカン・サイクスっていうFBI特別捜査官でさ。個人の依頼かな? そのふたりの直属の上司からの。推測だけど」
FBI捜査官であることが正しいのであれば、だが。デイビットとヒーカンとは、バディだというが、力関係はデイビットが上だろう。しかし、調査への熱量はヒーカンに軍配が上がる。……というより、ネムの話からすると、現在のFBIの主力は違う捜査が優先されているようなので、ヒーカンの行動こそが全体の動きに逆らっているとみることもできる。
違和感といえば、確かにFBIの中の捜査にしては微妙な気がした。
映画の中の知識だから、かもしれない。
全体的なスタイリッシュさがないというか。……ヒーカンだからかもしれない。
長兄はあっさり口角を吊り上げた。
『なら、出せるな』
当然のように言うが、金の話だ。
ルヴィは下唇を出して嫌な顔をした。
「上と掛け合うとは言ってたけどさー」
『いい心がけだ。もし、お前に値切れるか聞いたら、断るところだ』
兄は画面の端に見えるエナジードリンクを開けて水のように飲みだした。
「それって命の前借りっていうじゃん。オレ、兄貴に長生きしてほしいんだけど」
『任せろ。長生きできる薬は開発済みだ』
「マジか……」
あ、これオフレコな、と兄は口にした。
はいはいとルヴィは頷いた。
『じゃ、また明日よろしく頼んだ』
「うん……?」
時間だ、と長兄が視線を泳がせ、ひきつった笑いを見せる。
ルヴィはとりあえず時間だというので頷いて、通信を切った。




