52 退院
朝、4時21分に目が覚めた。馴染み無い天井と、胸に年下の幼馴染の腕が乗っていた。すっかり寝入っている。部屋の中だが、自動でカーテンを開いても、さすがにまだ日が昇っていないので夜のように暗い。シャワーをするのもここでは睡眠の邪魔になる。
「暇だなー」
昨日会ったヒーカンは暇ではないだろう。
軽く首を突っ込むにしては、事態が混迷してきている。
我がことながら、ヒーカンの視点に立てば、ヒーカンの目的に対して、この件に払う労力は意味があるのかは甚だ疑問だ。
あのテレンス・マードックの携帯からの通報は、どのように判明したのか。携帯本体が見つかったとすれば、彼自身は無事なのか。自ら通報したマードック。ここにおいて彼が主犯ではないことが確定してしまった今、何事もなくFBIに保護されていればいいのだが。
「闇深案件だな……そろそろ兄貴に連絡しないとだし」
今日は、午前中にネムがマリエと共に教会へ行くのだ。
日曜の教会と言えば、ルヴィも行ったことはない。
観光としては赴いたことはあるのだけれども。
午前中、ルヴィは簡単に担当医と問診して問題なければ、午後から退院だ。
そのための荷造りをしなければならない。
午後に、教会からマリエが車を回してくれて、手伝ってくれるそうだ。
「さっさと、兄貴に依頼を飲ませて、ヒーカンを休ませないとな」
調査を単独で行動しているらしいヒーカンは、どう考えても要領が悪い。
部外者であるルヴィが思わず口を出すレベルだ。
ただ、根気が物凄い。
ネムはヒーカンの虱潰しの調査を、効率度外視だと悲鳴を上げていた。
「何をそんなに追ってんだろ」
ヒーカンがすべきなのはその事件の重要参考人の口を割らせることだ。
そしてその糸口が、中毒を起こしている人物の治癒であれば、ルヴィに睡眠薬を混入させた事件など放っておいてもいい。ルヴィの目が覚めたのだから、ルヴィを窓口として、長兄へ必要な中和剤あるいは解毒剤を依頼させればいいだけなのだ。
ヒーカンは、何かつながるかもしれない、とこの件に首を突っ込んでいる。
それは果たして、本当にヒーカンの追う事件に必要なのか。
聞いてみなければ分からない。
しかし聞いてしまえば、その件に巻き込まれに行くようなものだ。
ルヴィの道は、それではない。
「だよな、ネム……」
ネムが起きだす前に、シャワーを浴びる。烏の行水で、ササっと出たルヴィは、目をこするネムに洗面を譲った。ネムにしてはものすごい早起きをしている。朝の7時だ。メイクと髪を整えて、新しい洋服に着替えた。
「似合うじゃん。やっぱりネムはそういう色が似合うな」
「よかったわ」
淡いクリーム色のセットアップを着ている。
靴はヒールが低めだ。
「………でも、眠くて、こけちゃうかも」
「コーヒーでも飲むか?」
ネムは首を振った。
どうやら、待ち合わせの時間に間に合わなくなるらしい。
「朝食も一緒に食べようって約束してるの……」
「ちゃんを目を開いて歩くんだぞ」
うん、と頷いたネムは、コートを着てバッグを持って、部屋を出る。
「行ってきます。お昼にまた迎えに来るわ、マザーと」
「おう、待ってるぜ」
ふらふらとした足取りだが、大丈夫だろうか。心配で、窓の下を覗き込んだが、ちゃんとマリエのらしい、モスグリーンの車が病院の外へ出ていくのが見えたので、合流できたのだろう。一安心だ。
窓から離れて、荷物を整理しようと肩を回す。
するといつの間にか電池が切れていて充電していた携帯の、通知音が鳴った。
パトリックからだった。もうリグナムバイタに戻ってきたが、ルヴィは大丈夫かという心配のメッセージだった。それは、メンターである、キャロラインとジェフからも連絡が来ていた。よく見ると、日時は前のものだった。妙なラグがあった。
「冬だからか? なんか電池の切れが早いんだよなここ最近……」
大丈夫だという返事をそれぞれに返し、今日退院すると伝えた。
最後の問診だということで、部屋に案内されたが、そこには担当医ドリスコルの姿はなかった。その時に通された部屋でも、こんな豪華な部屋が問診を行う部屋なのかと思ったのだが、それ以上の豪華さだ。診断するだけの部屋に、大きな水槽でアクアリウムが必要なわけでもないだろう。古代魚が泳いでいるほどの大きさだ。病室は白ではなく、壁紙まで張られていて、下は絨毯だった。異常だ。そして、その中にいる相手も、普通の医者ではなかった。
「この病院の医師が申し訳ないことをしました。心よりお詫びします」
ルヴィは白い髭の院長から頭を下げられ、慌てて手を体の前で振った。
「あ、いえ。えっと、マードック先生は?」
「解雇処分に。しかし行方が分からないもので、戻り次第となりますが」
「はあ。あの、オレ、悪いところはないんですよね?」
「異常は見られませんでした。オールAです」
ほっと胸をなでおろした。
ところで、ルヴィの新しい担当である、ドリスコルの姿は見えないのだが。
「何かありましたら、是非このラナマンにご連絡を。くれぐれもあの方にはよろしくお伝えください」
変更になった担当医ドリスコルと同じようなことを院長も言う。
いつからこんなに仰がれる人間になったと気まずく頷きかけたときだ。
はた、と首を傾げた。
「あの方? え、誰のことですか?」
ヒーカンのことだろうかと思ったが、ルヴィはドリスコルに捜査協力を依頼するようには提案したが、ここの院長についてはノータッチだった。FBIと約定を交わしたのも、院長ではなくドリスコルだと思ったのだが、まさか院長自身なのだろうか。わからん。
「それはもちろん」
院長が告げた名前だが、ルヴィはさっぱり覚えがなかった。
とりあえず頷いて、会ったら伝えますとは言った。
院長は満足げな顔になった。
何かと勘違いされているのか、下に置かない扱い。腕を組んで悩んでいると、道が分からない。ルヴィは通路で看護師を見つけて近寄った。
院長の座の争いがまた大変だと、看護師たちが話している。そこへ頭を下げて病室へ案内をお願いしたら、嫌な顔をされた。すると、ちょうど出勤してきた風貌の、女看護師が奥からやって来て、「あら」と声を上げる。
「あ、その節はどうも」
「また迷ったの。待ってて、すぐに着替えて案内してあげるから」
ルヴィの脇を抱えてストレッチャーへ乗せてくれた看護師だ。
ちなみに、前回送ってくれたのは、足の方を持ってストレッチャーへ乗せてくれた男性の看護師だった。二人は仲がいいらしい。
「お待たせ。さあ、あんたたちは無駄口叩いてないでさっさと仕事しなさいよ」
喋っていた看護師たちは口を押えて気まずげに去っていく。
「若い看護師はねえ、ああやって仕事からうまいこと逃げるのよ。お金持ちの患者がいたら我先に担当になろうとトラブルになったりするし……ここを婚活の場だと思っているみたいだわ」
「へー。実際に患者と付き合ったり、結婚する人もいるんですか?」
「いるのよねえ。何なら定番だったりもする。患者と恋愛したり、医者と恋愛したりよ」
不倫も恋愛のうちってね、と。
恰幅のいい看護婦は面白げに言うが、呆れた顔だ。
「ここじゃこの手のゴシップに事欠かないわ。……他へは内緒にしてよ?」
「白衣の天使のイメージが崩れるからですね?」
茶目っ気たっぷりに言うので、ルヴィも笑って軽口を返した。
黒子を上に乗せた唇がぱっかりと開いて、腹を揺らして笑う。
「ああ、笑った。じゃあ、天使の案内はここまで、到着よ。また迷子になったら、いつでもナースステーションに来るのよ?」
男の看護師と同じ言葉だなと思っていると、それに一つ付け加えられた。
両手の人差し指と中指を曲げ伸ばしする。
「そこら辺にいるナースは患者に呼ばれて“忙しい”時があるのよ」
海外における、皮肉のジェスチャーだ。
荷造りをしながら、頭の中で様々な情報がぐるぐると錯綜する。院長の口から出た、聞き覚えのない名前。院長の座の争い。病院内の複雑な恋愛模様。
「っと、いっけね。早くしないと、迎えが来ちまうな」
ルヴィの荷物は下着ぐらいだ。あとは退院時に着る服が一揃い。ネムの服が数着でそれは既にまとめられていた。充電器から携帯を引き抜いて迎えの時間帯を確認した。
病院食最後の昼食をオーダーして食べ終えてから、迎えに来てくれたマリエの車に、ルヴィは荷物を詰め込んだ。と言ってもネムの気替えくらいしかない。ほとんどが用意されていた。
ネムは助手席に、ルヴィは後部座席に座った。本当は州の運転免許も得ているのでルヴィは運転できるのだが、安全を取った。ネムが前の席から振り返る。
「ようやく我が家ね、ルヴ」
「だなー。いいホテルに泊まったような感じだったけど」
「無事に退院できてよかったわ、ルヴィ」
「ありがとうございます、マザーマリエ」
医療費が怖いところだが。
ネムもそれは実感しているのだろう、苦笑していた。
「教会はどうだったんだ?」
「素敵なところだったわ。落ち着いていて、来られている方もいい方ばかりで」
「ふふふ。ネムが孫娘だと思われるくらいそっくりだって言われたわ」
マリエは可笑しそうに微笑んだ。
みな知り合いなので、そうでないことは知っているのだろう。
「そういえば、マホニア夫妻も来ていたわね。あの美男子も」
「え………」
「ん……?」
ネムが驚いた声を漏らしたが、それに続くようにルヴィも首を傾げた。
それは、ついさっき、別のところで耳にした苗字だった。
マリエは、運転中なので前をまっすぐ見据えたまま、意外そうな声音で補足した。
「ほら、前に私が言ったことがなかったかしら? 教会にとんでもない美男子がいたわって。たしか……雨の日の、アフタヌーンティーパーティーの時に」
「どうだった、でしょうか……」
「聞いたような、気がするような……」
ネムとルヴィの物言いはあやふやだった。
ここ数日間が濃すぎて、それ以前が遠い昔のようなのだ。
だが、ルヴィはなんとなくその時に話題に上ったような気がしてきた。
「そう……。どうやら、前来られた際に、うちの聖堂が気に入ったようね。大きくはないけれど、歴史は古いの。付き添いの美男子は今日も近くにいて……かのマホニア夫妻の遠縁かしら?」
ルヴィはだんだん思い出してきた。
マホニア夫妻がどういう人物かは分からなかったが、有名人らしいとだけ思って、聞かなかったので、印象に残りにくかったのだ。しかし、今はその苗字に関心がある。
「マホニア夫妻というのは、どういった方なんですか」
「リグナムバイタにおける指折りのビリオネアね」
ということは、世界における指折りの億万長者だ。
「……その夫妻の名前はなんですか? オレそういうの疎くって」
「あら、私も詳しいわけじゃないのよ? ただ、同じくらいの世代で……年齢はあちらが十は上なはずね、資産家だった当時の夫よりも上の階級の方々だったから、知識として覚えていただけ。だから私が知っているのは古い情報ね。今はさっぱりよ」
そう前置きをして、マリエは名前を告げた。
「ご主人の方は、マテウス・マホニア。そして奥様の方がバーバラ・マホニアよ」
「そうですか……」
ルヴィは見当違いだったと肩を落とした。
病院の院長から聞いた名前は、レギナルド・マホニアだった。
「……まあ、苗字が一緒のことくらいあるよな」
ルヴィは一人、納得して頷いた。




