50 チップ
土曜の昼時ともなれば、混み合い方も尋常ではなかった。ネムが予約したのが、リバーサイドのカフェだ。立地が良く、川に面したガラス張りの席が人気だ。窓際の席は埋まっていたが、店内の壁際の席が僅少で残っていたので、そこに滑り込むことができた。観光客も多く来店するため、ドレスコードはそこまで厳しくもない。ランチだが、ひとり200ドルは超えるような値も張る店なので、お礼にはもってこいだろう。
絶対に支払いを取られないよう、先にクレジットカードを登録した。最後にサインをすればよく、その時にチップの率を決めることが求められる。リグナムバイタでも一等地であるここでは、普通に価格の20%の支払いが普通であるようなのでそれを頭に入れている。他には、10%の時もある。気持ち次第だとか。
店の前から移動する高級車を見送りながら、ネムは尋ねた。
「あなたは、ここで生まれ育ったの?」
「エルムで初等教育を受けた以外は」
ふうん、とネムは頷いた。店員に案内されて、2階の席に進む。窓際の席はカジュアルな天板に椅子というシンプルな席だったが、壁際は丸く円形状に繰り抜かれたような奥まった席で、黒いベルベット生地が張られた半円のソファ席だった。小さなシャンデリアが下げられている。なるほど、席が余っていたのは、おそらく価格が高かったことにあるのだろうと合点がいった。
昼間なのに、壁際の席だけ薄暗く感じた。
秘密基地感がある。
注文を伝えると、店員が去っていく。
「じゃあ、このお店にも来たことがあるのかしら?」
「いや。……仕事以外で外を出歩くことはほとんどない」
「そうなの。ここで育つと物珍しくもないのかしら」
ネムは外の美しい景色を遠目にでも見よう横を向くと、女性客と目が合う。それを自然に反らすと、また別の客と目が合う。びくりと肩が跳ねた。慌てて見まわすと、そこかしこの女性客と目が合った。
「……どうした」
「え? いえ……」
ネムは強烈な視線から目をそらして相手を見ると、納得した。
これは確かに魅力的な異性だった。
忙しいのか料理が運ばれるのは遅いようだった。
「朝は何をしていたの?」
「仕事を」
ネムは咳き込んだ。
すっかり休みだから、この機会に応じてくれたと思っていた。
「……仕事? 土日も仕事をしているの?」
「時折。必要があれば」
このアクイレギアにおいて……。ネムは、仕事人間の気を感じた。
しかし、こうして初対面の相手とも食事に行くあたり、海外の仕事に対する姿勢と私生活を大切にする感覚の違いは興味深かった。
しげしげと眺めていると、女性の目を集める彼は、コートを預けた今、黒いハイネック姿で、奇しくもネムの黒のセーターと揃っていた。
「あら……お揃いね」
ネムは袖を指で引き、笑って見せた。
彼は一つ瞬くと、カフェの店内を見渡し、目を眇めた。
目を合わせないので、ネムは機嫌を損ねたのかと、袖を引いた手を下ろした。
「気に入らなかった? 偶然よ……?」
「いや。……人目が多くて、落ち着かないだけだ」
言われて、周りをちらりと見た。確かに先ほどまでは、鋭い刺すような視線を感じていた。しかし今見ると、その場のどの客たちの視線とも交わらなくなっていた。……ただ、意識が向けられているような感覚はずっとある。
「わたしも、人が多いところは苦手なの」
繰り抜かれた壁際の席には半透明の薄絹がひっさげられていた。ネムは藍色の薄絹に手をやり、それで空間を隔てた。
「これで少しはマシかしら?」
ニッと笑うと、彼は純黒の瞳を上げ、しばらくして頷いた。
リバーサイドのカフェは薄絹で隔ててしまったので、川が目の前に見えるという素晴らしいロケーションの意味をなくさせてしまったが、人目を気にせず話すことができた。カレッジでの勉強の内容など、経営学には触れたこともなかったが、興味深い内容だった。
ランチを終え、その後のコーヒーとケーキも食べて、もはや他に入れる余地はないというところまで満腹になった。楽しく過ごせたので、ネムはチップのチェックを10%と20%のうちで20%に付けてクレジットで支払った。食べ過ぎたので、近くにあるセントラルパークを散策することになった。ネムはリグナムバイタにいて初めて来た。
広大な敷地で、ルヴィでなくとも迷いそうなほどだったが、現地人がいるのでネムは安心してついて行った。まるで森だった。森林浴とはこのことで、木々の隙間からリスが降りてきて、鳥が空を舞った。新しく出会った人と楽しく食事をし、おしゃべりをし、散歩までする。豪華列車の旅はならなかったが、なかなか良い秋休みだ。
そんな楽しい気分に、頭が痛いメールが届いた。リスの写真を撮っていた画面から移動すると、内容はこうだった。薄黄のワンピースだが、クリーニング店が定休日なので月曜の仕上がりになるという連絡だ。ネムははあ、とため息をついた。リスは逃げて行ってしまった。
立ち上がり、ネムは後ろに立って待っていた彼を振り返る。
「今日はありがとう。食べ過ぎてしまった、散歩にも付き合ってくれて」
そろそろルヴィの検査も終わったころだろうか。
ネムは別れを切り出した。
「……これからまた病院へ?」
「いいえ。買い物をしてから帰るわ」
「どこへ?」
ネムは困った顔をした。
「特に決めてはいないのだけど。明日、教会へ行く方にご一緒する予定なの。教会に参加するのは初めてで、相応しいフォーマルな服がほしいのだけれど、どんな服がいいのかわからなくて……お店の人に聞いてみようかと思ったの」
「……行きつけの店が近くにある」
そう言った彼に連れられて行ったのは、とあるブランドの服飾店だった。
解散の意味で言ったはずが、ついつい同行し続けてもらっていた。
フィッティングルームの鏡を見ながら、不思議な状況に首を傾げた。
すると、携帯が鳴る音がした。ルヴィからだ。検査が終わったのだという。小さい声で答えながら着替える。
「そう、よかったわ。でもちゃんと診てくれた? …………もう、不謹慎なこと言わないで!」
つい声が大きくなってしまった。
「……お客様、何かございましたでしょうか?」
「………。……いや、構わないでくれ」
カーテンの向こう、店員の言葉に、彼が対応する声が聞こえた。
ネムは慌てて声を潜めた。
「今、ランチを食べて散歩した後に、服を買うお店に一緒に来ているの。……それが、クリーニングできるのが月曜だというの。そのままキャンセルして、返却してもらえるようにはしたの。………ええ。マザーと行くから、不格好はできないもの。……友達? 違うわ、ただお礼をする経過で。……そうかしら? ……でも夕食はルヴとするの。……ええ、送るわね」
また後で、とネムは答えた。そしてオーダーしてもらうメニューを送った。
携帯を閉じると、ネムは目を閉じて額に当てた。
そして身なりを確認し、フィッティングルームを出た。
「お待たせしたわ……」
紺色のワンピースにジャケットのセットアップだ。
膝下丈で、サイズは少し大きい。
「……悪くない」
「とてもお似合いですわ!」
「そ、そうかしら……」
ネムは目を逸らしたが、無情にも彼が新しい服を携えていた。
「次はこれを」
ネムとしては、だいぶ似合っていないと感じたセットだったが。
次に渡された水色のワンピースに、鼠色のジャケットだ。
「……わかったわ。この服の次は、わたしが選ぶわね」
ネムが自分で選んだ3着目を買った。
着るものすべてを全肯定する店員と、どうやらセンスがないらしい彼のラインナップ攻撃から逃れた。
「付き合ってくれてありがとう。またね」
ルヴィは彼をネムの友人だと言った。
「レド」
ネムはほほ笑んだ。




