49 イルリガートル
見覚えのある天井が目に入って来た。
アクイレギアの病室だ。
「あれ、なんか……」
短い夢を断続的に見ていた気がする。
内容は全く思い出せないので……そもそも、夢など見ていないかもしれない。
しかし、何度もあった覚醒の気配はあったことを覚えている。
ただ、その度に無理やり沈められたような気がした。
「気のせいか……」
ルヴィはむくりと起き上がる。そのままぼうっとしていると、視界の端で扉が開いたと同時に「っきゃあ!」と悲鳴が上がった。ルヴィが振り向くと、そこには風呂上がりのネムがいた。首に巻いていたタオルが床に落ちている。
「あ、ネム。はよー」
「おはようじゃないわ!」
ネムは胸を押さえながら、床に落としたタオルを拾った。
髪は未だ濡れている。
「もうびっくりするじゃない!……いえ、そうじゃなくて……心配したじゃない!」
「あ、ごめんなー心配かけて」
すると、ベッドわきのパネルが明るくなり、ナースの顔が映った。ルヴィが起きたことを観測したらしい。ただし、このナースの顔はAIなので、実際にやって来るのは生身の看護師になるという。
『身体データに異常なしです。木曜日の14時12分から眠り、土曜日の1時3分に目が覚めました。睡眠時間は34時間51分でした』
「これがAIナースか、すご」
「本当ね……これで夜間勤務の負担は少なくなっているというもの」
ルヴィは気の抜けた相槌を打った。
土曜なのか。二日経っている。
「てか、お腹減ったー」
「もう……リンゴやお菓子ぐらいしかないわ」
「食う食うー」
ネムがナースステーションの裏にあるというお菓子とジュースコーナーへ行っているのと入れ違いに、看護師が病室に入って来た。金髪をナースキャップに緩く詰めた女性で、唇の上に黒子があるのが見覚えがあった。ルヴィの脇に手を入れて子どものようにストレッチャーに乗せた看護師のひとりだ。
「起きたのねー」
「起きましたーお腹すきましたー」
コーヒーと甘い匂いがした。夜勤ご苦労様だ。ルヴィも何か腹に入れたかった。看護師と掛け合いをしていると、ネムがお菓子を両腕に抱えて戻って来た。
「今晩当直のドクターはさっき呼び出しを受けてね、席を外しているの。しばらくかかりそうみたい。あなたが起きたことは言っておくのでゆっくりお休みなさい」
「はーい」
「………ありがとうございます」
看護師の女性は小さい子どもをみる母親のような顔で窘め、病室を出て行った。ネムは腕一杯にお菓子を持っていたのをルヴィのベッドの上に広げた。そして冷蔵庫の中からリンゴを取り出して切っていく。ルヴィは広げられたお菓子の一つを摘んで包装を解いた。
「なんか、めっちゃ体が良い感じ。めっちゃ背が伸びそう」
「それ以上伸びなくてもいいんじゃないかしら」
「ウサギだー」
ルヴィはいつものようにウサギ型に切られたリンゴを受け取り、頭上に掲げた。ネムは呆れたように目を細めた。
「今、真夜中の1時だろ? オレこんな遅くまで起きたの初めてかもしれん」
「前にもあったわ。……渡航の書類が足りなくて、ルヴの部屋で夜なべしたじゃない」
あの日は、ルヴィがフライドチキンとコーラを買ってきて、書類の確認をするネムと夜食を食べながら作業をしていた。いつの間にかラグの上で雑魚寝していて朝を迎え、体中が痛くなったことを思い出す。
「あの時の記憶はおぼろげなんだよな、眠くてさー。……でも今は目が冴えてんだよなー」
初めての海外渡航がこの長期留学だったために、だいぶ苦労した。
ネットで手配されたエージェントは途中で逃げるので、ネムにばかり負担を掛けた。
「35時間も寝ていればね……。ここのお医者様は本当に大丈夫なのかしら。一度目はまだしも、二度も長時間起きなかったのに問題がないだなんていうのよ?」
「………んー……そうだな」
しかし、夢か現か分からないが、何度か目が覚めかけた時があったと思う。
その都度、何かによって意識を沈められた……そんな気がした。
「……妙な、妄想だよな」
「なあに?」
ルヴィは首を振った。被害妄想も甚だしい。
ネムは不思議そうな顔だが、機嫌がよさそうだ。
「ルヴが起きてくれてよかったわ。明日……いえ、今日中に起きなければ、月曜の講義は欠席するところだったのよ」
最初の印象が悪いまま来ているネムは、ザイガー教授のことがあまり得意ではないようだった。それにザイガー教授は容赦ない問いを振ってくるので、緊張感がある。ネムは苦手なようだった。
ルヴィは肩をすくめた。
「へー! ギリセーフじゃんオレ。ナイス―」
「……深夜のテンションね。ルヴ、やっぱりまだ調子が悪いんじゃないかしら?」
平気だというルヴィをベッドに押しつけて、途端に心配そうな顔になったネムは電気を消した。そろそろと手探りで移動し、病室内にあるカウチに横になったようだ。
「あ、でも朝になって起きないのは駄目よ?」
「任せろ! 今度は大丈夫な気がする!」
「……そんなことわかるの?」
ネムの怪訝そうな声に、ルヴィはなんとなく、と答えた。
「ねえ。ルヴは今眠い?」
「いんやー?」
「じゃあ話を聞いてもらっていい?」
ネムの言葉にいいぞ、と返事をすると、ネムはカウチから起き上がり、ルヴィのベッドにもぐり込んだ。眠っている間は、看護師が清拭をしてくれているらしく、べとべとはしていないが、髪は洗いたいと思う。身じろぐと、腕に刺さっている点滴も動き、金属の棒にプラスチックの管が当たって、カチカチと音がする。
「寂しんぼかー?」
「いいでしょ、別に」
仰せのままに、とルヴィは大げさに畏まって、ネムのスペースを空けた。
ネムは端から中央に寄って来た。そして昨日あったことをぽつぽつと話し始めた。アパートのもうひとりの管理人である雑貨屋の女店主のこと、マリエのこと、その関係など。黙ってルヴィは聞いていた。内容は奇想天外、吃驚仰天だったが、口は挟まない。そうしてネムが語り終えてから、「そっか」と返した。
「うん。……それだけ。誰かに聞いてほしかったの。わたしだけじゃ、受け止められなくて。ルヴに聞いてほしかったの」
「他じゃ言いにくい話だもんな」
「うん。……あ、わたし、日曜にマザーと教会について行くことにしたの。ルヴは……退院がうまくいっても、13時くらいになると思うから……一緒には行けないわね」
マリエが通う教会は午前中で終わるのだ。ルヴィの退院の許可はいくら早くても11時くらいになるだろう。無理な約束はできない。掛布の上からネムの肩をトントンと叩いた。
「また来週行こうぜ」
ネムは頷き、やがて傍らから寝息が聞こえてきた。
ルヴィはいつもの時間に起きた。点滴が腕に刺さっているので、シャワーも浴びれない。しかし点滴棒は可動式なので共に移動することができる。金属棒を握って立ち上がり、ぐっと伸びをする。カウチの後ろのカーテンを開くと、街を見渡すことができた。
「良い朝だなー。あー、体動かしてえー」
ネムはいつもよりも少し遅めに起きた。薄黄のワンピースをクリーニングに出し、薄青のスカートに、黒いニット、その上にはカーディガンではなく、コートを羽織る。いつもの服装と言えばそうだが、如何にも出かける風だ。
「どっか行くのか、ネム」
ルヴィはこれから精密な検査を受けることになっている。
問題を見落とさないように、とネムがお願いしたのだ。
「オレが検査受けるってのにさあ……」
これから4時間かかる検査だ。
朝食と昼食は抜いて受ける本格的なものだ。
今日から急にルヴィの担当医が代わったようで、とても親身に対応してくれるようになったらしい。
「ええ。お礼のランチを奢りに行くの」
「えぇ……何そのノリ。カチコミしに行くみたいじゃん……」
「借りを残したままなのは性に合わないの」
お礼参りのようだ。
なんにせよ、ネムが個人的に交友関係を広げるのはいいことだ。
「さよか。いってらー」
ルヴィはひもじいが、ネムにたっぷりと心配をかけたので、観念して検査を受けようと思う。……この病院自体に問題がある場合は、いくら検査しても何も出てこないかもしれないな、と思いながらも。
「行ってくるわ。検査が終わったら連絡するのよ?」
「おおー」
ルヴィはにっと笑った。それから程なくして看護師の迎えがあり、付けていた点滴を外されて、検査を順繰りに回っていった。途中甲斐甲斐しくも休憩を挟んで、4時間超の検査を終えると、非常ににこやかな白髪の医師のもと、懇切丁寧な説明がされた。今後の生活面で何か不自由があれば、是非自分の名前を出してくれとまで言われる。前の医者のことをちらっと聞くと、別の担当になったのだという。医者によって処置が違うのか不思議な質問もされた。
「このところ、何か心理的につらいことはありましたか?」
「え? いえ、特に何も……」
ルヴィは生まれて初めてメンタルヘルスについて尋ねられた。
それも医療従事者に。
はわ、と口許に手を当てる。
まさか自分の知らない間にルヴィは病んでいたのだろうか……?
密に衝撃を受けているルヴィだが、医師は後腐れない様子で次の質問を問いかけた。
「眠っている間、夢を見ましたか?」
「うーん……特には。あ、でも、何度か起きかけたような時があった気がします」
「それは何回ありましたか?」
「二回……だったかと思います」
その時、にこやだった医師がずいと身を乗り出した。
ガラス玉のような青い瞳を収縮させる。
「……その時に外の環境を何か感じましたか?」
「え? えっと……傍で誰かが動く気配を感じたような気が……します」
しかしルヴィはすぐに、夢だと思いますけどと付け加えた。
「とても興味深い。参考にしますよ」
「はあ……」
医師はソファに腰掛けた膝の上で両手を組み、深く頷いた。
ルヴィへの説明は終わり、検査結果をまとめたものは夕方には出るという。看護師の男性に病室へ案内してもらいながら、病院内でもいろいろあるのかもしれないと思わされた。それにしても、リグナムバイタの診療室は、いい部屋なのだなと思った。
「はい。ここですよ。今度迷ったときは、近くのナースステーションに行けば案内してくれますからね」
「あ、お手数おかけしました。ありがとうございますー」
ルヴィは頭を下げてへらりと笑った。昨晩の看護師の女性は、夜勤が明けて帰宅したといい、入れ違いにやって来たのがこの男性の看護師だ。ちなみに、一度目に、ストレッチャーに運ぶ際に足の方を運んでくれた人でもある。
病室に入って、ルヴィはさっそくネムに検査が終わったことを連絡しようと携帯を探った。
「おう、ネム。検査終わったぜー。………んー? いや、ちゃんとしてたぞ? なんか今日、担当医変わったじゃん? 前の時は分からんけど、めちゃくちゃ笑顔で親切で丁寧だった。オレもしかして死ぬんかな、と思ったレベル」
するとネムから怒りのお言葉をいただき、携帯を耳から離す。
「ごめんごめん! 結果は異常値なしだってよ。……そうだなー、検査後にヒアリングされたくらいか? カウンセリング? なんか心理的なものを聞かれたくらいかな………だなー……あ、今、どこいんの? ………あーそか。明日マザーマリエと教会に行くからなあ」
今朝、ネムが病院側に依頼したクリーニングだが、明日の午前には間に合わないと連絡があったため、今は新しい服を買いにデパートに来ているのだという。しかし、一人でもないようで、昼食を食べに行っていた相手が付き合ってくれているらしい。
よっぽど気が合ったのか。
「へーよかったじゃん、友達出来てさ。なんならそのまま夕飯も一緒に食べてきていいんだぜー? ………ええ? 食事一緒に行って、パーク散策して、ショッピングしてだろ? それって既に友達じゃん。……そうそ! なあさネム。今日まで看病ばっかでしんどかったろ? せっかくの秋休みだし、行って来いよ」
基本的に人付き合いが苦手なネムが、ルヴィのいないところで交友関係を広げているのが、感慨深く、行け行けと背中を押したが、ネムは夜は帰ると言った。
「じゃあ、夕食はネムの分もオーダーしとくから、あとで何がいいかメッセージで教えてくれよな」
ルヴィはネムとの通話を切った。するとメッセージでメニューが送られてきた。シャワーを浴びようと思った。点滴棒がなくなっただけで行動が自由だ。ネムに教わった場所から着替えを取って来てシャワールームに入った。




