48 オフレコ
『なあ、昨日のテレビでやってた、ヒバラ湖の遺跡知ってるか?』
そう話しかけてきたのは、同級生の誰かだっただろうか。
それとも他の同級生が会話する内容を聞きかじっただけかもしれない。
――ともかく。
今思えば、それがルヴィの夢のきっかけと言えるかもしれない。
湖に沈む、宿場町。
そんなものが眠っていると、誰も思わなかったはずだ。
世界は、目に見えるところにあるものより、ずっとずっと面白いのだ、と。
ああ、楽しい。
生きているということは、あらゆる可能性だ。
こんなにも心躍ることはない。
ルヴィは笑った。
指先がピクリと動いた。
それを誰かに握られた気がした。
冷えていてじんわり、温かい。
『これはオフレコだぞ、ルヴィ』
いつの日だったか、長兄フィサリスが通信中に話し出した。
『俺がグラデュエート課程で、ある研究をゼミの教授に割り当てられたんだ。これは教授が、自分のゼミに所属する学生たちに与える課題のようなものだ。そのとき俺に振り当てられた研究っていうのが、とある大財閥の系列企業から受託した研究だった。そんな研究が、俺指名で来るはずはない。勿論、教授が請け負ったものだが、その研究を教授は大学院生であった俺に割り当てた。俺はただ、データを取って分析し、それを教授に報告すれば、その後の就職先が約束された。その教授はそれほど顔が広く、力を持っていた。……よくある話だ。教授が、自分の所属するゼミ生を使って、自分の研究を進めようとするってのはな』
――マジか……因みに、大財閥ってどこなん? オレも知ってる?
長兄は、その家名には数字が入っていると言ったので、心当たりがあった。
それは大財閥だと頷いた。
『そんな企業からだったから、ただの学生がする研究にも拘らず、研究に必要なものは、何でも教授に頼めば、企業を通して用意してくれた』
豪勢な話だ。理系は学生の頃から、企業と連携して研究を行うのかと感心した。
何でもというが、どんなものを用意してもらったのか。
――ふうん。例えば何を頼んだんだ?
『例えばだな……三つ口のフラスコとかだな。これは、滅多に使われない機器だから、とても高額だった。大丈夫か、と思いながら、でも教授は必要なものは何でも言えというから、教授に研究でと伝えたら、数日後にはホントに手配された』
ルヴィの知っているフラスコは、口は一つしかない。
二口は何とかあるが、と兄は言うが、そんなものも見たことはない。
――へえー手厚いな。そこまでしてくれるなんて、一体なんの研究だったんだ?
『……とある薬品の、テストだな』
――テスト?
漠然とした言葉だ。
兄はその言葉ですら、言いにくそうだ。
『その企業から、ある薬品が卸された。500mlだったか? 結構な量だった。それは一定の、低い温度でしか保存ができないもので、厳重に移送されていた。俺が研究するときは、冷蔵庫みたいなとこにただ入れていただけだった。この管理がな、ヤバかったんだ』
――へあ、何が?
画面の中の兄は体の前で腕を組んで、背もたれに凭れた。
無精ひげが見える。兄がいる場所は何時になるのだろう。多忙なはずなのに、兄は定期的な連絡を欠かさないし、弟たちの連絡には必ず数日以内に返事をする。
『もう時効だから言うけどな。その薬品、名前は伏せるが、ものすごく複雑な構造の、毒物だった。海外で作られたもので、ラベルには10日間皮膚に塗り続ければ、半分の動物が死ぬって書いてあったんだ。それを、鍵もかかっていない冷蔵庫もどきに入れて保管してたんだ……」
――んー、じゃあ。誰でも取り出せたんだ?
そういう、迂闊なところがあるのは、ルヴィも本国での大学生活で知るところではある。人の善良さを信じている、良識を恃みにしている感覚だ。
「ああ。……本国じゃ、フグの毒のテトロドキシンなんかがそうだが、日々どのくらい使用したかを国内で厳格に記録し報告することが義務付けられていたんだ。だから研究で使った場合は、精密に測定し、報告する。……ただ、俺の研究でヤバかったのは、テストする薬品は、その対象ではなかったということだな。これは、完全犯罪が出来てしまうんだ』
――ええーどういうことだよ? それで誰かを毒殺したって、毒物が検出されてわかるんじゃん?
兄は眉間に指をぐりぐりと押し当ててため息をついて言った。
『その薬品はな、検出できないような特殊な化合物だったんだ。世の中には、こんなものが存在しているのかと思った。明らかに“そういう”目的で作られたとしか思えない薬品だった。複雑で高度な研究だったため、誰に聞いても分からないと言われ、結局俺一人で実験をした。データが必要だったからな。教授は、ショウワかよってレベルの時代錯誤者で、ほとんど大学の敷地内にいなかった。どこにいるのかと仲間内で聞いてみれば、大学の頃からいたやつには、教授はいつも料亭にいるって言われたくらいだ』
兄は不味いものを食ったような顔をした。
『俺が提出した、これでいいのかってデータをそのまま企業に出した教授にも、そんなデータを受け入れた企業にも、俺は世の中こんなもんなのかと、失望したのを覚えてる』
若かったな、と兄は頭を掻いた。
画面の至る所に、エナジードリンクや栄養剤の殻が転がっている。
『ありがとな、ルヴィ。初めてこの話を俺の外に出したぞ……こんな話、あいつに言うわけにもいかないしな』
――確かに。下の兄貴には、奇麗な心ままでいてもらいたいもんな……。
兄が破顔した。青白い光に照らされ、画面を隔てているのに、なぜか兄はルヴィの目の前にいた。
『ああ、薄汚れた性根なのは俺一人でいい。お前も好きな道を行け』
兄の顔が笑ったせいなのか、視界が歪む。
視野が渦を巻いて収束する。
…………暗闇だ。いや、瞼の外には光がある。
体はピクリとも動かない。
気怠い重みだ。
……カチカチと音がする。プラスチックと金属が触れ合う音。
何者かの気配がして、それが去ると、気怠さと共にまた意識が沈む。
普段は聞きなれない物音。
『やー、面目ない。朝から騒々しかったよね』
――いえ。
物音につられて階段下を覗き込み、知り合うことになった人物だ。
『はじめまして、アタシは204号室に住んでる』
同じアパートの住人エミ・チョウノは大荷物を持っていた。
エリフエール大学の大学生で、環境科学を専攻している。
――荷物、持ちますよ。一か月も家を空けるなんて大変ですね。
『教授の研究の手伝いしたら、単位をくれるっていうからその手伝いしてたんだ。でも、目的の現象がなかなか測定できなくて、期間が延びちゃって。まあ、その間の宿泊費と食事はプロフェッサーが払ってくれたからいいけど……』
――バス、トイレなしなのは、オレには厳しいです。大学生なのにそこまで研究の手伝いをするなんて珍しいです。
『アタシが所属しているゼミの大学院生がいるんだけど』
――ああ、単位取得を忘れていたんですよね。だから、その大学院生の代わりに教授を手伝っている……。
エミは大量の紙に書かれたデータを扱っていた。
裏庭のパラソル下のテーブルは木目が見えないほどだ。
エミはデータを打ち込むPCから目を上げない。
『そう。教授もアタシが一年社会人経験してるからって、頼んでくるんだよね』
――厳しいのなら断った方がいいんじゃ。
『彼、新発見だって大はしゃぎするんだもの』
エミは丸まった背を伸ばし、幸せそうに笑った。
その顔はしばらくして複雑そうに歪み、顔を中心に渦を巻く。
渦の底で不機嫌そうな唸り声が聞こえた。
…………暗闇だ。いや、瞼の外には光がある。
瞼が重くてかない。
頭がしびれるような感覚だ。
だが、温かい気配を感じる。これはきっとネムだ。
ならば、安心だ。……安心?
不安なことがあるというのか。
それは一体なんだ……?
ネムの声が聞こえた。特定できない漠然とした気がかりは脇に置こう。
ルヴィは目を覚まそうとした。
すると、そのルヴィの傍に、別の何かがやって来た。入れ代わりにネムが離れたと思ったら、再び。
……カチカチと音がした。
冷たい金属製の何かと、軽いプラスチックがぶつかるような音。
何かがベッドの傍で蠢く。
ネムが近寄り、知らない気配が去る。
すると、まるで頭に冷たい水が流入してきたように、浮上しかけた意識がぷつんと途切れる。
『これは内緒なんだけどね。……エリフエール大学の』
社会人の聴講生オルガ・クィーニーは声を潜ませる。
農薬を取り扱う企業の営業の仕事の日々は、多くの疑問がつきものだという。
赤い爪が毒々しいオルガの手が、顔の横で縦に立てられた。
『実はとんでもないことが分かったの。自分のゼミにいる大学院生と交際して研究を無償で手伝わせた上に、修士論文を盗用してその子を捨てたの。そして、自分は新しく入って来た大学生の子と付き合いだしてる。私たち他のゼミ生には、大学院生の子が来ていないのには、単位を取り忘れたからだと言い訳までしていたのよ? こんな大問題の教授のもとで、自分が築き上げた論文を盗用されるかもしれないと思いながら、研究なんて打ち込めると思う? いいえ、人の労力を盗むような人間とは無理よ』
――どこへ行っても、こんな問題は付きまとうんですね……。
ネムが眉間に皺を寄せて悪態をついた。
『学生に手を出した挙句、人の研究の盗用までして、最低』
潔癖なネムは、我がことのように気分を悪くする。
オルガは憤慨するネムの肩に赤く塗られた爪が揃った手を添え、優しく宥めた。
『でも。リグナムバイタじゃ、こんな自由恋愛はざらにあるのよ』
ネムは驚いた顔で、口許を弓なりに上げて笑むオルガを見上げた。
…………いや、こんな会話ではなかった。
違和感を覚えると、オルガとネムの間の空間がねじれた。
――ネム!
ルヴィは咄嗟にネムに手を伸ばして引き寄せた。
しかし腕に抱えたネムはぐったりとしていて息をしていない。
恐ろしさに寒気がした。
――ネム……!
腕の中で揺すり、頬に触れた。
起きない、起きない。
起きてくれ。目を覚ましてくれ。
呼びかけ続けた。
雨が降る。
周りは森林で、追手が来てしまう。
しかし、ネムを置いて逃げられるはずもない。
雨に打たれながら、呆然と座り込む。
――ネム……。
どれほど経ったか、目を閉じているのに部屋が明るいことが分かる。
『ルヴ、早く目を覚まして』
ネムの声が聞こえた気がした。
水音がした。
目を覚ます? ルヴィが……?
『どこまでも連れて行ってくれるって言ったじゃない』
そうだ。夕焼けに向かって歩きながら。
そんな気休めの言葉を吐いた。
――あれ? ここはどこだっけ……? オレはネムをどこまで連れて行ったっけ?
赤く染まった地面が見える。そうか、ずっと下を向いていたから、分からないのだ。
顔を上げると、ギンギンと輝いていた夕焼けが遠ざかった。けれど、ずっと向こうの地平線に沈まず、そこに見えていた。目を傷める。そう思って、目を閉じ、そして開いた。




