47 誘蛾灯
様子をうかがいに来てくれるいつもの医者と小柄なフィリスは専属の看護婦らしく、昼頃にまたルヴィの容態を確認してきてくれる。点滴しているので生命維持には問題はないと説明を受けた。目が覚めた時は絶食後になるので、重湯のようなものから始める必要はあるらしい。
少しでも起きた後のことが聞けてほっとしていると、ふいに医者がじろりとこちらを見た。
「………ほとんど病室を出ていないと聞いた」
「? はい。快適で事足りています」
頷いてアクイレギアの病室の快適さを褒めると、医者が鼻に皴を寄せた。
なぜだろう、と首をかしげていると、重々しく言われた。
「目が覚めるまで一歩も動かないつもりか?」
目を瞬かせる。
手を動かしていた小柄な看護婦フィリスが顔を出して付け加えた。
「気分転換に少し外へ出かけるのはどうかと仰っているのよ」
なるほど。
しかしネムは首を横に振る。
「わたしはルヴを見ていないと。頼れる人もいないので」
沈黙する医者が俯く横で、フィリスが顔を出してくる。
「定期的に見回りもしているし、何かあれば起動しているAIナースが必ず気づくわ。起きたらすぐにあなたに連絡を入れるわ。だから安心して、ね?」
ルヴィにつながれた管は機材のAIナースに生体情報を逐一伝達している。
今もまた、心拍数や血圧など様々な情報が計測されている。
ネムの目が覚めて半日が経つけれども、起きる兆しはない。
どうしてここまで差があるのだろう……。
頭の怪我は問題ないと説明は受けたが。
「せっかくの休みを、こうして病院に付きっきりでは退屈でしょう?」
「そんなことは――」
一日中引きこもりでも不自由さは感じない。しかし、ネムはそうでも、常に生き急いでいるような幼馴染は、ネムがこうして病室に籠っている状態を喜びはしないだろう。
「……わかりました。出かけてみますね」
「ええ。それがいいわ、ねドクター」
フィリスはほっとしたように息をつき、無言でいる医者を振り返って微笑みかける。フィリスに電話番号を伝え、医者とともにルヴィの病床を離れる。始終どこか浮かない顔をしていた医者は去り際に、点滴の留め具を確認したのか、何かを調整するような仕草をする。その時――コポリ、と点滴から気泡が浮かび上がった音がしたように思った。
『こちらは君たちの協力を仰ぐ立場だ。もし、彼に、何か特別な治療が必要であれば、こちらで手配することもできる。何にせよ、早く回復するのを祈っている』
「有難いことだわ」
ヒーカンの鷹揚な態度を見習い、ネムも気長に待つことにした。ゆっくりと昼食を終えたのち、15時には一人でお茶を入れて飲みつつ、先の課題にも手を付ける。病室にずっといると、担当の医者が現れ、ルヴィの様子を診てくれ、特に問題ないとネムに言った。去り際に、点滴の留め具を確認したのか、何かを調整するような仕草をした。
「ルヴ……?」
ネムには、眠っているルヴィの顔が、どこか苦しげに見えた。ネムはそっとルヴィの手を握った。
「ルヴ……早く目を覚まして」
ネムはこういう事態が起きたとき、いつも少しだけ状況が悪い想像をする。例えば、明日の土曜のうちにルヴィが目を覚まさなければ。そうなれば、経過観察の一日が月曜にずれ込み、ルヴィは午前中にあるザイガー教授の、よりによって専門講義を受け損ねてしまう。
「いまや、ザイガー教授は、ルヴのことがお気に入りだもの。ルヴに嫌なことをしたザイガー教授を嫌だと思っているのは、わたしばかりで……居心地が悪いったら」
自分を侮った相手から、認められ気に入られる。
ルヴィは、努力と実力でそれを勝ち取っていく。
生きるのはこのくらい頑張らなければならないのだろうかと思うと、尊敬する一方で、ネムの足は竦んでしまう。それでもルヴィが手を引いてくれると。
「どこまでも連れて行ってくれるって」
そう言ったじゃない。
夜には起きるだろうと待っていたのに、全く目覚める気配がない。とうとう待ちくたびれたネムは、横になるルヴィのベッドに上半身を預けて、その健やかな寝顔を睨みつけた。医者が問題ないというからには、今日中には起きて、夕食を一緒に食べられると思っていたのだ。
それまでストレッチをしたり、シャワーを浴びたりと時間を潰した。
だが、時刻はいよいよ19時だ。
この国では、暇つぶしのことを『時間を殺す』と言う。
そして、時間を貴重なものとして、常に生き急いでいるような幼馴染は、ネムがこうして病室に籠っている状態を喜びはしないだろう。
「かといって、誰かと会おうにも……リックはエルムだし、キャロラインも休みで実家に戻っているというし……」
ネムは胸を押さえた。
「わたしって、こんな時に誘える人がいないのね……」
いかに自分の、声を掛けられる知り合いが少ないのか、身につまされた。
酷く胸が痛んだので、眠っているルヴィのベッドを叩いた。
ひとしきりそうして発散すると、ふと我に返る。
「仮にルヴがいま目を覚ましても、明日には帰れないわ。日曜に退院できるかどうかはギリギリね。今のうちにできることは何かあったかしら…………あっ」
するとネムはやり残していることを思い出した。
それは課題でも、キャンセル連絡でもない。
ルヴィの横たわるベッドに腰掛け、鞄から携帯を取り出して開く。最近追加したばかりの連絡先は3件ある。うち2件はFBI捜査官という、心強いのか、怖いのか分からない連絡先。もう1件が、同じカレッジに通っているという、ビジネススクールの大学院生のものだ。
四日前の火曜、病院から近くの市街で着替えの服を買いに出たネムが転げかけたときに助けてくれ、その上、足を怪我していることを見抜いて親切に病院まで送ってくれたのだ。
「お礼をすると言って連絡をしなかったわ……も、勿論、忘れていたわけじゃないわ」
ネムはルヴィの寝顔に言い訳をしてから、額を押さえる。
「駄目よ、一気に独り言が増えてる……」
首を振って、ネムはさっそく連絡をする。
もらったのは、急いでいたので電話番号のみだ。
数コールもしないうちに、電話口に相手が出る。
相手が出るのを待つ間に、話す内容を決めようと思っていたネムは慌てた。
「……こんにちは。ネムです。昨日お世話になった、お礼の件で」
言いかけてネムは気づいた。
今は夜の19時過ぎだ。
「その……今、時間は大丈夫かしら?」
電話するにしてもこの時間帯は、好ましいとは言えなかった。
白いコートを羽織ったネムは時間通りに病院の外に出る。病院を一歩出た途端に、吐く息が白くなる。風から避けるように手をかざすと、入り口の前に、黒塗りの高級車が止まっていた。ネムは小走りで近寄った。高級車の扉が開き、中から黒髪の長い青年が出てくる。白いハイネックに黒いコートを着ていた。
「来てもらってごめんなさい」
「……なぜ謝る」
ネムは差し出された手に、こういう文化なのかと思いながら片手を乗せた。
そして言い方も改めた。
「ごめんなさい、癖で。来てくれてありがとう」
青年は再び謝ったネムに、何か言いかけたが、そのまま車の中へ誘導した。
どうやら見逃してくれたらしい。
ネムも、言いながら気づいたのだが、呼吸をするように出てしまうのだ。
「急に連絡してしまったのに、本当によかったのかしら?」
青年は、ネムもブランケットを渡してくれた。
それを受け取って膝に掛けながら、ネムは改めて尋ねた。
来ておいてなんだが、気になったのだ。
「問題ない」
「そう……それならよかった」
確かにこの国の人間であれば、用事があればそのように申告するだろう。
高級車の中は明るく、まるでコンパクトな部屋のようだ。
ネムは前回と同じように、ひと一人分あけて腰掛ける青年を見た。
肩下まで伸びる黒髪は艶やかで癖がない。
金をかけて手入れをしていなければ、仕上がらない出来だと思う。
じっと見ていると、目が合った。
長い睫毛に縁どられた純黒の瞳は、瞳孔と同じ色をしているように見えた。
「あなた……東洋系の血が入っているのよね?」
「……ピオニーの血が、8分の1だけ」
予想よりも随分と少ない。
答える時に一度伏せられた目が、すい、とネムに向いた。
黒い艶々とした瞳に、ネムの姿が写り込んだと思ったら、目をそらされた。
「……君は?」
「わたしは、そうね……祖父の祖父あたりにヨールカの血が入っている、かしら」
懐へ、寒気が一気に吹き込んできたように、ネムの胸中は冷え込んだ。
ネムは外に跳ねる薄青の髪を摘んで、青年に見せた。
自分の瞳も、髪も、純粋なイクシオリリオン人とは程遠いことを知っている。
「見えないでしょう?」
「いや。……顔立ちは、東洋だろう」
ネムは髪を離し、外の景色を眺めた。高級車はリグナムバイタの中心部のなかに入っており、タイムズスクエアが見えるところまで来ていた。20時からでも入れるレストランがあるのかと感心する。さすがは巨大都市リグナムバイタ。長い夜の、眠らない街。
「ねえ、これから行くのはマロニエ式のレストランと言っていたけれどこなの?」
「ガブリエルクロイター」
後から知ったが、2つ星を獲得しているレストランだという。
なかなか予約が取れない人気の店だったようだ。
ネムが青年に連絡を取り、お礼のための時間が取れないかと聞いたところ、今夜が空いていると言われたのだ。急だと慌てたが、連絡をしたのはネムなので、勿論空いていると震え声で言った。
アクイレギアは一週間後の予定を立てないというが、あの最悪のパーティーにしろ、今日行こうというのが普通のことなのかもしれない。その線を全く考えていなかったネムは、当然今夜出かけるという用意を全くしていなかった。
相手の青年がレストランを手配してくれるというので――ここまで来ると、何がお礼なのか分からなくなるが――たとえ、どんな高級レストランに連れられたとしてもカードで奢ると決めてきていた。
「ドレスコードだけれど、私はこの通り、このワンピースなのだけど大丈夫かしら?」
ネムは明後日の日曜にマリエと教会へ行く用に持参してきていた、薄黄のワンピースを着てきていた。黒いヒールも、以前、アフターヌーンティーパーティーで着ていたものだ。真珠のイヤリングとネックレスは置いてきているので、本当に最小限の装いだ。
マリエとの約束があってよかったと思う。
でなければ、ドレスコードに合格できるかどうかという服は病院に持ってきていなかった。




