27 標本館
土曜の朝。ネムとカレッジにいた。
正確には、カレッジの敷地内にある標本館の前だ。
「やあ、二人とも。待たせたかな」
途中から走ってきたせいで、金髪が乱れている。
エルムでかっちりとした服装はエルミッシュトラッドという。
ジャケットをはおり、貴族の貴公子を彷彿とさせるパトリックが現れた。
「時間に遅れてしまって済まない。僕のほうから誘ったのに」
息が乱れた状態で済まなそうな顔をする。
首を横に振った。
「そんなに待ってないぜ」
「気にしないで」
手櫛で髪を整えるパトリックに、ネムがハンカチを差し出す。
びくりと肩を揺らす――がありがとうと受け取る。
「でも珍しいな。どうしたんだ?」
「鬱憤の溜まった子たちに、引き留められてしまってね……」
憂鬱そうにため息をつく。
ネムと目配せする――例の、女子に囲まれていたやつだろうか。
気を取り直したようにパトリックがほほ笑む。
「それじゃ案内するよ。――ネム嬢、ハンカチは洗って返すので」
「気にしないで。あげるわ」
「では、ハンカチのお礼と遅れたお詫びを今度させてほしい」
律儀なこった。
つまり、だ。
「またみんなで会おうってことだな!」
するとパトリックが碧眼を丸くしてから、破顔した。
「是非とも、今後ともよろしくしたいね」
「こちらこそ」
「案内さっそく頼むぜ」
先導するパトリックは、慣れたように入館した。
中は明るい空間が広がっていた。どこからか風を感じる。
空気の循環が行われていた。
「ここが標本館だね。植物標本館と植物博物館がセットになっているんだ。隣接して、鉱物学地質学博物館と比較動物博物館があり、これらを合わせて自然史博物館を構成しているんだ」
「へえ、他のも興味あるな」
というより、他のものの方が、興味をそそられる。
パトリックもそれを理解したのか苦笑した。
「ルヴィの専門で言うとそうだろうね。後者の、鉱物学地質博物館は、地球上の鉱物の大部分を見ることができるよ。特に、宝石の原石や隕石が人気だね」
「何だそれ。すごそうじゃん」
「すてきね、昔図鑑で見たのを思い出すわ」
思わず前のめりになる。
ネムも両手を握り締めていうが、図鑑とは子どもの頃一緒に覗き込んだもののことだ。
「あと、比較動物学博物館では、動物や鳥の剝製、魚・虫の標本、恐竜の骨や化石が展示されているよ」
「マジか、全部熱いな……」
植物図鑑と昆虫図鑑、恐竜図鑑を絵本代わりに過ごしていた身としては実に興味をそそられる話だ。
「そちらはおそらくザイガー教授の講義で足を運ぶよう言われるだろうから」
「理解。んじゃ、その時まで控えとくか」
納得して気持ちを押さえておく。
今回は標本館がメインである。
「メールリ教授が話していたのよね、この施設のことは」
ネムが反対側から顔を出す。
ルヴィを挟んで二人が会話する。
なぜかは分からないが、二人は必ずルヴィを真ん中にするのだ。
考えても解けない謎だ。
かといって、直接聞くのも戸惑われる。
「メールリ教授は、学生評価の高い人だね。確か地理学の……」
「植生を主に専門としている研究者だぜ」
「ああ、ならここはぴったりだ」
頷いて目の前に来た標本を示した。
硝子に囲われて展示されている精巧な物質だ。
ネムがルヴィの左腕から離れて、展示品を見下ろした。
手を叩いて喜んだ。
「すごい! 本物みたい」
「ネム嬢がこれほど喜んでくれるのなら、作家も本望だろうね」
可愛いの見本のようなイクシオリリオン女子の反応だ。
これには実は堅物っぽいパトリックも思わず赤面させる威力があった。
横目でにやついていると、パトリックは咳払いした。
「幸いなことに、ここで展示されている作品の作り手については、僕が母国の博物館で見たことがあったからこうして案内ができるんだけどね」
「ブラシュカ父子の作品ね」
ネムが声を弾ませた。
最近の憂いがすっかりと払われた顔で、兄貴分としても喜ばしい。
ところで、だ。
「その、ブラシュカ父子って?」
「ガラス細工の職人だよ。精巧な生物模型が有名なんだ」
パトリックが振り返りながら説明してくれる。
彼らの作品はエルム国立博物館にもあるのだという。
生物模型は、動植物など多岐にわたるらしい。
それが恐ろしく精巧なのだという。
「このカレッジは、ブラシュカ製ガラス模型の最大のコレクションを持っているんだ」
父はレオポルド・ブラシュカ。
その子はルドルフ・ブラシュカという。
ガラスと宝石細工を生業とする一族の出で、オウクのドレスデン近郊で工房を持っていた。
「その中でもレオポルドは幼い頃から才覚を現し、金細工や宝石加工に従事した後、家業のガラス装飾品や義眼の製造に携わったんだ」
宝石細工と聞くと、ティアラなのど装身具が思い浮かんだ。
「義眼、てのはちょっと異色だな」
「ガラスで作った瞳かしら?」
ネムは目をぱちくりさせた。
その薄青の瞳がそっと展示品の上をなぞる。
「これほど本物のような植物を造形するのだもの。素敵なお仕事をされていたのね」
パトリックは頷いた。
「ブラシュカ父子は世界中の博物館や教育機関のために、精巧な生物模型を作ることで貢献したんだ。……ちなみに、前回ジェンキンス教授が教養の講義で話していたピポーディ考古学民族博物館はやはりこの建物にあるよ。区切られているけれど、構造的には繋がっているんだ」
「つまり、ここで全部回れるってことだな」
「入館の仕方は覚えたわ」
入館に必要なのは学生証だ。
これはカレッジの敷地内に入る時にも必ず自動チェックされる。
ここに引っかかった場合は、提示が求められる。
………初めてこのカレッジに踏み入れる際に、トラブルになったのを思い出す。
「さて、僕たちのお目当てである、ブラシュカ父子によって作られたガラスでできた植物の標本『グラスフラワー』は、いつの季節でもいいよう実物大の植物標本模型がほしいという教授からの依頼のもとに作成された。1887から1936年の間に3000個以上作られ、その中でよいものを840点展示されているよ」
ネムの隣に並んで見下ろした。
展示物は、木枠のショーケースで古典的な雰囲気を感じた。
時の流れに取り残されたような独特な空気感だった。
そしてその中身はというと――
「すごい出来だな、これ……!」
我ながら語彙力がない。
するとネムがそれに被せるように感想を伝えて来る。
「この木の枝、とても繊細よね? ……ガラス特有の光沢があるところ、本国のオオツカ国際美術館の陶器でつくられた名画のレプリカを見たときとの感覚と似ているわ。あの時も、油絵とは違った光沢があったわね」
ネムと気が合うのは、感動した部分について来てくれる感性の持ち主であることも大きいだろう。そして気の合う隣人で幼馴染というと、何かをしたり、どこかに出かけたりする際に、誘いやすい相手だ。
母国で一緒に足を運んだ、製薬会社が作った本美術館と比較する。
ネムの運転で、海に架かった橋を渡った。
雨や風の影響ですぐに封鎖されるため、思いがけず車中泊したのは懐かしい思い出だ。
「あそこもド迫力だったよな……」
思い出に浸りながら、その時の作品群と比較していると、戸惑ったパトリックと目が合った。
「え、と。ここは序盤なんだけど」
「はっ ちょっと待ってくれ、ここのキャプションに目を通させてくれよ、急ぐからさ!」
展示品にかじりつくと、ネムが傍らを離れた。
「………ごめんなさい、リック。ルヴはこうなるとてこでも動かなくて」
「謝ることじゃないよ、ネム嬢。ただこんなにも夢中になってくれるとは思わなくてびっくりしただけで」
ルヴィが間にいなくても、会話はできる。
しかし隙あらば、ルヴィを間に挟もうとする。
うーん、謎だ。
「っとと、早く読まないとな」
「ごゆっくり」
声に苦笑が含まれていた。
ネムもそっと展示前に戻って来る。
「こういった精密性というのかしら、匠の技に目がないのよね」
「なー。このクオリティはほとんど完璧だぞ」
色彩はどこをとっても本物のようだ。
葉から枝の継ぎ目も、色の移り変わりも、見事だった。
「ねえ、リック。ここは植物の模型が集められているのでしょう? エルム国立博物館にも同じようなものがあるの?」
一つの標本をじっくり見ていると、その場の展示品を一通り目を通したネムが再びパトリックに話しかけた。既に来たことがあるパトリックは手持ち無沙汰だったのかもしれない。
「海洋生物の模型もあったよ。それがとてもリアルなんだ」
具体的には、蛸や海月、磯巾着などだという。
観察し終わった展示前から移動して次に移る。
「植物と海の生き物というと、あまり接点はないようだけれど」
そもそも植物と動物という点でも異なる。
展示には、暖色の柔らかい光によって照らされている。
蛍光色の照明とは違い、目に優しい。
横に横にずれて回っていく。
二人分の足音が後ろからついて来る。
「それには裏話があってね。彼は健康を崩したことで、保養の為に船旅に出たんだ。ここアクイレギアへ旅して戻ったというよ。その船上で海生生物、特に無脊椎動物の絵をかいて過ごしたんだ」
芸術家というのはただでは転ばないらしい。
鬱になっても、失恋しても、それを原動力に替えてしまうことも多い。
「オウク出身というけれど、その時にアクイレギアと縁が出来たのね」
「残念ながら、エルム国立博物館には、このカレッジ所蔵ほどには作品はないんだ。……財力に物を言わせて蒐集されたものがこのカレッジに寄贈されたからね」
「金……やはり万能か」
「身もふたもないけれどね。………もういいのかい、ルヴィ?」
とことこと二人の元に戻る。
そしてぐっと親指を立てた。
「たっぷり見させてもらったぜ、ありがとな」
どういたしまして、とパトリックが肩を竦める。
それからパトリックの解説と案内のもと、標本館の内部を一周する。
歩き回ったので、腹が空いた。時刻を見ると早めの夕食時でもいけそうだ。
「なあ、パット、ここレストランあるらしいぜ。腹空かね?」
「知ってるよ。案内しようと思ってた」
苦笑して打ち明けられる。ちょうどいいと案内してもらう。レストランでは、ステーキを頼んだ。ネムはパエリア、パトリックがベーグルサンドだ。サイドメニューでマッシュポテトサラダとアボガドサラダを追加する。これらはしめて150ドルとなった。
「ここはオレたちのお礼だから」
パトリックへ告げる傍ら、ネムがカードで払ってくれる。
そちらへ視線が行くのを見て、頷いた。
「オレらの財布は一緒だったりするんだ」
「へえ、そうなんだね」
深くは突っ込まないところが、パトリックのいいところだ。
説明してもいいが、知っても特にはならない。
引き際もあっさりしている。
――なのだが、パトリックはどこか歯切れ悪く、ネムの背中を見ていた。
少し考えて、振り返って会計を終わらせこちらへやって来るネムを見た。
「あれ、ネム。ちょっと顔色悪く見えるぞ」
「え? どこも悪くないけれど」
そう言いつつネムは顔に触れる。
手鏡を出して、確認するが、分からなかったのだろう。
顔を曇らせる。
「ちょっとパウダールームに行って来てもいいかしら」
聞いてきながらも、バッグの中からポーチを取り出し、既に心は鏡の前に向かっている。
「おー、オレらはここのベンチで話でもしてるから」
眉を寄せる以外はいつも通りの涼やかな美少女を見送る。
嘘も方便、すっかり姿が見えなくなってから、ベンチに先に座り、深刻な顔をしたパトリックを見上げる。
「んで、どうしたんだ?」
すると驚いた顔になる。
心外だ、それほど察しの悪いやつにみえたのだろうか。
むっと口をとがらせると、パトリックはすぐにそうじゃない、と先回りされた。
「そう、迷っていたんだけど、やっぱり君に知らせておいた方がいいと思って」
そこで告げられたことは思いも知らないことだった。
「………実は今、経営学科の、ピオニー系の女子たちの間でネム嬢についての、不名誉な噂が流れているんだ」
閉館時間で外に出ると真っ暗になっており、三人でタクシーに乗って帰ることにした。パトリックもカレッジの学生寮に住んでいるわけではなく、一般の学生向けの部屋をルームシェアしているらしい。こちらと違って、近郊に住んでいるので、パトリックが先に降りた。
「君たちも気を付けて帰って」
パトリックは外から後部座席に座るルヴィたちに顔を覗かせた。
昔より治安は改善されたとはいえ、夜の地下鉄は現地の人も乗らない。
「おうよ! 今日は案内ありがとうな」
「いろいろ教えてくれてありがとう。また会いましょう」
反対側にいたネムが腕をついて窓へ手を振った。
莞爾な微笑は一部の隙もなく完璧だ。
「また二日後の教養の時間に。それじゃ」
アクイレギアでできた、最も親しい友人は四十物言いたげだっただろうルヴィに視線へ別れ際に視線を向けてきた。ちらりと隣へ動くので慌てて笑顔を取り繕い、手を振った。タクシーは走り出し、パトリックの姿は小さく米粒サイズになる。……楽しいばかりと思っていた時間は終わりを告げたが、一つの懸念を残した。ネムが戻ってくる直前に受けた忠告が頭から離れない。
アマンダに気をつけろ、とパトリックは言った。




