22 無断欠席
レフェルト教授の号令で、グループワークの集大成の場に幕が下りる。
ぞろぞろと席を立つ学生たちの合間を縫って、その俯いた小さくか細い背中の手前で立ち止まる。
学生たちはその背中を避けて通った。
大学院生となったからには、ゆくゆくは研究を論文にし、学会で発表するまでが一連の通るべき流れだ。選択必修とは、その流れを体験するための講義だ。研究は個人で一から十まですべて行うものもあるが、多くは共同研究者が存在する。今回は、その模擬練習の成果を発表する場だった。
「お疲れ、ネム」
震える唇から、細く息が漏れ出ると同時に顔を伏せる。
「今日はこれで終わりだからさ。ここでゆっくりしようぜ」
そう声を掛けると、手のひらから震えが伝わってきた。
言葉はない。
聞こえるのは嗚咽ばかりで――最後にこの幼馴染が涙を見せたのはいつだっただろうと思い返す。それは遠い記憶のようにも、最近のようにも感じられた。
閉じこもってしまった同居人の部屋を通り過ぎ、階段を下りる。
プリズムの光のように虹色に輝く玄関扉を開くと、水音が聞こえた。
小さな虹が白薔薇に架かった。
庭に水を撒く老婦人へと、ルヴィは声を掛けた。
トラブル発生の兆しはいくつかあった。
予鈴がなったあとの着席の場面。
欠けた席。
険悪なテーブル。
幼馴染の、青ざめた顔。
壁に背中を預けると、驚くほど音を拾えることに気づいた。
階段を降りる足音、軋む床、声の振動。
『あらネム、お出かけかしら? 留守番を頼んだとルヴィが言っていたけれど』
扉を隔てて向こう側。
管理人室の窓口では、マリエは女優だ。
ルヴィが望んだように。
『……留守番? あの、ルヴは方向音痴で』
答えたのは少しかすれ、動揺をのぞかせる幼馴染の声。
内容には異議を申し立てたい思いでいっぱいだが、ぐっとこらえる。
『あら?……そうなの。ふふふ、大丈夫よ、もう一人の管理人の買い出しに手伝いに行ってもらったの』
おかしそうな笑いは、ルヴィに向けてだ。
揶揄われているような気すらした。
『そう、ですか』
『………置いて行かれるのは、寂しいわね』
『え? いえ……』
声だけでも相手の気持ちがわかるものだ。
ちょっと扉を開いて飛び出して行ってしまいたい気持ちにかられた。
ぐっと目を閉じて口をつぐむ。
『――私もそうなの』
突如とした言葉に、ルヴィは閉じた目を開いた。
『私も置いて逝かれたの』
何度か目を瞬く。
なんだか、マリエの口調に違和感を覚えたのだ。
その声は静かで穏やかで、ただただ優しい。
なのに、泣いているようだ。
『マザーも?』
偲ぶような、囁く笑いが聞こえる。愛情というものの湿度と温度を伝えてくるようなそれに無性にその場面を覗きたくなった。それはきっと美しい光景なのではないかと思った。声音に茶目っ気が加わる。
『彼女はね、私を年寄り扱いして呼んでもくれないのよ?』
彼女……。
それは文脈から察するに、もう一人の管理人たる女店主だろう。
『寂しい者同士、一緒にお茶でもどうかしら』
『お茶……』
『人と一緒にするお茶は心を慰めてくれるのよ。傷ついた心もね』
もし母性というものがこの世に姿を現したなら、それはマリエじゃなかろうか。
二人分の足音が遠ざかるのを聞いて、そっと扉から離れ、ソファに腰かけた。
張り詰めていたものがなくなり、周りを見渡すゆとりが生まれる。
「管理人室の奥ってこうなってるんだな」
窓口から直接は見えないが、休憩できるような設備が備えられた空間だ。内装はシンプルで、大きなステンドグラスの窓を挟んで、硝子戸の付いた、背の高い本棚と腰丈までの本棚が壁に設置され、真ん中にはU字型の長椅子とカウチの間のようなソファ、その空いたスペースにローテーブルが置かれている。
「静かだな……」
大きな窓からは裏庭をまどろむ薄暮の光が差し込んできているのか背中が温かい。ステンドグラスの多彩な色の光をまとった空間と、どこか眠気を誘う温もりを背に受けながら、休憩室の中をぼうっと眺めていると、ふと右手の本棚の中身が気になった。
「この本の多さ、飾り本ってわけじゃなさそうだけど。マリエの趣味……なんかな?」
ソファの背もたれに手をついてぐっと顔を近づける。硝子戸は、現代ではなく昔の技法で作られたものなのか、歪んで見える。その壁の一面を覆い尽くす背の高い本棚の中は、びっしりと専門用語の書かれた書籍で埋め尽くされているようだった。
「激むず……さっぱり分からん」
まるきり専門外なのだけは分かる。エルム語の専門用語は、本国の単語とは違い、その用語を知らなければ内容を推測することもできない。ただ、なんとなく、生物学的なもののような感じがした。
その向かい合う壁の、腰丈ほどの本棚には、乾燥した植物が入った瓶が整然と並んでいた。
「ハーブ、か?」
ラベンダーやら、ローズマリーの分かりやすい乾燥したものが入っていた。ふと、向かいの雑貨店で並んでいた香辛料を思い出す。たしか、ハーブ系のもののラインナップに同じものがあったはずだ。
植生の講義で、植物図鑑を見直していたルヴィは腰を上げて硝子瓶の中身を覗き込んでいると、その棚の影になるところに、毛色の違う標本があるのに気づいた。もっとよく見ようと身を乗り出したとき、扉がひそかに叩かれる。
「……いるかしら?」
「あっはい!」
潜めき声で返事をすると、マリエが顔をのぞかせた。
片手で紅茶を乗せたトレイを器用にのせている。
マリエの背後にはティーセットを乗せたワゴンがあった。
「私はネムと応接間でハイティーをしているわね。ルヴィはこれでちょっとお茶をしていてもらえるかしら? もう少ししたら、部屋に戻っても問題ないと思うわ」
慌ててマリエの左手からトレイを受け取る。
「あの、オレも管理人の仕事で手伝うことないですか? いいことしたように言ってもらったのに、実際そうじゃないから、気まずくて」
するとマリエはほほ笑んだ。
「それじゃあ、この部屋を出て、奥に厨房につながる入口があるの。そこの中央の台に飲み終わったものを置いておいてもらえるかしら?」
それだとただのあと片付けにしかならない。
そう思っていると、マリエがくすくすと笑う。
「もう少ししたら、レジデンスの前に荷物が運ばれてくるの。それを厨房まで運んでくれると助かるわ」
思わず返事をしようとすると、マリエに指を口の前に置かれた。
「しー……静かに、あなたはいないことになっているのよ? 忘れないで、役者さん」
両手はトレイで埋まっているので、唇を引き締めて、何度も頷いた。
まったく設定について、うっかりしていた。
「それじゃあ、ネムを待たせているから」
「お願いします……」
マリエは薄暗くなり始めた空間に照明をつけて、ワゴンを運んで行った。
それを途中まで見送り、扉を静かに閉めた。
トレイをローテーブルに置いて、ソファに座り込む。
「安心感が半端ない」
ぐっと伸びをすると、柔らかな照明が天井に影を作っていた。
体を起こし、ティーポットに触れる。
パカリと空いた蓋の中から、紅茶が香った。
この香りが、少しでも幼馴染を癒してくれればいいと思った。
ネムが非難されるいわれはないのだ。
仕事であれば、よくやったと言われる。研究だってそうだ。
ただ、今回の主題は、共同研究の過程を経験すること。
それに付随する成果を提出することだ。
「メンバーの尻拭いしたネムを、晒し物にしやがって」
何があったのか、分からない。
ただ、発表前に、各グループで集まった時には顔色が変わっていた。
他のグループの発表の間中も、ずっと何かを作業していた。
そして、発表の直前になって、何かをアンドリューに見せたあと、アンドリューは自分の携帯を開いた。プレゼンテーションの間中、発表者のアンドリューが始終持っていたのは、それだった。ネムは――強張った顔をしていた。ネムのグループに起こった異変はもう一つ。ジェシカの姿がなかった。
マリエの言いつけ通り、お茶を飲み終えた頃に後片付けをしてからいったん部屋に戻ったルヴィは、リビングの窓から、アクイレギアらしい大型車がアパートの前に止まるのが見えて、慌てて階段を忍び足で降り、アパートの外に出た。
その時には、ちょうど運転席から向かいの雑貨店の店主が現れた。長いグレーの三つ編みが肩から、スレンダーな胸の前に滑り落ちた。
「あの! マザーマリエから言われてて、荷物運ぶの手伝わせてください」
「……どうして小声なんだ?」
これには訳があって、と首を掻く。
雑貨店の店主は、アパートのもう一人の管理人でもある。
高齢のマリエばかりが、常駐なのはどうしてかと疑問に思っていたが、雑貨店の店主も兼業しているのならば納得だ。手分けをして荷物を厨房に運び込むと最後に礼を言われた。こちらこそである。おかげで、言い訳を真実に近いものに出来たので。
堂々と足音を立てて3階に戻ると、後をつくように1階から扉が開く音がした。
「……ルヴ?」
階段下から小さな声が聞こえた。
扉の前から階段へと戻り顔を覗かせる。
「おっ ネム、ただいま~」
さも今帰って来たばかりを装いつつ、幼馴染の顔を覗う。
顔色はよくなっていた。1階に降りていくと、ネムに迎えられる。
「おかえりなさい。今、マザーとお茶をしていたの。ルヴも一緒にどう?」
「へエ~ソウなんだ! じゃあオジャマしようかナ~」
我ながら妙に片言になってしまう。すると笑い声が聞こえた。
開いたままの扉の向こう側からだ。
そこからマリエが姿を現した。
「ルヴィもどうぞ。ジャミラの手伝い、ありがとうね」
「イエイエ、そんな! ちょっとしかしてないので……」
マジでそうなので、素が出た。こっそりネムを伺うと、青ざめていた顔は血色が戻ってきていた。肩の力が抜ける。女の子のメンタルフォローは繊細で、なかなか難しい。ルヴィは管理人であるマリエに会釈して感謝を示した。




