20 災害大国
カレッジに通学する時間になって、アパートの玄関扉を閉めようとすると、思い出したかのようにネムが声をあげる。
「……あ、ちょっと待って」
玄関から部屋に戻っていく。後ろから覗いていたルヴィは、机の上に置かれていた黒い機器をショルダーバッグに詰め込むのを見た。あれはたしか、護身用の……。
かつてネムの身内であった人から持たされたものだと聞いている。
職業柄、他国での治安には敏感な人だったなと思い出す。
振り返ったネムがほっそりとした手で掴み取る。
「充電して出しっぱなしにしていたわ」
昨日は、夕食前にはレフェルト教授のグループワークの担当箇所を終えて出てきたがとても疲れた顔だった。その分、夜はゆっくりと眠れたらしい。顔色は悪くはなかった。それはもしかすると、今日の講義が関係するのかもしれない。2コマある日なのだが、そのどちらも心の優しい内容だ。
ネムの危機管理の徹底振りに感化される。
「なあ、オレもなんか持ってた方がいいんかな?」
残念なことに、カレッジの敷地内でも危ない場所というのは存在する。
自分の身は自分で守れが、当たり前のこの国で、ルヴィは格闘技はおろか、護身術の一つも習ったことがない。かといって銃を持つのは論外だ。
「用心するに越したことはないのではないかしら? わたしも本当にここまで必要かどうかなんてわからないけれど。……はい、これあげる」
小瓶サイズのなにかをもらった。
透明な液体が入っている。
「何ですかなコレ?」
「催涙スプレーよ」
至近距離でなければ使え無さそうだ。
ありがたくバッグに入れておく。
地理学というのは、非常に多様性がある。地理学を二分する、系統地理学と地誌学の関係を分かりやすく示すために、地理行列(geographic matrix)がわざわざあるくらいだ。このように細分化すればきりがないが、ざっくりいうと、空間、場所、地域、地域性、環境、景観というキーワードがあれば、地理学といえる。ただ研究するとなれば、焦点を絞らなければならない。
今回は、自然地理学と人文地理学を融合した分野の一つ、災害(防災・減災)に関する研究などが挙げられた。
イクシオリリオンは、4つのプレートが接するところに位置している。
それらとは、大陸プレートである、北苧環プレートと白樺プレート、海洋プレートである、寧海プレートとビリンビ海プレートだ。
イクシオリリオン自体は、北東から西南に伸びている細長い島国だ。
七千以上もの島々から成る。
西南は白樺プレートに、東は北苧環プレートに、イズ半島はビリンビ海プレートに乗っている。
大陸プレートである北苧環プレートと白樺プレートの下に、海洋プレートの寧海プレートとビリンビ海プレートが潜り込む運動が現在も進行している。イクシオリリオンは、狭まるプレートの境界の密集地なのだ。
巨視的には、新期造山帯の一部をなし、現在でも地殻変動が活発だ。
「全体として、『山がち』な地形で、山地・丘陵地が占める割合は陸地の75%。台地が11%、低地が14%となっています。河川は、山がちの為、川床の傾斜が急です。河川による土壌の浸食速度は世界的にも極めて大きい地域です」
本国の土壌侵食速度の平均は年間0.1mmだ。
最も速い場所、クロベ川では年間6.0mmも土壌を削り取る。
「オレの母国であるイクシオリリオンの都市の多くは、河川が浸食・運搬した土砂が堆積した堆積平野上に立地しています」
ちなみに、堆積平野の逆は、浸食平野という。
「イクシオリリオンは列状に並ぶ島々と形になっています。7000万年前の中生代には大陸の一部だったとされています」
ここには諸説あるが、教養講義のため、最も定番の説を出す。
しかし、担当の教授が教授であるため、念のため引用にした。
「2500万年前に大陸の東部で火山が活動し、多量の玄武岩溶岩が貫入し、地溝が形成され、縁海が拡大しました」
拡大する縁海により、陸地の一部が分離し、分裂しながら、移動、回転した。
大洋と大陸の間にあり、大洋側に弓上に膨らんだ形になった。
「500万年前に、東北イクシオリリオン弧と、西南イクシオリリオン弧が現在の位置で衝突し、イクシオリリオン列島が形成されました」
イクシオリリオンは弧状列島であり、地質学ではその構造を元に、大きく東北側と西南側とに分けられる。
「この衝突境界部分について、フォッサマグナといいます。その後、プレートからの力が加わり、山地や山脈が形成されました」
これが先ほどの、山がちの地形の由来だ。
イクシオリリオン列島の大半は付加体で構成されている。
付加体とは、海洋プレートが運んできたプレート上の堆積物や地殻・上部マントルの一部が、海洋プレートの海溝への沈み込みに際して引きはがされ、大陸側に付着したものだ。
ここからが今回の講義のテーマに即した内容だ。
「イクシオリリオンは、プレート境界に位置することから、地震やそれに伴う津波の被害が生じやすいです」
地震には、プレート境界型地震(海溝型地震)とプレート内地震(活断層型地震)の二つがある。
活断層とは、最近の地質時代(新生代第四紀)に活動したことがある、または今後活動する可能性がある断層のことだ。
「クリープ性と間欠性では、どちらだ?」
最中に、問いが挟まれ、隣のネムが息をのむのが分かった。
心配げな視線を受けながら、淡々と答える。
「間欠性にあたります。本国の中部で高密度となっています」
比較的軟弱な堆積物が厚く堆積している地域では発見されにくく、またM6.9未満の活断層は地表面に動いた痕跡を残さない。そのため、潜在断層がある可能性もあるが。
プレート境界型地震は、震源がプレートの境界(海底)にあり、震源が深く、比較的大規模あるいは巨大地震であり、被害の特徴としては津波となり、周期は百年程度である。ちなみに、世界で最も多くの死者を出した津波は2004年緒スマトラ沖地震によるタマリンド洋大津波で、死者22万6000人を出している。本国では、ムロマチ時代に起きた1498年のメイオー南海地震津波が、国内で最も多くの死者4万1千人を出した。
対して、プレート内地震は、震源がプレート内部(主に陸地の直下)にあり、震源は数十km程度で浅く、比較的小規模で、規模が小さい割には局所的な被害が大きく、周期は千年弱から1万年である。
つまり、イクシオリリオンは世界的に見ても屈指の災害大国なのだ。
これが今回、わざわざザイガー教授からの指名で発言を求められた理由だ。
ちなみに、災害が起きやすい国と災害による死亡者が多い国とは別物だ。
先日の異分野のグループワークとは異なり、自分の専門を語るのは訳はない。
典型的な地質学の研究を行う、銀縁の眼鏡を掛け直したザイガー教授は、冷たい紫の瞳で睥睨するように講義室を見渡すと、すい、とルヴィに目を向けた。隣に座るネムが緊張するのが感じられた。
「『津波』はイクシオリリオン由来の単語という。主だった津波の被害を挙げてみろ」
ネムは自分が当てられたかと思い、青ざめた。
しかしザイガー教授はじっとルヴィを見据えている。
「世界の歴史的津波の被害で、最も多いのが、2004年のタマリンド洋大津波の22万6000人です。2番目に1755年のリスボン地震津波で6万2000人、3番目に1782年の南縁海津波で5万人、4番目に1498年メイオー南海地震津波4万1000人、5番目に1883年のクラカトア噴火で6万6000人があります」
ザイガー教授は目を細めて首を傾けた。
緩くまとめている波打つ銀髪が肩に零れ落ちた。
「ワースト10を上げるとしたら、半分はイクシオリリオンで起きた津波が挙がったはずだ。……さぞ、災害に苦労していることだろう」
意味深な視線を向けられ、ルヴィは慎重に答えた。
今回は災害に関するテーマだ。
「イクシオリリオンで水害に言及すれば、津波よりも豪雨災害が身近です」
「それはモンスーンの影響だな。分から時間単位の降水量は、スコールがある熱帯・亜熱帯で多いな。月から年降水量は、最多雨地域であるチェラプンジで圧倒的だが」
チェラプンジとはタマリンドの北部、メーガーラヤ州に位置する。高温多湿で非常に雨の多い地域だ。洪水も頻繁に起こり、通常の端では激流によって流されてしまう。そこで強靭な根をもつゴムノキを用いて、生きている状態の樹木の根で簡易な吊橋を作っている。直訳すると『生きている根の橋』という根の橋が独特だ。
思わず、ルヴィの口も滑らかになる。
「チェラプンジは『生きている橋』で有名な場所ですね。オレの母国であるイクシオリリオンの気候における特徴は豪雨であるとも言えます。一日の降水量で見ると、イクシオリリオンは世界で最も多い降水量を記録する地域の一つです」
激しい降水をもたらす原因は梅雨前線と台風だ。
梅雨前線は、1957年7月25日、サイゴウで1109mmを観測し、イサハヤ豪雨と名付けられた。
台風は、1976年9月11日、ヒソウで111.4mmを観測した。
「河床勾配が急で、土壌侵速度が速いイクシオリリオンでは、これらの豪雨が崖崩れや土石流、洪水を引き起こしてきました。昔から、堤防の整備や河川改修など、防災設備の整備や、台風の進路予報などの防災情報の作成・伝達方法の改善などによって、被害は小規模化しています。しかし、河川の暗渠化やコンクリート壁での囲い込み、アスファルト舗装の普及によって、都市型水害が増加していますが」
はっとして言葉を止める。
ネムが口許を押さえて、へえ、と感心した顔をしている。
完全に聞きの体勢に移っていた。
「私の専門ではなくなるが、その対策はしているのか?」
やってしまったと思ったが、ザイガー教授は否定するでもなくさらに問いかけて来た。
「特に降水量が多くなる、寧海側の地域では、道路を舗装するアスファルトを道路中央を高くし、僅かに低くしていきながら、最も低くした歩道に沿う下水口まで雨が流れるように傾斜をつけています。それらの地域では、雨が降っても道路が浸水することはほぼありませんが、降水量がそこまでひどくない地域では、いまだに道路や歩道に水たまりができたり、冠水したりしますね」
イクシオリリオンは狭い国のようでいて、地方の特色が今も保持しているため、文化も風習も人の性質も違う。
「災害への対策は、より被害を受ける地域で特に工夫されているのだな。……当たり前か」
ルヴィが顔を上げると、ザイガー教授は口許を押さえるところだった。
なんだ?と首を傾げた時、ここまでとすると突然言われた。
課題を言い渡され、それを確認しながら、腕時計を見ると、講義終了の時刻間近だった。
「今回は急に終わったね」
パトリックがばっさり打ち切られたような終わり方に違和感を抱いたようだ。
「………ほとんどルヴとザイガー教授とのおしゃべりだったわね」
「ふたりの問答があまりにもテンポが良くて入り込めなかったよ。……入り込めるような難易度の話じゃなかったけれどね」
ネムとパトリックがルヴィを挟んで会話をする。
そこに手を立てて通してもらう。
「オレ、ちょっと聞きたいことあるから行ってくる!」
目を丸くするふたりに見送られる。
「いつの間に仲良くなったんだろう、あのふたり」
「最初はあんなに険悪だったのに……」
納得のいかなさそうな声が聞こえた気がしたが、早く壇上まで行かなくては、ザイガー教授が行ってしまうので確認する時間を惜しんで急いだ。
「ザイガー教授、ちょっと聞きたいことが」
聞きたいのは、来年の夏季集中講座のことだ。
地理学の集中講座は隔年で教授の持ち回りになっている。
「来年は私の開講ではない。今年終えたからな」
「そっ………そうですか」
がっくりしたが、気を取り直す。
「それじゃ、他のカレッジでザイガー教授のお知り合いの地質学の教授はいらっしゃいませんか?」
他校の集中講座を受けることも可能だ。
「それならば、ライムライト大学にヘイズ・ゴリッジ教授がいる」
「名門ですね……」
直近で、そのカレッジ名を聞いたことがある。
一つ下の階に住む、先達のエミが、そこのカレッジに通っていたはずだ。
「このカレッジの学生であるお前もその名門出身になるのを忘れたのか?」
「そうですけど、そうじゃないっていうか」
鼻で鳴らされる。
「訳の分からぬことを」
冷淡な振る舞いは誰に対してもデフォルトなので気にしない。
用は済んだので、それじゃ、と戻ろうとすると、呼び止められた。
「何ですか?」
「――イクシオリリオンと言えば、環太平洋造山帯で、最も火山活動が活発な地域だ。噴火による被害も大きいだはずだ」
先ほどの講義の続きのようだった。
終了の時間に合わせて慌てて打ち切ったので、不完全燃焼なのだろうか。
「はい、ザイガー教授はご存じかもしれませんが、イクシオリリオンでは火山帯を、東イクシオリリオン火山帯と西イクシオリリオン火山帯と分類します。これらの火山帯の東端は明瞭で、マグマの噴出量も東端に行くほど多いです。東端はまさに火山前線ですね」
拳を握って力説する。
あそこへ直接赴いて、鉱物を発掘するのは少年時代の思い出だ。
「何故それを挙げなかった?」
「うん?」
首を捻って頷いた。なるほど、災害が多いという言葉に対して、水害という視点で豪雨災害を話すのではなく、ザイガー教授の専門である地質学的な視点で言うのが期待されていたのかもしれない。そう思ったのが顔に出ていたのか、しかしザイガー教授は首を振った。
「単純な疑問だ。深い意味はない」
「……火山は、どちらかというと、オレたちの国じゃ、恩恵として見ていることが多いんです。具体的には、火山の景観や温泉などの保養観光資源に恵まれたりとか。地下資源も、実は比較的豊富なんです。イクシオリリオンの戦国時代というのはご存じでしょうか?」
「………サムライか?」
ルヴィは頷いた。
「はい。わかり易く言うと、その侍が活躍した時代ですね。戦国時代に、大名という領主が競って鉱山開発に力を入れ、経済的基盤を確立しようとしたんです。当時のイクシオリリオンは、世界有数の金の産出国でもありましたから。今でも屈指の金産地もあります。70年ほど前に発見されたヒシカリ鉱山では、鉱石1トンあたり、約70gという高品位の鉱石が採れますしね」
通常の鉱山からは、鉱石1トンあたり3~5gほどしか取れないので、どれほど優秀かはザイガー教授ならばすぐに理解されるだろう。
「……素晴らしいな。さすがは黄金の国といったところか」
*****
桁が違うのだ。巨大都市リグナムバイタのマグワートは人が密集している地区で、あらゆる人間が混在している坩堝だ。善人もいれば悪人もいる。善人同士が隣人となり暮らし、悪人同士が傷つけあうだけならいい。しかし、現実は悪人は善人を傷つけ、善人の隣人は善人ばかりではない。発生する犯罪件数=被害者数でなければ、加害者数でもない。
担当となった事件は胸糞悪いものだった。
被害者は一名。名門のカレッジに通う品行方正な女学生だ。
両親は一人娘の身に起きた惨事にすっかり憔悴している。
「ねえ刑事さん、本当にどうなってしまうんでしょう」
「大丈夫です。娘さんを傷つけた犯人は必ず突き止めます」
「でも、でも……」
ブラウンのひっつめ髪を振り乱して母親が嘆く。
黒縁の大きな眼鏡をした父親がその肩を抱く。
「刑事、お願いです。どうにかして、どうにかして見つけてください……」
泣き崩れる妻を支える夫がきつく目を閉じてから、見上げた。
灰緑の瞳には涙がにじんでいた。
ぐっと食いしばった歯の軋みすら聞こえてきそうだ。
「このままではやり切れません。私たちはこれまで職務に身を捧げ、多くの苦しむ人々を救ってきました。それなのにどうして私たちの娘がこんな目に遭ってしまったんでしょうか。神は私たちの娘をどうして守ってくれなかったのでしょうか」
膝の上で握りしめた拳には欠陥が浮いていた。
顔を覆った母親が泣き叫ぶ。
「あの子はまじめなとてもいい子なんです! なのに……」
悲嘆にくれる夫婦は視線を天井に送ると、悔し気に悲し気に俯く。
頽れる二人の前にビルは膝をついた。
「必ず我々が犯人を見つけます。ですから、どうか気を強く持って。娘さんのために、あなた方も健康でなければならない。娘さんを支えるあなたがたが倒れてしまっては誰が彼女を支えるのですか」
するとはっとしたように夫婦は顔を上げた。
反応が返ってくるのを確認してしっかりと頷く。
「この卑劣な犯人を見つけ、二度と同じことができないようにさせます」
そう被害者家族に誓った時だった。
二階から窓があく音がした。
弾かれたように母親が、次いで父親が視線を向ける。
部屋を出て階段を駆け上がったのは母親が先だった。続いて父親が。
「やめて、やめてちょうだい!」
「お願いだ、早まらないでくれ!」
ビルは部屋を出て二人とは違うところへ駆け出した。
ドアを激しく叩く音が聞こえる。常にない、けれどこのところよく耳にする母の取り乱した声が聞こえてくると痛みを感じなくなった胸が再び苦しくなるような気がした。体に巻き付けていたカーテンから手を放し、開け放った窓枠に立つと、足がすくむ。ふっと気が遠くなった。体が軽くなる。つま先で空をひっかき、両腕を広げて風を受ける――鳥にはなれなかった。
大きな何かに受け止められ、衝撃が緩んだかと思うと、落ちた。
さりさりとした葉が顔に触れ、大きな影が下から上に降りかかる。
音が遠く聞こえない。大きな影が何かを言うが、半分赤く染まった視界では分からない。
「ご……めんなざい」
もう辞めたいと思った、人のままだった。




