14 因縁
週末が明けて、一発目は地理学の専門講義だ。
そしてそれは、先週の教養講義で屈辱の記憶も新しい因縁の相手が教壇に立つ。
ザイツ・ザイガー。
地理学の中で、主に地質学を専門とする教授だ。
オウク人であり、弱冠二十八歳でこの名門カレッジで教壇に立った。
現在は三十六歳。
長い銀髪を後ろにまとめ、眼鏡を掛けている冷たい容姿の持ち主だ。
その外見を裏切ることなく、講義の進行中もおそろしく冷ややかだ。
「諸君らは、少なからず地理学に関心をもって臨んだのだろうが、専門にしたいという者が臆面もなく『地理学を専攻したい』などというのは乱暴に過ぎるな」
他の講義では、多少なりとも私語があるものだが、この時間はしんとしている。
思わず、唾を飲み込むのも気が引けるほどだ。
「地理学は、大きく二つに分けられる。……答えろ」
「……えっと」
学生が答えられずにいると、ザイガー教授は鼻を鳴らした。
眼鏡越しの冷ややかな視線が学生たちを浚っていく。
「もういい、他に地理学を専攻などと言ったのは……先週の教養で無様を晒した者の隣人に聞こうか」
先週の教養、といえば、それはルヴィのことに違いなかった。
覚えられていたのかという思いと、むかっ腹が立ち――身震いした。
ゾクリとしたものを感じて隣をみる、当てられたネムが座っている。
「どうした、返事もできないか、ズマ」
「――系統地理学と地誌学です」
ネムが教授に負けないくらいに冷ややかに答えた。
「アクイレギアでは、学生を当てる時、名前で呼ばず、『お前』や『隣』などというのですか?」
冷たい美貌では、ネムも負けていない。
美人が怒ると何故こんなにも迫力が出るのだろう。謎だ。
「お前の国では、不勉強な者をひとりの学生と扱えと? 見込みがありそうだと思ったが、見当違いだったか。この程度は前知識として持っておくのが当たり前だ。図に乗るな」
ネムが剣呑に目を眇めた、果実のように瑞々しい唇が歪む。
何かが飛び出すんじゃないかと冷や冷やする。
……と、ザイガー教授の青い視線がこちらを見た。
「――お前の連れの頭には前知識は入っているようだ。では先週の無様を撤回できるか? それぞれの分野について説明してみろ」
ネムのこと、褒められたようだ。
ほっとするのは一瞬だ、挑むように目に力を入れて見返す。
「地理学を二分するこれらについてですが……」
系統地理学(systematic geography)は、地表における個々の事象を対象として、その地域的差異や要因を探求する分野で、地誌学(regional geography)は、特定の地域を取り上げ、その地域的性格を総合的に考察する分野だ。
「そして、地誌学で取り上げる地域のスケールは、大陸レベル、一国レベル、国内行政区――たとえば県、市町村レベルなど多様です」
眼鏡の奥で、一つ瞬いたのが分かった。
「………系統地理学は、さらに二分野に分かれる。続けろ」
可も不可もなく、続けるよう指示されるだけだった。
なんなんだ、と思いながらも、息を吸って答えた。
「自然地理学と人文地理学の二分野です」
そして返しがないので、そのまま説明を続けた。
「自然地理学(physical geography)は、地表面のさまざまな場所における自然環境の特徴や仕組み、成り立ちを解明する分野です。この分野はさらに地形学、気候学、川がどう流れてどのように地が削られるのかを研究する陸水学、生物地理学などに細分化されます。もう一つに人文地理学(human geography)という、人間活動を空間的に研究する分野です。人口、民族、集落、都市、農業、工業、商業、交通などについて、それらの地理的分布、地域的構造、環境との関係を研究する。この分野も、さらに経済地理学、都市地理学、歴史地理学、社会地理学、政治地理学などに分かれます」
まだ反応がないのかとさすがに怪訝に思い、睨みつつ覗った。
鼻白んだ顔だったが、組んでいた腕をようやく解いた。
「――実地はともかく、前知識はあるようだな。そこまで承知しているのならば、お前は何を研究するのか、決めているのか」
教壇で両手をついたザイガー教授がルヴィを見上げる。
初めて真面目に向き合った、そんな印象だった――しかし、その問いは今までの問いとは違ってルヴィの闘志をすぼませるものだった。
「………いいえ」
歯を食いしばりながら答えた。
「そうか――」
想像したのは、この程度かという目だ。
しかし違った。
「地理学とは細分化すればきりがなく、また分類したものをさらに融合した分野も存在する」
地理学を二分する、系統地理学と地誌学の関係を分かりやすく示すために、地理行列(geographic matrix)がわざわざあるくらいだ。
「空間、場所、地域、地域性、環境、景観というキーワードさえあれば、地理学と言える。諸君らは、教養ではなく専門としてこの講義に参加している。いずれ研究するとなれば、この膨大な事象の中から、焦点を絞らなければならない。それを肝に銘じておけ」
そう言って、講義を締めくくった。
「さっさと行きましょう」
「そんなにかっかするなって、ネムさんや」
ネムは初回のことがあったからか、ザイガー教授のことが気に入らないらしく、講義が終わって図書館に移動しながらも、唇を噛んで悔し気だ。
今日はザイガー教授の専門講義一コマのみ。
教養科目の気楽さとは打って変わって気力を消耗したので、帰ってもいいのだが、カレッジに来るまでに往復1時間と考えると、勿体なく思ってしまう。
「っとと、あれ? この先、こんな壁あったか?」
「仕切り、みたいね」
講義室を出て、連絡橋で別の講義棟へと移り、さらにそこから直接通路が図書館にかかっているのだが、途中でルヴィたちは立ち止まる。蛇腹式の、ごつい鉄の仕切りによって連絡橋の手前で封鎖されていた。仕切りの真ん中には、太字の看板がかかっていた。
「立ち入り禁止にするだけで、こんなに厳重に封鎖するのかしら?」
本国であれば、テープを引くか、コーンを立てるぐらいだろう。
向こう側が見えない徹底ぶりだ。
耳を澄ませたが、向こう側は無音のようだ。
「音がしないから、工事中でもなさそうだけどな」
「………中はちっとも見えないわ」
ネムがつま先立ちして覗おうとする。
そんな程度では、ルヴィ以上のものも見えないだろう。
思わず可愛くなってしまい、頭を撫でた。
しかし物々しい封鎖だ。
「傷害事件現場だったりして。リグナムバイタはカレッジ内も治安が悪いみたいだし」
「カレッジ内も? 外つ国は危険がいっぱいね」
ネムは知らないが、ルヴィがはじめてこのカレッジに足を踏み入れる手助けをしてくれた相手は、女二人のキャットファイトの渦中の人になっていて、大変な修羅場を起こしていた。今にも口以外に、手や足が出そうな剣幕で、ルヴィを背筋がゾッとしたのを思い出す。
「……ここが通れないのは仕方ないわ。ひとつ上の階の渡り廊下から図書館へ向かいましょう」
ネムが顔を曇らせた。
脅かせすぎたかもしれない。
「何かあったら、オレが守るって」
「……さっき、リックが現れた時みたいに?」
雪のように白い頬に血色が戻り、くすっと笑った。
「あ、あれは心の準備がなくって、恰好が付かなかったからノーカンで」
あの時は、驚いて声が震えていたが。
印象の悪い教授の講義だったが、いい出会いもあった。
エルムからの学生だというパトリックとこれからもあの講義で会えるのは、素直に嬉しい。
「カウントしても、あ――」
ネムがルヴィの背中に隠れた。
どうしたのかと立ち止まりそうになったが押されるのでそのまま進む。
するとその理由が分かった。
渡り廊下の前方から、女学生たちが広がって歩いていた。
騒がしいのが聞こえて来る。
ネムに腕を掴まれながら、仕方なしに先導する。
「それでえ、パパが来年のCESに参加するの。レギーも毎年参加するって聞いたんだけど、私と……」「来年の予定なんて今から覚えておくのは面倒でしょ、ねえ、あたし、今週末にパーティーを開くんだけど、エスコートに来てくれない?」「私モデルやってるじゃない? 懇意にしているオーナーから水上コテージを貸し切りにしてもらったの。一緒に過ごそうよ。ほら……二人っきりで」「従兄弟が所有してる山荘に是非来て。凍った湖面と朝霧がよく見えるらしいの。秋休みの連休なんてど」
どうやら女学生たちの真ん中に意中の男がいるらしい。
前方を歩く女学生たちも振り返りながら話しかけているので相手は分からないが、いったい何人の女学生たちを侍らせているのか。
内心で呆れていると、一際甲高い声が響いた。
「ふん! 来年の予定を取り付けようですって? エスコートに相応しい相手かしらあなたは? 水上コテージなんてどのランクの物なのかしら? わざわざもっと寒いところに誘うなんてね! あーあ! 馬鹿げてる! ここにいる女全員馬鹿よ」
全方位に喧嘩を売る瞬間を目の前で見てしまう。
空気が変わるを肌で感じた。怒髪天を突く、とはこのことだろう。
「レギン、あたしのパパがプリオメレに別荘を持ってるの。一緒に南国で過ごしましょ!」
その怒りの矛先は決まっている。
全くかかわりのないルヴィでも判るほどだ。
冷ややかな声がその対象に投げかけられる。
「ねえ、メリアはパーティーの計画なんて立ててる場合?」
「何か問題でも?」
「だってねえ」
意味ありげな視線が飛び交い、嘲笑が彼女を取り囲む。
「訴訟沙汰になってるそうじゃない? 確か相手は、親友の……」
「エヴェリンね。可哀想に女の顔を瑕物にしてさ」
俯くのが見えた。
周りを取り囲む女学生たちは一様に笑顔だ。
赤髪の女学生を代わる代わる覗き込む。
「メリアの方から掴みかかったって話、聞いたよー? 加害者じゃん」
「なんだ、立派な犯罪者ー?」
「警備員から押さえつけられたって、聞いたけど? どこの動物園から出てきた猛獣だっての。うける」
どっと笑いが起きる。
気になるのは、こんなにも周りの女学生が騒いでいるというのに、囲まれている男が一言も喋らず、我関せずと自分の歩幅で歩いていることだ。おかげで、たっぱの違いから女学生たちは、息切れしながら罵倒を続けている。
「そ、それに、もうメリアは用済みでしょ」
「そうそう! レギーは顔を覚えていなかったから、間違ってもう一晩過ごしただけ」
「ほ、ほんとに、それって勘違いも甚だしいとは思わない?」
まるでアスリートだ。
息切れで、女学生たち笑い声がとぎれとぎれになりながら響く。
攻撃の標的になった女学生は立ち止まり、集団から一歩遅れてしまう。
その横をルヴィたちはようやくすれ違うことができた。
「ねえ、冬至祭はどこで過ごすの? いつもご両親が教会に行っていると聞いたわ。どこの教会に行く予定?」「ちょっと抜け駆けしないで。前夜祭はあたしと」
立ち止まった女学生の横を通り過ぎるとき、思わず覗ってしまう。
食いしばった歯が、真っ赤な髪に隠れた横顔の隙間から見えた。
思わず心配しかけたが、それも吹き飛んだ。
赤い髪を靡かせて、前の集団に追いつき、食って掛かった。
「あんたの彼氏たちに言いつけてやる。さすがに四股は危険なんじゃない? あんたも溺愛してるパパとママに爛れた週末を過ごしてるって知らせてあげなきゃね!」
他の女学生たちへの脅しを口にしているようで、周りの女学生たちは立ち止まりかけていた。
さっきまで多数にやりこめられていたのに。
「つよ……」
真ん中の男が我すたすた歩くものだから、慌てたようについて行く。
取り巻きも大変だな。
「……なあに?」
「や。なんでも……って」
思わずぼやくと、別にその呟きが聞こえたわけでもないだろう――それにしては距離があったので――が、青年がちらりとルヴィの方を見たような気がした。しかし、それもおそらく気のせいだろう。ルヴィとは微妙に視線が合わなかった。
「な、なに、レギー? 私と水上コテージに行く?」
近いところにいた女学生が喜色をにじませた声を発した。
彼女を見たらしい。
確か、モデルをやっていると言っていたか。
気色ばむ集団から十分遠ざかったところで、息を吐きだす。
「――ガン無視だったな、あの真ん中の男。あんなに周りの子たちが話しかけてるのにさ」
腕にしがみついていた手を軽く叩くと、ネムがやっと離れた。
小さくなっていた体を伸ばすように、ぐっと両腕を上げた。
「はあ。……知らないわ」
すれ違うだけで、だいぶ気力を消耗した。
ルヴィも彼女たちのようなタイプは苦手だ。
「あの子たちは花嫁修業か、婿探しでもしているのかしら?」
「……古風だな」
どちらかというと獲物を狙うハンターのようだ。
さながら、中心の男は、簡単には落とせない獲物といったところだろうか。
「こんな難関のカレッジにいて、余裕なのね」
なかなかの猛者のようだ、という口ぶりだが、どうだろうか。
カレッジに一旦入れば、卒業する以外にも、卒業できない者、退学になる者、中退する者、除籍される者などその後の行く末はさまざまだ。
「まずは目の前のことをこつこつと、だぜ。ネム」
前を向くと、ザイガー教授の最後の言葉が蘇って来た。
専門を絞るというのは、重大な選択だ。




