00 邂逅
800万をゆうに超える人口を抱えた巨大都市――リグナムバイタ。
リグナムバイタの早朝は多くの人間が想像するような煩雑な喧騒とは打って変わり、異次元のような静けさを保っている。ここの住人は寝汚さは世界に知られるところで、住人が寝静まっている早朝であれば、人類が滅びたかのような静寂に包まれる。対して日中のリグナムバイタの喧騒はすさまじく、聴覚から頭脳を破壊せしめんとするかのようだ。実に、ここへ住むに堪えられるのは狂人だけだといっていい。どれほど正常に見える者ですら、何処かしらおかしく、その多少はあれど狂っているに違いない。外国ではなく、ここの大学を選んだ時から、耐え難い騒音の中で暮らす生活には嫌気を通り越して既に諦観の域に至っていたが、その考えは変わらない。
高層ビルの間から吹く荒涼とした風を避けるよう、いつもの路地に入った。人通りがほぼない、つかの間の静かな早朝にわざわざ徒歩で通うのが、大学生時代から続くレギナンドの習慣 だった。
奇人も狂人も闊歩する街を歩くなら、周りへの警戒は必須だ。
しかし――この日は、いつもと違った。
起きた時に始まる疲労と倦怠感が酷い上に、妙に神経が張り詰めていたのが原因か……滅多にないことだが、周囲への注意が疎かになっていた。
気が付いたときは遅かった――慣れた路地だ、いつもそういった存在はいないはずの。外壁の染みだと視界の端にあったのだろう。血色の悪いむき出しの足が道を塞ぐように突き出されて、初めて気づいた。妙に過敏になった視神経は、些末な情報を過剰に拾った。真っ赤なハイヒールが曇天を向く。赤いエナメルの光沢とは裏腹に、かかとは踏みつぶされ、ヒールの底はすり減っていた。聴覚は耳障りな掠れ声を拾う。
「――ねえ、ライター貸してくれない?」
女は、形も露わな薄着の体を壁から気怠げに引きはがし、勿論ただでとは言わない、とお決まりの謳い文句を吐く。
女は染色したブロンドをかき上げて顔を覗き込んできた。目を見開き、そのまま硬直する――それを見返し、値踏みした。厳寒な早朝に場違いな薄着の女は流行に則った痩せぎすの女優並みと言えたが、その程度はこの街にはありふれていた――全く食指が伸びないラインではなかったが。
信号が青になっていた。
「持ち合わせていない」
歩き出すと、硬直していた女が赤い爪を立てて引き留め――爛れた内臓の甘ったるい匂いが鼻孔を突いた。
肩口から見下ろす。
飛び跳ねて後ずさった。
「あ、足を止めさせて悪かったわ! その埋め合わせをさせてよ、あ、あたし、上手くするから!」
しどろもどろに商売口上をつらつらと吐き出していく。
焦りのためか、徐々に甲高くなっていく声が酷く五月蠅い。
「……また今度」
その気になったときに。会話を終わらせるため、言い捨てた。その後も、ハイヒールの騒がしい足音が騒がしく追いかけてきた。追いつくと、レギナンドと横並びに歩きながら、何が入るのか疑問な小さなバッグを漁ったかと思えば、ちぎったばかりのメモ紙に――ペンを持っていなかったのだろう――口紅で表面に番号を、裏面に名前らしき文字を走り書きしたものを突き付けてくる。
「あたしの連絡先! そ、その気になったらいつでも連絡ちょうだい」
「……ああ」
艶を失ったブロンド、落ち窪んだ青い瞳に、そばかすが浮く頬――典型的な白種の特徴――を赤らめるのが、警戒して眇めた視界の中に映る。女の両手は固くバッグの肩紐を握りしめていた。こちらへの害意はないようだ。
ようやっと路地の境界を蹴る。
「待ってるから!」
縫い留められたように足を動かさないものの、音だけで追いかけてくる。
耳に届くのを止められるならそうしたいものだ。
風が吹きつける角を曲がり、ゆく道すがら、押し付けられた紙切れを手のひらの中で握りつぶし、適当なトラッシュボックスへと放る。
鼻孔の奥に滞留していた腐乱臭を一掃するので一度深く呼吸した。
道は開け、舗装は煉瓦になり、両端に銀杏の街路樹が見えた。
足早だった歩みを緩め、息を吐く。
清掃員が動き出す前の、黄色い落葉が靴底から覗く。
娼婦がうろつく通りというのは昔から決まっている。
巨大な都市であるリグナムバイタには、公然の事実として娼婦通りがある。見えない区画を隔てて、その線は明確にある。奥まった路地にあり、天気が良くても悪くても視界は暗い。特に霧が立ち込めているなかで浮かび上がる、むき出しの足が履くハイヒールが等間隔で路地に並んでいるさまは、この都市がいくつも持っている顔の一つだが――その通りは、ここではない。
その界隈は、様々な利権が絡み合い、厳格な秩序が敷かれているはずだった。
今しがたの光景は、取り締まりが機能不全に陥っている兆候だ。
カレッジへの通学を加味して、ここに手を出すか、出さないか。
思案しているうちに、目的地が近づいた。
黄色い花が根元に咲いた、赤煉瓦とアイアンアーチのゲートまで辿りつく。
IDを翳して認証を行い、常駐している門衛の建物を抜けると、よく刈られた青い芝の庭が広がる。時折植えられている木立の傍にはベンチやテーブルが置かれている。うっすらと霧が掛かる芝の敷地の奥に、この国最古であり、現在でも名門と謳われるカレッジスクールが聳えている。
煉瓦造りの塔に掲げられた、開校当初のままの時計台が今日最初に鳴るまでにはまだ猶予があった。……とはいえ、MBAであるレギナンドにとっては大まかな時刻の目安にしかならない。
喧騒に塗れた日常から切り離されたこの時間に、ひそかに息をつくのは、レギナンドが東洋の血を引いているからかもしれない。欧州の古典音楽が絶え間なく流れる昼間のカレッジの空間ですら快適ではなく、あらゆるものが揃い、満たさない欲望はないとまで言わしめるこのリグナムバイタにおいて、何をしても満たされた気がしない。すべての物質がここにあり、といわれるこのリグナムバイタで満たすものが見つからなければ、自分でもわからない何かを埋めるものなど、もはやこの世に存在しないのかもしれない。
ここの住人は、代替品で生きることに慣れている。
馴らされているといっても過言ではないかもしれない。
雑多で多様なあらゆるものが犇めいている。
その間隙のような、束の間の静寂がある。
この何もないような静寂が、いつも何か満たされないレギナンドの何かを埋めるものに最も近い気がしていた。早朝のこの時間から動き出すのは、敢えて言えばその為といえるだろう。
背を追い越すような寒冷な風と共に、板を割ったような声が鼓膜を割く。
「はあ!? 13歳!? ふざけやがって、23歳だ! こちとら、れっきとした成人男性!」
その時間を邪魔する者が、二度も。
振り返ると、門衛に止められている東洋系の顔立ちの少年がいた。流暢なエルム語だった。ほとんど完璧だったが、僅かに独特の訛りがあったことから察するに、十中八九、極東の島国イクシオリリオン人だろう。
身長はレギナンドよりも頭一つ高いが、幼い顔立ちをしている。自分と一歳しか違わないとはいくら彼の国の民族は童顔が多いとはいえ信じがたい。
同じように思った門衛が態度を強硬にしたようだ。
「――騒ぐな」
「な、なんだよ」
少年が振り返り、改めてその幼い顔立ちに眉を顰めざるを得ない。
飛び級もあるが、そんな子供が入れる程度の低いカレッジではない。また、その大きなトランクを見るに、家出かと思われたのだろう。
「何をしてる」
「何って……オレはここを通りたいだけだなんだ。今月から入ったっていうのに、ここの警備員が入れてくれないんだよ」
門衛は子どもの悪戯と思ったか、あきれ顔で首を横に振っている。
「本当にこのカレッジの学生ならIDを出せばいいだろう」
「あ、そっか」
少年の物言いに半信半疑だったが、実際に顔写真付きの許可証を出した――門衛はすぐに態度を改めた。当然だ。
「な、なんだよ、急に改まって……こええよ」
「身元を証明するものも出さずに部外者を入らせる施設があるとでも?」
ひと昔ならばいざ知らず。
目を細めて外国人を見遣ると、悪いものを食べたかのような顔になる。
「う………と、とにかく助かった、ありがとな」
「……どういたしまして」
期待のこもった視線から目をそらして言い捨て、再び目的地へと動き出す。
煩わしい騒音の元は一つ消えた。
背後で引き続き話す声が聞こえた。
「オレはルヴィアスっていう…って、おいどこ行くんだって! 案内してくんないの!? そういう流れじゃん!?」
喚きながら追いかけて来る、見かけによらない図太さを見せる外国人は放置でいいだろう。助けを求めるのならば、少なくとも初対面の相手に対する礼儀を身に着けてから自国の外に出るべきだ。
早朝から日課は崩れ、カレッジの学生たちが続々とやって来る。
雑多な人間達が生み出す気配。
舌打ちが漏れ、方向転換しようと歩を進めた先に、カレッジの象徴にもなっている巨大な古代樹があり、その下のベンチで、ロングヘアの女学生が本を開いていた。女学生はレギナンドに気づいた。
「おはよう、レギー」
「……ああ」
長髪の女学生は持っていた古風な本を閉じて立ち上がった。立ち止まったレギナンドの後ろになおも喚きながら着いて来ていた少年は同じように立ち止まり、怪訝な声を上げた。近づいてきた女学生はそれに目もやらず、控え目に、しかし意志を持った手で右腕に触れてきた。
「昨晩は来てくれなかったから……今日は、寄ってくれるんでしょう?」
喚いていた少年は何かを察したように騒ぐのを辞め、じりじりと後ずさる。
ひとつ、厄介ごとが去って行ったのに喜ぶべきか。それとも……。
遠慮を見せながらも触れて来る他人の手を見下ろしながら、適当な文言を考える。
辺りに響き渡るほどの足音が近づいて来ても、まさかこちらへようがあるとは思わないだろう。
「レギン! 起きたらいなくなるなんて! 探したのよ!?」
人工染色をした赤髪は記憶に新しい。昨晩のことだからだ。
一夜の女が、何度か付き合いのあった女学生と言い合いを始める。
いい見世物だ。徐々に増えてきた野次馬に、娯楽を提供してやる義理があるか。心底――下らない。厄介ごとが厄介ごとを見つけたように離れた外国の少年も気に入らない――
「ルヴ、探したわ」
湖面に落ちた一滴のような、静けさを感じる声が聞こえた。矛盾している。その声を聞いたとき、水を打ったような静けさを感じた。
振り返ると、この喧騒を巨木を挟んで向こう側を迂回していこうとする先ほどの少年を引き留める、少女の後姿があった。
「ネムぅ~!! 助かったぜー。オレ、これからどうしようかと」
顔を輝かせ、両手をばたつかせて喜びを露にする。
レギナンドからは背を向ける少女に対して、話しかける少年の顔しか見えない。
「勝手に行くからだわ。待っててって言ったのに」
少年を見上げ、淡々とした声が言葉を返す。
見下ろす少年は甘えた顔で駄々をこねる。
「だってさ、やっと来たんだぜ? 一刻も早く見たいじゃんか!」
「そんな子どものような物言いでよくここまでたどり着いたわ。パスポートなんて、わたしが二人分持っているじゃない」
「それなー、焦った!」
聞こえてきたやり取りからして、姉と弟か。似ても似つかない容姿からして、そうではないのか。こちらに背を向ける少女を凝視し、待っている自分に気づく。こちらを振り向かないか、と。
「貧乏人のセリーヌ、どうせマホニアの財力目当てなんでしょ! 底辺は底辺と付き合ってなさいよ」
「負け犬の遠吠えとはこのことね。つまり、今レギーと付き合っているのは私だってこと、認めてるじゃない。あなたが、別の女に負けてレシュノルティアに逃げたって話は今でも語り草よ、メリア」
「違うわよ!!」
感情を露にした声が思考を遮った。
「レギンはあたしのものよ! マーシャルなんて知らないわ。あんたもよ、セリーヌ! さっさと失せなさい、この泥棒猫!」
覚えのない名前が飛び交う応酬が邪魔だった。
あの東洋の少年少女へと再び視線を巡らせたが――遅かった。
巨木の裏には、遠巻きにこちらを見る野次馬しかいなかった。
「………取り巻きにそそのかされて、いい様に使われていることに気づかないなんて、メリア。あなたってほんっとうにバカね。レギーとのこと、あなたの親友のエヴェリンが吹き込んだんでしょうけど、あの子だってレギーと寝たってこと知らないでしょう? 負け犬というのはそう言うことよ」
周囲を見回したが、その姿は見当たらない。
一瞬のことだった。見失ったのは。
「……なんですって!?」
残されたのは無遠慮な視線と、リグナムバイタの渋滞のクラクションと変わらないほど耳障りな女の罵倒。
――どうしてここで立ち止まっている?
右腕を見下ろすと、長い前髪の間から睨みつける女学生がいる。顔を見分けるくらいで、名前は憶えていない。その、柔らかな肢体と、背中を覆うほどの長い髪に、控え目な表情。届かない、何か決定的に足りないもの。この対象より、そう悪くもない筈のものは他にもある。そも、迷惑極まりない張り合いに付き合うほど、執着もない。
「あーあ、可哀想なデメトリア。陸軍将校のお金持ちのパパがいるあなたの耳には決して入れないようにしてたみたいだけどね。寄ってたかって私には突っかかって来るんだから勘弁してほし……きゃっ」
拘束されているとはいえ、女の腕力だ。振り払うのは造作もない。
両脇からの驚愕の視線も、周囲の好奇の目も受けるが、妨げるものは何もない。
「ちょ、ちょっとレギン!!」
慌てたような呼びかけも実質的な力はない。ただの音の羅列だ。
遠巻きに見ていた野次馬は爆薬に火が点いたかのように散り散りになる。
「レギナルド!!」
腹の底から出たような声が紡いだ呪いのような名前。
何を今まで気にしていたのか、馬鹿馬鹿しいほどだった。
ついに、大人しいと思っていた女学生の、化けの皮が剥がれる。
「最悪!! あのマホニアの御曹司と上手くいけたはずなのに!!」
「あ、あんたやっぱりそれが理由で取り入ったんじゃない!」
「黙れ、勝手に決めつけていい気になって何様よ! 台無しにしてくれてこの場違い女!! もう一遍、レシュノルティアにでも引っ込んでろ!」
メッキが剥がれれば出来た贋作も価値を偽ることはできない。面影を感じて眺めていたものが、やはりただの生臭い塵だと悟ったとして、面影は本物ではない。
コートから取り出した携帯で門衛に電話で連絡し、離れても途切れることなく聞こえてくる姦しい女たちの仲裁に入ってもらった。のちに通報者への義務として、事の顛末を伝えられたが、最終的に取っ組み合いの喧嘩になり、傷害の件でお互いを訴えているという。
一陣の風で落ちてきた黄葉で視界が遮られる。
立ち止まると、気が付けば随分と敷地の奥に進んでいた。
欲望がこの身を離れることはなかった。どんな欲望にも対応できるようなあらゆる物質がこの世界には転がっている。そこに手を付けるだけで、代替にはなる。だが、何の代替なのか、そもそも本当に満たせる何かはこの世に存在しているのか。存在していなければ、この先も代替で誤魔化した錯覚で過ごすのか――それはいつも身を覆う感覚で、その確かめようもない問いだ。
その答えをレギナンドへ提示した人間は、奇しくもこのほんのわずかな邂逅で存在を知った、子どものような少年だった。