第35話 執事オーソンとマキーソン夫人
アーネスト達の乗った飛行機が無事に空港に到着する連絡を受けたオーソンは、最後のチェックをする為に上着を羽織り身支度を整えると執務室を出た。
屋敷中は今日出迎える花嫁の為に、上へ下への大騒ぎだ。
数週間前から着実に準備を重ねていたので、どれも最終チェック程度であることはあるが、そのチェックに全ての者達が余念がない様に動き回っている。
彼がすべき最後のチェックは最初に客人を通すサロンを残すのみとなっている。
だが、厨房に抜ける廊下の前を通り過ぎようとした時、妙な胸騒ぎを感じて彼はその角を厨房の方に曲がった。
フランスの5つ星レストランから引き抜かれたチーフコックのメイルを筆頭に、彼等はお茶の時間に出すスイーツと晩餐の仕込みに大わらわになって居るはずだった。
が…
その甘ったるい匂いが廊下まで漂う只ならぬ雰囲気に、オーソンは眉根を挙げてそのステンレスのドアを開けた。
目の前に、天上に当たりそうなほどの巨大なウエディングケーキが目に飛び込み、オーソンは言葉も出せぬほど驚愕し立ち止まった。
「Ou!オーソン!まさかアーネスト様の御帰宅が早まったのか!?」
ケーキの陰から空色の目を見開いて顔を出すメイルとそのスタッフ達に、オーソンは血管がブちぎれそうになった。
だが静かに彼らに諭すように言う。
「メイル…結婚式は6月だが?これはなんなのだね!!」
「Ou!知っている!これは今日の歓迎の意を現しタ、我々~厨房スタ~ッフからのプレゼント!」
「こんな物を作れとアーネスト様は御命令を出していない筈だが?こんな道楽をしていないで、早くティータイムの準備をしたらどうなのだ!」
メイル達は大袈裟に肩を竦めて厨房台の上にきっちり並べられているスイーツを指さした。まるで店にでも並べられそうかと言う勢いの物凄い数のケーキ類に、オーソンは更に眩暈を起こした。
「今日はpartyも…茶会も無い筈だが…この数は?」
「Ou!知っている!アーネスト様が花嫁の由華里様をお連れになる。女性はみーんな甘い物大好き!アニカから由華里様、フルーツ系好きと聞いた。だからショコラ系の他にフルーツ系も用意した。でも、どんなのがお好きなのか解らない。ネットでジャポンのスイーツ調べて全部似たのを作った。ジャポン、スイーツ千差万別だね。面白いよ。問題あるかね?」
「由華里様はお一人だ」
「Ou!解っている!キャスーン様とMissアニカも来る筈」
「それでも女性は3人だ」
「女性は三人だが他にもいるからダイジョブ!」
「メイル…」
堂々巡りになりそうなのでここまでにしよう。オーソンは背筋を伸ばし、とにかくそのケーキの製作を中止し即刻晩餐の下ごしらえに掛る様に言い残して厨房を出た。
本気であのケーキをサロンに運ぶつもりか?あのアーネスト様の前に出す気か?そんなことをしたらどんなお怒りが飛んでくるのか想像もできないのか?とうんざりしながら。
だが、廊下を歩きながらメイル(厨房スタッフ)だけでなく、随分と屋敷内が変わったと彼は再認識した。
数週間前の深夜、突然に掛ってきたアニカからの電話。
アーネスト様が花嫁を見つけたと言う趣旨の興奮した慌ただしい電話を受け取った時は、なんの冗談やらと一笑に付した。だが、直ぐに送られてきた一枚の写真の見た瞬間…確信した。
この方だ。
見知らぬ異国の街角で見つめ合うアーネスト様と見知らぬ女性。
アーネストの目は見たことも無い優しい色で笑っている。
オーソンはその瞬間に確信した。間違いなくこの方がアーネスト様の花嫁なのだと。体中が震えるほどの感激と喜びを感じた。
そして直ぐにアニカ達から矢のように花嫁を迎える為の準備の指令が飛んでくる。その殆どが根こそぎこの屋敷を変えろと言うようなものだった。
反発、反感が一気に屋敷内に走った。特に昔からこの屋敷を護る者達は特に(庭師のトッドはどうでもいい感じだったが)反発が強く何度か強く抗議を受けた。
全ての重苦しい色のカーテンに絨毯、調度品を明るい女性好みの色彩の物に変更するように。飾る壺の一つ一つに至るまで指示がなされていた。
最初は当惑した。
が、カーテンを一掃して理解した。
確かに以前の内装はあの写真の女性には不似合いだと。
彼は納得しアニカ達の指示に従うことにした。その彼の反応が更に一部の者達の反感を煽ってしまった。
彼は気付いた。
ここは長らく淀んだ泉の様に全てに安定し変化が無かった。
それが心地よいと思う者もあれば、それが息苦しいと感じる者もある。
変革を望む者もあれば、望まぬ者もある。
望まぬ者は変化を齎した者を遠巻きに蔑ける言動が見受けられるようになった。
だが肝心な根幹を彼等は勘違いをしている。
ここは彼等の職場ではあるが、ここはアーネスト様とそのご家族の生活の場なのだ。我々はアーネスト様とそのご家族の安定した生活を送る為の、スタッフにしか過ぎない。
アーネスト様達が快適であればそれだけで我々の仕事は上手く行っている事になる。
長い事、アーネスト様はウィルバートン邸内の事に無関心に近い状態でいた。ただ今まで通りの「器」が維持されていればいいだけとの判断だった。
だがこれからは違う。
新たに迎えるウィルバートン夫人と共に多くはその夫人の為にこの屋敷は変わらなくてはならない。
もちろん、お子様達がお生まれになれば更に変わる。そう言う変化の時が来たのだ。
オーソンは立ち止まり、サーモンピンクの明るいがそれでいて上品で重厚なカーテンの向こうに広がる青い空を見上げて感慨深げに息を深く吸い込んだ。
お子様達がお生まれになり!!
ああ!なんと素晴らしい言葉なのだ!この屋敷にまた子供達の声が翻り、そして賑やかな日々が舞い戻ってくる!
お子様達!
そうだ!達だ!複数だ!
由華里様は穏やかな感じで若く健康であるとお聞きする。
お母様の華代様はお二人ご出産されている。ならば由華里様も最低でもお二人は産んで下さるかもしれない。
2人のお子様!!!
オーソンは感激で胸が一杯になった。男女のアーネストにそっくりな上品な子供達がにっこりと微笑むのが眼に浮かぶ。
ああ!なんていう至福!そう言う時が早く来るためにも、この屋敷を早急に由華里様にとって住み心地のいい屋敷に変革をしなくてはならない。
つまり…
大ナタを振るわなければならないのだ。
オーソンは襟を但し、その提案をすべく執務室に戻り早急にアニカ達にその旨を伝えた。返答は直ぐに来た。アーネスト様の勅命で。
―オーソンの一存に任す。
オーソンは立ちあがり家政婦長のマキーソン夫人を呼びその大ナタを告知した。彼女の顔は一瞬蒼白になったが、直ぐにいつもの毅然とした顔に戻る。
大した自制心だ。
この大ナタはほぼ彼女の範疇で振るわなくてはならないのだから。彼女にとってもかなりの変革を要することになる。
だが彼女は了承し下がった。
かくて大ナタは実行され、約半数のスタッフが不服のない十分な給金と次の職場の紹介を手にして円満にこのウィルバートンから去った。
次の課題はその埋め合わせを至急しなくてはならないことだった。だが、それにはウィルバートン夫人専属秘書が必須になる。彼女(99%の確率で女性だろう)無くしては新しいスタッフを雇用することは無駄な努力となる。
まずは由華里様がいらしてからの話しだ。だからそれまでの間は残ったスタッフで仕事をこなさないといけない。
幸い屋敷内はデニス達が差し向けたリホーム業者が大勢押しかけ戦場状態となったため、普段の仕事は激減し、代わりに花嫁を迎える準備に回ることができた。
リホームが順調に美しく仕上がり、そしてスタッフは総力をかけて屋敷内の変革を行っていった。
そういう経緯を経て、今こうしてやっとアーネスト様が選んだ花嫁となる由華里様をお迎えすることができる事となったのだ。
だが。
廊下を進んで行くと2Fから降りて来たマキーソン夫人とかち会った。2人は何時も通り軽く会釈を交わす。
「マキーソン夫人、ごきげんよう。準備はほぼ整ったようですな?」
「ごきげんよう、オーソン。ええ、こちらはほぼ完了です。そちらは如何?私達で手伝いますことがありますかしら?」
「ありがとう。こちらもほぼ完了です。ところで…先程、由華里様のお部屋の近くの部屋に大量の服などが運び込まれたようですが?」
「ええ。Missオーウエンからの指示で、Miss平野のサイズの服を全て取り寄せました。どのようなのがお好みかが判別しませんでしたので…とりあえず全部」
「全部?」
「ええ。当座のお着替えの物です」
「そうですか…そう言うことはそちらにお任せ致しますが…お部屋はアーネスト様のお部屋のお隣に由華里様のお部屋をご準備されていますね?」
途端にマキーソン夫人は不服気な顔をした。
「こう申しては何ですけど…セレスティーン様はお輿入れまではアーサー様の御傍にご宿泊等と言う事は致しませんでした」
「そうですな。ですが部屋の指定はアーネスト様の御指示です」
「アーネスト様はMiss平野に甘いご様子」
「そうですな。アーネスト様は由華里様を大変お気に入りの御様子ですな。でなければ花嫁としてお連れはいたしますまい。マキーソン夫人?もしかして由華里様に対して何か御異存でもおありかな?」
「いいえ。滅相もありませんわ。ですが…もしもセレスティーン様が御存命でしたらこの結婚に対して何と申されたのかと思いましてね」
「セレスティーン様は大層を喜びになられたと思いますが?あのアーネスト様が重い腰を挙げてやっと花嫁をお選びくださったのですから。このお屋敷が再び活気づくのをお喜びになられないことはありますまい」
「…そうですわね。ですけど…Miss平野は随分とお育ちも…お国も違いますし」
「マキーソン夫人…もしも…もしも由華里様に対して少しでも御異存がおありでしたら…御遠慮なく申し出てください。私はあくまでもこのお屋敷はアーネスト様の為のお屋敷であり、そのご家族と引いてはお子様達の為に維持管理を遂行したいと思いますのでね」
その遠回しだが厳とした言葉にマキーソン夫人は顔色一つ変えずに肩を竦めるだけだった。
「お言葉を返しますけど、私も同意見です。このお屋敷の維持管理はセレスティーン様の御子息アーネスト様の為の物。異存は御座いませんわ」
「結構です。あと…
(オーソンは懐中時計で時刻を確認した)
1時間程でアーネスト様の飛行機が空港に到着。その後、マンハッタンのウィルバートン本社に移動され全ての手続を完了され、のち、昼食後にこちらにお戻りになられるご予定です」
「わかりました」
「同行のお方は、当然、由華里様。キャスーン様、Missオーウエン以下ブレーンの皆様です」
「キャスーン様はこちらにお泊りになられると承っていますが、他の方々は?」
「おそらく流れではお泊りになる方向とは思います。何時ものお部屋をそれぞれ準備を怠りなく」
「わかりました。問題は御座いませんわ」
「流石ですね。では…また後ほど」
2人は会釈を交わしすれ違った。オーソンは毅然と立ちさるマキーソン夫人の後ろ姿を見ながら少し懸念していた。
マキーソン夫人は確かにアーネスト様に忠実であり真面目に仕事をこなされてはいる。だが…それ以上に先代のウィルバートン夫人であるセレスティーン様に対して忠実すぎる。
それはセレスティーン様専属侍女の一人としてこの屋敷にきてから、ずっと働いている彼女としては致し方のないことだが…。
ただ、それがどう由華里様に出るのかが心配だった。
彼女は理敏い女性だが、事、女性間のこう言う問題は古から綿々と受け継がれ避けようのない習性みたいな物だ…。だが由華里様は彼女にとっては主になるお方。それをきちんとわきまえてくれていれば良いが…いやわきまえている筈だが…あの時折見せる態度が…。
だが彼が懸念したところで当のアーネストからは何の指示も無い。アーネスト様の事だから、彼女の件も既に懸案事項の中にあり既に対処方法をお考え済みなのだろと推察しそれ以上の事は進言しないことにした。
屋敷中はアーネストの帰還と言ういつもの緊張と共に、アーネストが花嫁を連れてくると言う今までにない事態に半分浮かれた気分がないまぜの複雑な空気になっていた。
さて?アーネスト様の花嫁となられるあのお方は…この微妙な屋敷の空気をどうとらえ…そして…
ここで暮らすことを良しとしくださるのだろうか…
歴代のウィルバートン夫人達の様に…その運命に流され…瞬く間に去ることになるのではないか…
一抹の不安を吹き払いオーソンは顔を真っ直ぐにあげた。大丈夫。あの方なら大丈夫。あのアーネスト様を…暗闇の奥底から瞬時に引き上げてくださった…
救ってくださったあの方なら…
大丈夫。




