おまえ(王太子)との婚約を破棄する!
「おまえとの婚約を破棄する!」
ここは王城にある王太子殿下の私室。わたくしを連れてその部屋を訪ねたお兄様が、なにを思ったか王太子殿下に指を突き付け、さきほどの言葉を叫んだ。
呆気にとられたのはわたくしと王太子殿下。
最初に我に返ったのは、日頃からお兄様の横暴に振り回されていたわたくしだった。
「わたくしの婚約を勝手に破棄しようとしないでください、お兄様っ!」
わたくしは侯爵家の娘。だけど、侯爵家の中ではとても肩身が狭い。日頃から早く家を出たいと嘆いていたわたくしに、幼馴染みである王太子殿下が求婚してくれた。
そうしてお父様の許可を得て、わたくしと王太子殿下の婚約は内々に決まった。
それでも、両家のあいだで認可されていることに変わりはない。だと言うのに、その婚約をお兄様が勝手に勝手に破棄しようとしている。ようやく家を出ることが出来ると思っていたわたくしは、そんな勝手をしないで欲しいと声を荒らげた。
だけど――
「エリス、おまえは王太子妃に相応しくない。だから、この婚約は破棄する」
お兄様が冷たく言い放つ。わたくしはそれに耐えられなかった。
「お兄様なんて大嫌い!」
わたくしはそう叫んで部屋を飛び出した。
そのまま王城の廊下を駆け抜けて、中庭にある温室へと足を運んだ。ここは昔から王城に遊びに来ることが多かったわたくしが、王太子殿下やお兄様と一緒に遊んだ温室だ。
そう、昔のお兄様は優しかった。
だからわたくしも……
なのに――
「お兄様のバカ……」
温室の片隅、ベンチの上で膝を抱えて座る。
どれほどそうしていただろう。わたくしの視界に影が落ちました。
「お兄様――」
思わずそう口にして顔を上げる。
だけどそこに居たのはわたくしの婚約者だった。
「……王太子殿下、でしたのね」
「おや、婚約者が迎えに来たというのに残念そうだな」
「まさか、そんなことは……」
ないと、言い切ることは出来なかった。そんなわたくしの内心を見透かしたかのように、王太子殿下は「迎えに来たのがアレクだったらよかったのにと思っているのだろう?」と笑う。
それは、ある日を境にわたくしが決して呼ばなくなった兄様の名前。
わたくしは王太子殿下の言葉に応えず、無言で下を向いた。
そんなわたくしの隣に王太子殿下が腰掛けた。
「エリス、キミは絶対にアレクの名前を呼ばないね。幼い頃は、あんなにもアレクお兄様と連呼していたのに……どうしてだい?」
「それは……」
それは、あることを知ってしまったからだ。
わたくしは、お兄様と決して結婚することが出来ない、という事実を。
お兄様は才色兼備にして文武両道、王太子殿下と人気を二分するほどの美男子だ。そんなお兄様のことをわたくしは幼心ながらに好いていた。
誤解がないように言っておくと、わたくしとお兄様のあいだに血の繋がりはない。わたくしはよその家から引き取られた養女だ。だから、血筋的には結婚することが出来る。
戸籍上で兄妹という問題も、手続きさえしてしまえばどうとでもなる。
だから、子供の頃はいつかお兄様と結婚するんだと思っていた。
でも、ある日を境に、わたくしとお兄様は決して結ばれない運命だと知ってしまった。なぜなら、貴族が娘を養子として引き取るのは政略結婚のため、という事実を教えられたから。
わたくしは侯爵家の娘として、他の家に嫁ぐべく運命なのだ。
だから、わたくしはアレクお兄様を、アレクお兄様ではなく、お兄様と強調するように呼び始めた。そうしてお兄様への想いを封印して、早くよその家へ嫁ごうとしたのだ。
その頃からだろう。お兄様がわたくしに冷たく振る舞うようになったのは。
わたくしが結婚相手を探すためにパーティーに出席しようとすれば、粗相をするだけだと止められ、ならば騎士達が競い合う大会に、辺境伯の跡取り息子の応援に行こうとすれば、見学に行くなど野蛮だと止められるようになった。
お兄様が一体なにを考えているのかさっぱり分からない。
それでも、日を追うごとにお兄様への思いが大きくなる。わたくしはとにかく早くお兄様の元を離れたくて、なんとかしようと足掻いていた。
そんなとき、幼馴染みである王太子殿下がわたくしに求婚してくれたのだ。
だから、わたくしはその求婚を受けた。
侯爵家としては、最高に価値がある政略結婚と言えるだろう。
なのに、お兄様はその婚約を破棄しようとしている。
「お兄様がなにを考えているか、わたくしには分かりません」
膝を抱えたままぽつりと呟く。
そんなわたくしの頭に、王太子殿下の手の平が乗せられた。
「二人とも、鈍感だからな」
「……なんですか、それ?」
「それが分からないから鈍感だと言うんだよ。だからこそ、僕が君に求婚したんだけどね」
「それは、どういう……?」
不思議に思って顔を上げると、思いのほか近くに王太子殿下の顔があった。
「……殿下?」
「しっ。知りたければ静かに」
頭に置かれていた手が滑り落ち、わたくしの頬に添えられた。そうして固定されたわたくしの顔に、王太子殿下の顔が近付いてくる。
キスされる。そう思った瞬間。
わたくしは彼の胸を、手で――
「――止めろ!」
不意に割って入ったのはお兄様の声。王太子殿下の身体を押しやって顔を上げれば、そこに必死の顔をしたお兄様の姿があった。
「殿下、どういうつもりですか!?」
お兄様が声を荒らげ、そのまま王太子殿下に掴みかかった。お兄様がそこまで怒りを露わにするのを目にするのは初めてで、わたくしは思わず呆気にとられてしまった。
「……なにを? 婚約者にキスをしようとしただけだけど?」
「貴様――」
お兄様が腕を振り上げた。それを見た瞬間、わたくしはお兄様の腕にしがみついた。
「止めてください、お兄様!」
「エリス、なぜ止める?」
「止めるに決まっているじゃありませんか!」
幼馴染みとはいえ、相手は王太子殿下なのだ。多少の口論ならともかく、顔を殴ったりしたらどれだけの罰を受けるか分からない。
自分のせいでお兄様が。そう思っただけで胸が張り裂けそうだ。
なのに――
「……おまえは、王太子殿下が好きなのか?」
お兄様がわたくしに掛けたのはそんな言葉だった。なぜそんな質問を――と、僅かな希望を抱きそうになり、だけどそんなはなずはないと諦める。
そうして、ぎゅっと拳を握り締めて口を開く。
「王太子殿下より有益な嫁ぎ先があるとは思いませんわ」
自分の想いには触れず、侯爵家の利益を口にした。お兄様がきゅっと唇を噛んで、それからなにか言いたげな顔をする。だけど、お兄様は結局なにも言わなかった。
そして次の瞬間、王太子殿下がやれやれと溜め息を吐いた。
「まったく、この状況でも言えないとは、僕の幼馴染みはとんだ腰抜けだね」
「なんだと!?」
「――お兄様、止めてください! それに王太子殿下も、どうしてお兄様を煽るのですか!」
わたくしが思わず割って入ると、王太子殿下はなにか言いたげな顔をする。
「……なんですか?」
「いや、自覚がないのはキミも同じだな、と」
「それは、どういう……?」
「想いは口にして伝えなければ、なかなか相手に伝わらない、ということだよ。エリス、キミは正直に自分の想いを伝えるといい」
「わたくしは……ですか?」
王太子殿下は少しだけ寂しげに笑い、わたくしの頭を軽く撫でた。
「知っているかい? 僕はキミのことをずっと妹のように思っているけれど、アレクはキミのことを一度たりとも妹とは思ったことがないそうだよ」
「え、それは、どういう……?」
問い掛けるけれど、王太子殿下は答えてくれない。彼はお兄様の背中をバシンと叩くと、そのまま温室を出て行ってしまった。
その背中を見送り、お兄様へと視線を戻す。
「……お兄様、王太子殿下の言葉は本当ですか?」
「なんのことだ?」
「わたくしを、妹と思ったことがない、ということです」
恐る恐る問い掛ける。
長い、長い沈黙を経て、お兄様は口を開いた。
「……ああ、本当だ」
「そう、ですか。そう、ですよね。わたくしは、出来の悪い妹ですから。お兄様は、ずっとわたくしのことを疎ましく思っていたのでしょうね」
「なにを言う! そんなことを思ったことはない!」
強い否定。
そんな反応をされるとは思っていなくて、わたくしは思わず瞬いた。
「……でも、わたくしがパーティーに参加しようとしたら、止めましたよね?」
「それは……」
「それに、騎士達の大会のときも」
「だから、それは……あぁもう、なぜ分からない! 俺がおまえを止めたのは、おまえが婚約者を探すと言ったからだ!」
怒鳴られるけれど、それのなにが悪いのか分からない。
理不尽に怒鳴られ、わたくしは思わず腹を立てた。
「だからなんだというのですか! わたくしは養女として、役目を果たそうとしているだけではありませんか。なのに、どうして怒るんですか!」
わたくしは思わず言い返していた。
「だから、俺はそんなことを望んでいない!」
「だったら、なにを望んでいるというのですか!」
「それは、だから……っ。俺の側にいろと、そう言っているんだ!」
お兄様が叫び、わたくしの腕を摑んで引き寄せる。
バランスを崩したわたくしは思わず、お兄様の腕の中に倒れ込んだ。慌てて離れようとするけれど、お兄様はわたくしを放してくれない。
「……おにい、さま?」
「王太子殿下の言うとおりだ。俺はおまえを妹と思ったことはない。ずっと、一人の女の子として、おまえのことを想っていたからだ」
密かに想いを寄せていた相手から想いを告げられる。その事実に鼓動が早くなって、だけど自分の立場を思い出して唇を噛む。
「で、でも、わたくしは、お兄様の妹で……」
「そんなものは書類上の問題でしかない」
「王太子殿下と既に婚約を……」
「俺がどうにかするから心配するな」
「養女として、わたくしは家のために……」
「家のためだというなら、俺を支えてくれ」
強く抱きしめられた。お兄様に嫌われていたわけではなかった。それどころか大切に想われていると知り、瞳から止め処なく涙があふれ出る。
「エ、エリス、そんなに、嫌……なのか?」
「違い、ます。嬉しくて泣いているんですよ。わたくしも、お兄様のことが……だから」
好きとは声に出さずに呟いた。
お兄様がびくりと震え、それから恐る恐るといった感じでわたくしの顔を覗き込んでくる。お兄様の瞳の中に、わたくしの顔が映り込んでいる。
それから、お兄様の瞳に映るわたくしは――ゆっくりと目を閉じた。
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侯爵令嬢の破滅配信