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短編集

遺書を初めて書いた

作者: 月見里さん

精神的に辛い描写などあります。

余裕がある時にご覧ください。


 私が人生で初めて、遺書を残そうとしたのは二十四歳の時である。

 唐突ではあるが、実際その時のことは彩美(さいび)に思い出せるほど、脳みそを切り開けば再現された空間ができるほどに鮮明に覚えている。


 なんてことはない。

 明日のことなんて考えない。

 昨日のことなんて覚えていない。

 今、死にたいと思った。

 ただ、それだけ。


 そんな私がなぜそこまで思ったのか、生い立ちなんて辿ればしょうもない――どころか呆れ返ってしまうので、詳細ではなく、かいつまんで書くとする。


 順風満帆とはいかない学生生活ではあった。

 迷惑をかけた人間ではあった。

 しかし、運動音痴でもなかった。恋人もいた。

 適当に、その時やりたいことをやるだけやる。そんな人間であった。


 そんな私が、介護職になったのは20歳の頃である。



 正直、働きたくはなかった。

 労働は疲れる。精神は摩耗するし、拘束される時間も甚大な影響を与える。

 だから、汗水流して働くことに疑問を抱いていた。

 楽して稼げるならそれでいい。

 わざわざ、しんどい仕事なんて消費される物品みたいだと。


 しかし、働いていない人間に居場所なんてない。

 むしろ、そんな不労者へ後ろ指をさす人間でもあった私は、仕方なく職場へ行くのだ。

 逃げ場のない牢屋へ。

 隠された岩戸へ。


 朝四時には起床。睡眠時間はたったの二時間。

 五時には職場に着いて、日誌などを眺めたり仕事をする。

 介助は楽でもないし、キツいものばかり。

 それを毎週五回は繰り返す。

 それでも、私が心の壊れるまで働けたのは、その時お礼を言ってくれた人達のおかげだろう。


 しかし、そんな私がまだ1年目で、ようやく夜勤の仕事が始まった頃。


「お前みたいな奴はいらん」


 とある男性利用者にそう言われた。

 私の介助が下手だったのか。

 声掛けがダメだったのか。

 どちらにせよ、私は拒絶されたのだ。



 捨てられたのだ。



 私は泣いた。

 いや、悔しくて泣いたわけでもない。

 そんな殊勝な心はない。

 ただ、理解できなかった。


 感謝でもなく、暴言を吐くのが当たり前なのか。

 例え、一時的な感情に任せて、そんなことを若い者へ言うのか。

 もちろん、認知症について勉強していた私はそうなる気持ちも理解できる。

 だが、それを言ってしまうのは違うだろうと。


 このことはすぐに上司へ報告し、しばらくその人の対応は無くなった。

 もちろん、全てを逃れられるわけでもないが、限りなく減った。


 よくよく聞けば新人いびりでやってしまうらしい。

 しかも、新人が独り立ちできたタイミングで、二人きりの状況でやるとのこと。

 確信犯である。


 苛立ちが募って、怒りに任せて感情を吐露してしまっても良かったのだが、私はなぜか我慢してしまったのだ。

 なぜなら、みんなそれを我慢していたから。


 まぁ、それから数年間気が気でなかった。

 会いたくない。

 職場にも行きたくない。

 でも、行かなきゃ社会的に居場所なんてない。

 だから、行かなきゃいけない。


 そんな気持ちではあったが、ある時、その暴言を吐いた人から「ありがとう」の言葉が出たのだ。

 この時、私は飛び回るほど嬉しかった。

 丁寧にやって良かったと心底思った。


 でも、よくよく今考えればDVされた彼女が優しくされた時に感じる喜びに似ていたと思う。

 勘違いしていたのだ。

 ただ、ギャップで喜んでいた。もしくは、頑張りへの評価が正当に下されたような気がしたのだ。


 しかし、今そんな怒りがあるわけないのだが。

 毎度の介助を指名されるほど、ふとした瞬間に笑い合うくらいに、ふざけ合うくらいには仲良くできたから。

 痛いほど理解できたから。

 私も施設という環境に送られれば、荒んでいただろうから。

 料理長をしていたくらいに、厳しい人でもあったから。

 わかることはできる。


 そんな感じで居場所ができたはず。



 次は職員からのイビリだ。

 女性の、それもかなり上私よりも二回りも上の人だ。

 

 どんなイビリかは介助が遅くなったらお小言を言われる。

 それも、他の職員と一日の反省をする場所でだ。

 わざわざ、言わなくてもいいことを言って、それも馬鹿にしてくるのだ。

 じゃあ、言い返せばいいじゃないか。

 無視すればいいじゃないか。


 そう思うが、邪魔くさいのだ。

 無視しても、相手がやってくることは嫌がらせが余計に酷くなると予感したから反省したのだ。

 実際、私の介助は時間が掛かる。

 ちゃんと一つの動作に声掛けをして、小話なんてする。

 最近のニュースだったり、利用者の家族のことだったり。

 


 嫌な時間を少しでも感じさせないようにするために。



 そんな私に対して、その職員は業務優先だ。

 私が利用者優先ならば、その逆――業務を素早く片付けた方が利用者のためだと考えている層だ。

 私には全く、そう見えなかったが。

 少なくとも、業務を早く片付けて楽をしたいだけに見えたから。


 それから私が辞めるまで、このイビリは続いた。

 粘着的で、執拗に。

 今思えば、更年期だったのだろう。

 それなら、仕方ない。

 一時の感情を振り回すのも痛いほど分かる。

 ただ、それを認めたわけではないが。


 まぁ上司に相談することで、ある程度は改善されたが、鬱陶しいのは変わらない。

 むしろ、隙を見せればすかさず突っ込んでくるほど、陰気臭い感じになってしまった。


 そして、私の心を壊す極めつけは業務の多さに拘束時間の長さだ。


 心身ともに摩耗する、すり減るような環境。

 一人で二十人以上の介助を一時間以内に済ませなければいけない。

 滞りがあれば、全体が遅れて利用者に迷惑が掛かる。

 唯一、親身に接してくれた職員は優しくフォローしてくれた。


「仕方ないやろ、なんとかなる。どうせ夜にはみんな寝てる」


 救われたようだった。

 同時に、追い詰められたようだった。


 拘束時間についてだが、まぁ、夜勤をすれば少なくとも十九時間は職場に軟禁される。

 あくまで形式上の時間であって、実際には二十時間〜二十四時間くらいはいた時もある。


 死にそうだった。

 夜勤でも片付かない仕事を片付けて、担当利用者のことをしているとそれくらい職場にいた。

「早く帰りなさいな」と言われた。帰ってもどうせ、職場に来なきゃいけないし、片付けなければ怒られるからしなきゃいけなかった。


 

 苦しかった。



 家に帰っても、仕事のことを考えなければいけない。

 休みの日は潰れたように寝てばかり。

 自分のしたいことを後回しにして、仕事のことをする。

 もちろん、これより大変な仕事なんて腐るほどある。

 給料なんて雀の涙ほどなところなんていっぱいある。


 でも、私には。

 私にとっては、耐えられないのだ。

 個人で耐えられる痛みに違いがあるように、私は生きていることも嫌になるほど。



 苦しかった。



 全ては仕事に囚われ、やりたいことなんてできない。

 でも、これしかない。

 どうしたらいいのか分からなかった。


 利用者の介助に入れば、腕をつねられ、殴られて内出血だらけの腕。

 忙しい職場に、疲労が抜けない体。

 摩耗した精神は行き場を失って、正常かどうかなんて分からない。


 逃げ場なんて無かった。

 逃げ道なんて無かった。

 逃げようなんて無かった。

 終わりしかなかった。

 一生を食い潰される気しかしなかった。

 たったの数十年を、未来があるか分からない職業で終える未来しかなかった。

 救いなんてなかった。



 だから、私は遺書を書いた。



 死ぬことを悔やんだ文章を書いた

 両親への感謝を残した

 謝罪も書いた

 生きていくのが辛いと

 死にたいと

 切実に

 心臓が無意味に緊張して恐怖に震え上がっていたが

 死にたがっていた


 

 その遺書を見えないように抱え私はひとまず退職届を提出した

 鬱病かもしれないから

 自殺志願者でもあったから

 施設の屋上から頭から落ちれば死ぬ

 そんなことばかり考えていることを吐き出した


 すぐに帰らされてその月の勤務は有給になり、次の月には退職となった。

 そして、そのことを両親へ伝えた。


 死にたいと。

 生きていたくないと。


 今思えば残酷なことを言ったものだ。

 母親は悔しさと苦しさと悲しみが混じった泣き顔で、私の頭を抱き抱えた。


 何年ぶりかは分からない。

 ただ、懐かしい感覚がした。

 そして、一気に涙がこぼれてきた。


 

 死にたくない

 死ぬのは怖い

 生きていきたいと


 そんな私に母親は必死に、本当に切実に。


「親より早く死んじゃダメ」


 死ぬような痛みで産んだ子どもへ、血が混じったような言葉を聞いてから、ようやく私は気づいた。

 血を分けた、愛の結晶が、苦しんでいることに気づけなかった後悔が滲んでいたかもしれない。

 ただ、死んではダメだと。

 簡単に言うべき言葉でもないことだと。

 生きていくべきだと。

 親孝行もせずに、終わるべきでないと。


 そのことに、気づいた私は母親の胸で、子どものように泣きじゃくった。

 


 その後は、絞られた雑巾のような表情で休んでいた。

 喜楽の感情なんかない。

 整理なんかつけられない。

 灰色の世界ではあったが、生きてはいた。


 そんな私が退職するまでの間に、診察を受け無事重度の鬱病だと診断された。

 ショックでもなかった。

 当たり前よね、という感覚であった。


 入院かどうか。選択する権利があったので、迷わず自宅療養を選んだ。

 知らない場所なんてただのストレスでしかない。


 それからしばらくは、病気との向き合いの時間ではあったが、大事なことはそこではない。

 今生きていて、私はこうやって書いている。

 拙いながらも、逃げ道を進んでいる。


 生きるための逃げはありだと。

 どこかの漫画で目にした通り、人生逃げようとどうにかなる。

 

 ただ、逃げ続けるのが癖にならないよう、私はまた新しい環境へと向かう。

 緊張もあるが、次は大丈夫だろう。

 好きな時間も手に入る余裕もある。

 とりあえず、親孝行を好きなだけたくさんしよう。


 愛してるなんて面と向かっては言えないから。

 そうやって、行動で返そうと。



 そう決意した私の手元には、あの時書いた遺書がある。

 これは私の後悔でもあり、弱さでもあり、強さでもあるから。


 忘れないように、胸に刻むためのものでもある。

 忘れた時に見て、思い出し。

 決意を抱くもの。


 そんな向き合い方ができるくらいには、生きているのだ。

 いつか、両親へ愛してるを言うために。


 

 ありがとうを言うために。



 

 〜終〜

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― 新着の感想 ―
[一言] 親孝行について綴った一節が好きです。 「愛してるなんて面と向かっては言えないから。  そうやって、行動で返そうと」 苦難の状況に置かれつつも頑張り抜いた主人公の、芯にある不器用な優しさに触れ…
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