1 瞬一
まぶたの裏を、何かがよぎる。脳裏を群青色に染めていく。
あの日の海が。
夕暮れ時の穏やかな波が。
お前さ。
ん、何?
不意に訪れた沈黙で、ざあ、ざあという音ばかりがやけに大きく響いて聞こえる。寄せては返す波の音だけが、僕らの間を介在し、確かな『今』という時間の共有を証明していた。
そして僕の声は、多分少し緊張して、いつもよりも幾分硬く、変に高音が混じっていた。ざらりとした砂のような違和感に、彼女が気づかないことを願いながら、もう一度息を吸う。
お前、…恋人とか、いるの?
彼女が驚いたようにこちらを向く。
一度はこぼれそうな程に見開いた目を伏せ、そしてまた僕を見る。
うん、いるよ。
明るい声で、ほころんでいた蕾が今まさに開いたような笑顔で。
僕の淡い恋心に、彼女はとどめを刺した。
そう、なんだ。
ノーという都合のいい答えを勝手に期待して、喉まで出かかっていた言葉をぐっと飲み込む。
俺、結構前から、お前のこと好きなんだけど。
口の中で転がしていた、でかい、そりゃもう僕にとっては爆弾級のでっかい飴玉を、死にそうになりながら嚥下した。
頭にゴン、と軽い衝撃が走った。うう、もう飴は食わねえ、飴玉で窒息死なんて夏実に笑われる…。
「おい」
またもゴン、と音がする。さっきよりもリアルに、ごつっとした骨の感触を感じて、薄く目を開ける。
「いつまで寝てんだ。もうホームルーム終わったぞ」
目の前に呆れた顔の友人が立っていた。僕の頭を小突いていた犯人だ。行将と書いてゆきまさと読むのだが、まどろっこしいので僕はユキと呼んでいる。
「痛えなあ、もう。もうちょっと優しく起こしてくれよ」
「わざわざ起こしてやる時点で俺は十分優しい、贅沢言うな」
くああ、とあくびをしながらおざなりに奴の小言を聞く。まるで奴に返事をするかのような見事なタイミングで、僕の腹が鳴った。
「お前の体は忙しいな」
「そうなんだよ。俺は働き者だからな。休養とエネルギーを欲してるんだ」
「ほう。なるほど、要は恐ろしく燃費が悪いんだな」
ユキはガサゴソと学ランのポケットを探り、小さな菓子を取り出すと僕にひょいと投げてよこした。
「お、珍しく優しいじゃん。サンキュ」
何の菓子か確かめることもしないまま、封を破って丸いそれをぽんと口に放り込む。大きな甘い菓子をゴロゴロやりながら、帰り支度をする。といっても、ほとんど置き勉しているので鞄はスカスカだ。代わりに机の中はパンパン。たまにくしゃくしゃの紙が出てくるが、構わず奥に押し込む。あれ、明日数学あったっけ。宿題やってねえ。
「これは独り言なんだが」
「ん?」
まあいいか。こいつにノート借りよう。
「お前、夏実に会ったのか?」
「え?」
ゴクン。げほげほげほ。甘くて丸い物体が喉を封鎖する。
「やっぱりか。お前は本当、分かりやすいな」
ユキは無表情で僕の背をバンバン叩く。僕は前から、ユキは後ろからバンバンやってるうち、すとんとそれが喉を通って腹に落ちた。
「ああ、死ぬかと思った…」
「喉が太くて良かったじゃないか。お前の体は燃費が悪い分有能だな。夏実に笑われないで済むぞ」
鬼だ。こいつが優しいのは大抵何か企んでる時なんだ。
僕は腹立ちまぎれに飴玉の包みをゴミ箱へぶち込んだ。