目覚めの時④
ペキの記憶が戻らないまま、一週間の時が過ぎた。
空気が澄んだ穏やかな午後、病院の庭のベンチでうつ向きかげんに座っていたペキの足元に、恐らく何日も磨いてはいないだろう、うっすら埃を被った黒い革靴がペキの前で立ち止まった。
「やあ、浮かない顔をしてるね。」
そう言いながらジンジャーはペキの隣に腰掛けた。
「何にも思い出せないんだ。本当に、何にも…。」
ペキは肩を落としてポツリと言った。
「君の落ち込む気持ちはよく分かるよ。でも焦れば焦るほど…上手くいかないと思うんだ。」
「どうしたらいいか分からなくて、俺が誰か分からなくて…。怖いんだ。」
ペキの体が小さく震える。ジンジャーは、ペキの肩を抱き締める事でしか慰める方法が見つからなかった。
「…。」
ジンジャーは暫く考えて、ピンと思い立った。
「そうだ!明日、一緒に出掛けよう!気晴らしになるし、何かを思い出すかもしれない。」
「…いや、やめとくよ。外に出たからったってどうせ何も思い出せないさ。」
「それは分からないだろ。落ち込むのも、諦めるのも無しだ!勇気を持って行動する!」
ペキの肩を叩いて立ち上ると、
「外出届けは私が出しておくから。午前中に娘と一緒に迎えに来るよ。じゃ!」
そう言ってジンジャーは去って行った。
「全く、お節介な医者だ。」
ペキは小さな声で呟いたが、その口元は僅かに微笑んでいた。
「オモチ!急ぎなさーい!」
ジンジャーが玄関のドアの前で、娘のオモチを呼んでいる。
「はーい!」
栗色のおさげを弾ませ、丸襟の花柄ブラウスに短めのプリーツスカートを翻して、十才のオモチが階段から駆け降りて来た。車に乗り込むと、勢いよくエンジンが掛かり出発する。
「ねぇ、パパ?どうしてもその子を連れて行かないと駄目なの?」
「それは昨日説明したよね、パパに協力してくれる約束だろ?」
オモチは少しむくれた様子で、
「だけどさ、あたし、いっつもウスおばちゃん家でお留守番してるんだよ。こう言っちゃなんだけど、あたしいい子にしてるんだから!パパとお出かけなんて久しぶりなのに…。その子のせいで楽しく無かったら…、もうパパとは口をきかないんだから!」
「おいおい、そんなに悲しい事言わないでくれよ〜。大丈夫さ、その子も良い子なんだよ。今日は三人で楽しい1日にしような。」
「………。」
オモチはまだ少しむくれた様子を隠せない。
「さ、その子もお待ちかねだ!」
「…ふん!」
車はペキの居る病院向けて走って行った。