目覚めの時⑩
白磁の一輪挿しに、庭で摘んだ薄ピンクの花がゆらゆらと揺れる。
「そーっと、そーっと…。」
その花瓶を持ちながら、オモチは慎重にダイニングテーブルを目指す。
ここはジンジャーの家。二階建ての家は質素だが小さすぎず、可愛らしい庭にはバラや秋桜、多様なハーブにオモチの好きな林檎の木が植わっている。玄関の東側に応接間、そしてその続きにキッチンがある。そこの窓からは暖かな陽射しが差し、テーブルの上のささやかなご馳走を包み込むように照らしている。
「なんか…。さっきからすげぇいい匂いがする。」
ペキは、オモチに
「呼ぶまで絶対に降りて来ないで!」
と何度も忠告され、二階の空き部屋に軟禁されていた。ふかふかのベッドにはウスおばさんが縫ったというキルトの肌掛けが敷いてあり、ペキはそれの上に横になっていた。
「本当に来てよかったのかな。」
自分の荷物なんて何も無い。持ってきたものと言えば、看護師達が半ば無理やりプレゼントしてくれた寄せ書き、それも大きな色紙に二十枚ほどと、更に色とりどりの手紙にカードが数十枚。その他には何も無く、この荷物の少なさを見ると自分というものが空っぽな気がしてきて、虚しくなる。
「得体の知れない俺みたいなやつと暮らして、迷惑じゃないかな…。」
天井を見ながら、ペキは小さな溜息をついた。
「これでよしっ、と!」
やっとの思いで花瓶をテーブルの真ん中に置くと、オモチは行儀よく並んだご馳走を見渡した。
「うーん。やっぱりウスおばちゃんが焼いたパイが一番美味しそうなのよね。ま、仕方ないか。パパはママじゃ無いからね。」
「何を一人で言ってるんだい?」
エプロン姿のジンジャーが揚げたてのエビフライを持って来て、最後に空いた隙間に置いた。
「うん、これで完了だな。オモチ、お兄ちゃんを呼んでおいで!」
「はーい!」
オモチは元気よく返事をすると、二階に駆け上がった。
「お待たせ!できたわよ!」
「うお!?」
ノックもせずに思い切りドアを開けると、ペキは驚いて飛び起きた。
「ノックくらい…。」
「いいから、いいから!」
さっきの暗い溜息が、オモチに押されてドアから逃げて行ったようだった。オモチはペキの手を取ると、
「さ、早く!」
と、今まで待たせていたのも関係なしに急かした。ドタドタと階段を降りると、ペキの背中を押し真ん中の席に座らせた。見た事の無い料理の数々に、思わずペキの瞳が輝く。
「すごいな!これ、全部ジンジャーが作ったのか?」
「私だってちゃんとお手伝いしたのよ!レタスも私がちぎったし、茹で卵も剥いたし、お皿も私が並べたし。お花だって私が摘んで来たのよ!」
エヘン!と、オモチが胸を張った。
「そうか、オモチはエラいんだなぁ。」
ペキは少しおめかししたオモチの頭をポンポンと撫でると、優しい眼差しでオモチを見た。
「さあ!今日は細やかだが君の歓迎パーティーだ!グランス家の一員としてこれから楽しくやって行こう!」
ジンジャーはグラスを片手に高らかにそう言った。
「今度はウスおばちゃんも一緒にお祝いしようね!ウスおばちゃんのパイも美味しいんだよ!」
「ジンジャー、オモチ…。」
楽しげな二人を交互に見て、ペキは心が明るくなるのを感じた。そして、ちょっと照れ臭そうに、
「二人とも、ありがとう…。」
呟くようにそう言った語尾が、少し震えた。ペキの長く細い睫毛が濡れ、頬を涙が伝う。
「なんだ、これ…?」
それはペキにとって、初めての涙だった。
「目から水が…。何だろうな、これ…。」
笑おうとするが胸に暖かいものが一杯に詰まって、それが涙となって溢れ出た。オモチは微笑むと、ペキの背中を擦りながら、
「大丈夫だよ。これからは私達と一緒だからね。」
と、優しく言った。オモチの小さな手は何よりも暖かく、心強く感じた。
「ううっ…。良かったわ!私まで泣けてくるじゃないの…!」
看護師の格好が気に入ったのだろうか、カミュールは制服姿のまま庭の林檎の木の上から窓を見下ろすと、レースのハンカチで涙を拭った。暫く覗き見ていたが、ペキの笑う姿を見ると太腿をパン!と叩き、
「もう安心ね!私もぼちぼち帰らないと!皆にみつかる前にね。」
カミュールが背中から翼を出し飛び立とうとした時、ふと怪しい人影がジンジャーの家の裏口を横切るのが見えた。
「ん?」
カミュールは飛び立つのを止めて目を凝らして見る。
「あれは…。確か堕天使のグズーじゃ無かったっけ?人間の姿をしているけど、多分間違い無いわ。でも何故?あんな下っ端がペキの所へ?…怪しいわ、怪しすぎる!」
看護師の怪しい格好をしたカミュールは、羽をしまうと町の人から奇異の目で見られているのにも気付かず、こっそりとグズーの後をつけて行った。