Bonus Track_46-1 あの夏の香りは~ユタカ ハジメの場合~
僕の名はユタカ ハジメ。
頭も普通、顔も普通。運動神経は……まあそこそこの、ごくごく普通の大学生だ。
趣味は自転車旅行。バイトで貯めた資金を元手に、月萌のあちこちを回るのだ。
さすがに外国には行けないけれど、いつか鎖国が終わったら、足を延ばしてみたい。
どこかのんびり働けるところに勤めて、長期休みには飛行機に乗って。
そんなことをぼんやり夢見る、平凡な男である。
この夏の目的地は、月萌東海岸。
子供のころ親戚と一緒に車で来た、実家からもそう遠くないスポットだ。
海で泳いで温泉に入って、もしバイトが見つかったらバイトして。資金が尽きるまで一、二週間ほど、きままに過ごす予定である。
潮の香りが混じる風の中、焼け付く日差しに照らされながら、こいでこいでふんばって、ついに最後の坂道のてっぺんに。
スパッと地平線が水平線に変わった。
出迎えてくれるのは、無数のきらめきをはじく深い青。
ここまでの苦しさも吹っ飛んでった。
すーっと息を吸い込んで、体の底から湧いてくる声を、僕はおもいきり解き放つ。
『ヤッホ――!!』
やってしまってから気が付いた。これは山でやるべきものだと。
恥ずかしくなったところに、後ろからくすくすと笑い声。
うわあ、聞かれたっ!
わたわたと逃げ出そうとした僕だったが、それはできない相談だった。
『海は、お好きですか?』
そこで、運命の女神と出会ってしまったからだ。
さらさらとなびく黒髪、きらきらと輝く黒の瞳、すきとおるほどに白い肌。
白い日傘をたずさえ、白いワンピースをまとって微笑む彼女は、お日さまよりもまぶしくて。
一体どこのご令嬢だろう。いや、彼女はそもそもヒトなのだろうか。だってあまりに綺麗すぎる。もしかしたらほんものの、天使なのではなかろうか。
『あの、いえ、……はい』
しどろもどろにうつむいた鼻先を、石鹸のような花のような香りがかすめれば、僕はもう動けない。
気づけば僕は、とあるペンションの短期アルバイトに収まっていた。
* * * * *
彼女は、海水浴場そばのペンションにつとめるシティメイド。呼び名を『ユウミ』と言った。
しっかりしていて、誰にも優しい彼女は、さえない大学生の僕にも微笑みを向けてくれる。
慣れない仕事に失敗も多い僕を、いつも優しくサポートしてくれた。
手が触れるたびに高鳴る胸。恋をしていると気づくのに、時間はかからなかった。
彼女はいろいろと事情があって、一時ここに身を寄せていると言っていた。
つまり、ときがくれば彼女は元あるべきところに帰ってしまうのだ。
僕もこの夏が終われば学校に戻らなければならない。
だから、気持ちにふたをした。なれないポーカーフェースを気取って。
隠しおおせていると思っていたのは僕だけだった。
周りの全員に、僕の恋心はバレバレだった――そう、とうの彼女にさえも。
それを知った、夏の終わりの日。僕は彼女に約束をした。
『ユウミさん。僕、あなたを身請けします!!
何年かかっても、いくらかかっても。
そうしてこの海の向こうにあなたを連れてって、世界じゅうの海を見せてあげます!!
だから、だからっ……』
彼女はそっと僕にキスをしてくれた。
満天の星空の下、ほほに涙を光らせて。
それが最後になるなんて、想像もしなかった。
次の休みに彼女を訪ねた僕が知らされたのは、彼女が元いるべき場所に連れ戻されたということ。
渡した連絡先にも音沙汰はない。
人を頼り、必死で手を尽くしても、彼女の手掛かりは得られなかった。
彼女は社会奉仕活動のため、国を介して派遣されていたΩ。
国の所有として扱われた者について、βの僕たちにはなにひとつの詮索も許されはしなかったのだ。
わかったのはただ、彼女のつけていた香りの名だけ。
『オリエンタルムスク』
けれど同じ名を抱いた香水はどれも、あの日のようには香らなかった。
僕は自らに誓った。
βでダメなら、αになろう。
ティアブラの才能はてんでなかった。でも、大学に入る程度の頭脳、自転車旅行を趣味にできる程度の体力はあった。
なにより、僕には約束がある。
それだけあれば、あきらめる理由なんかもう見当たらなかった。
法科に入りなおし、全力で勉強した。
全国から同じ想いを持つ仲間を見つけ出し、草の根のネットワークを作った。
あらゆるところに行脚して、想いを説き、頭を下げ。時に厳しいことを言われても、全力で向かい合って。……
そうして今期、僕は四人の仲間とともにスタートラインに立った。
もう誰も、僕たちと同じ思いをさせずにすむ未来への。
愛するひとをもう一度、この腕に抱くための。
わりとすらすら書けました……ホワイ?!
次回、カナタ視点に戻ります。
ハジメさんの恋……ハッピーエンドもバッドエンドもありうるんですよね……幸せにしてあげたいところです。




