イリアの決意――想い
そのテントからはランプの明かりが漏れだしていた。
「ん、誰だ? ……ああ、クリスか」
入ってきたのが俺だとわかるとイリアは表情をゆるめた。
イリアは長テーブルに大量の羊皮紙を広げて書き物の最中だったようだ。
作業中にもかかわらず、俺が姿を見せる前に気付いて声をかけてきたのはさすがと言う他ない。
「なんだ、まだ寝てなかったのか」
「はは、なんだ? 私の寝込みでも襲うつもりだったか?」
「冗談」
「だろうな。私だって自分に女としての魅力がないことくらい理解している。そんな気を起こすような男などおるまいよ」
さも当たり前といった様子で軽く笑って見せるイリア。
「は?」
なに言ってんだこいつ。
一瞬意味が分からなくて口を閉じるのも忘れた。
俺の知る限りイリアほど気品のある女性は他にいないし、容姿に至っては鎧を着たお姫様というほどの美しさなのだ。
それをまったく理解していなかったとは……。
俺はテーブルの上の羊皮紙に目を向ける。
普通紙の生産技術が確立されているこの世界では、羊皮紙は高価だ。重要書類や貴人への手紙などに用途は限られる。
「構わないよ。人に見せたい物でもないが、クリスならいいだろう。というか、助言が欲しいくらいだ。なにせ私はこういった仕事には慣れていなくてな」
それは国の有力者に宛てた手紙のようだった。
文章的にはつたないものだが、真摯な気持ちで助力を願うような文が記されている。
他の手紙にも目を走らせてみたが、やはり似たような内容。
政治的な助力を求める類のものだ。
「今回のカイルハザの裏切り。あいつはそれを簡単にもみ消せる。それどころか、あることないこと王に吹き込んで、私を軍から追いやることも可能かもしれない。それはすべて私の努力が足りなかったせいだ」
「政治的な、ということか」
「そう。私は一兵士だった頃から常に自分の力だけで戦ってきた。人を頼ることに抵抗感を感じていた。だが、将軍になった以上いつまでもそんな考えではやっていけない。打てる手はすべて打つ。使える力はすべて使う。たとえそれが疎ましい祖父の威光であっても。いざというとき真っ先に悲惨な目に遭うのは私ではなく部下たちなのだから」
きっとイリアは野営地で縛られ放置されていた兵たちの姿を思い出しているのだろう。
政治的な根回しや後ろ盾を得て、カイルハザの権力に対抗するつもりなのだ。
変わったな。
向こう見ずに敵に向かって突撃していたイリアが、たった半日でこうも変わるとは。
兵たちを集めて行った演説もそうだが、イリアの成長には目を見張るものがあった。
何が彼女をここまで変えたのだろうか。
「今までの私はただ剣を振ることしか考えていなかった。ひたすらに自分を鍛え続ければ、それが人のためになると。だが今回の件で気付かされた。将軍という地位にいる者として……それだけではダメなのだと。全部、お前のおかげだ、クリス」
そう言ってにこやかに笑いかけてくるイリア。
どこか吹っ切れたような、迷いのない笑顔だった。
俺はその笑顔がまぶしすぎて、目をそらしてしまいそうになる。
だからごまかすように、つい軽口が出た。
「鬼の炎神様も、そんな顔ができるんだな。危ない危ない。思わず惚れそうになるところだった」
さてどんな反撃が来るか。
そう思っていた俺にイリアは意外な反応。
「えっ……今なんて……」
表情を消して、ぼうっと俺を見つめるイリア。
まずい! 言い過ぎたか!?
「わ、悪い。鬼なんて、全然そんなことはないぞ。むしろめちゃくちゃかわいいというか、魅力的な笑顔だって……そう思っただけなんだ」
その瞬間イリアはテーブルに顔を伏せて、ぷるぷると震えだした。
強く握られた羊皮紙はくしゃくしゃになっていて、それでもお構いなし。
そ、そんなに怒らせちまったのか!?
「い、イリア……?」
おそるおそるといった感じに声をかけるが、返ってきたのは短く一言。
「……帰ってくれ」
「う……」
絶対メチャクチャ怒ってるーーーー!!
「あ、ああ。悪い。それじゃ……」
そう言って静かに回れ右をして、テントを出る。
そのテントの入り口で、
――いきなり背後から抱きつかれた。
「えっ……」
背中から俺に抱きついたイリアは、そのまま胸に手を回してぎゅっと力を込めてくる。
俺はその手に自分の手を重ねる。
震えていた。
細くて可憐な、女の子の指。
あんな大剣を振り回せるとはとても思えない。
俺は振り返ろうと小さく身じろぎする。
「待って!!」
「――っ!」
するどい一言で制止された。
「すまない。おかしなことをしていると、自分でもわっている。気持ち悪い女だと思われるかもしれない。でも、ダメなんだ。心と思考が切り離されてしまったみたいだ。今の私の顔、見られたくない。でも……でもどうしても……どうしても、私、クリスに……うぅっ……すまない」
「泣いて……るのか?」
イリアの体が大きく震える。
「うっ……うぅっ……なんでもないっ……」
「なんでもなくはないだろ」
イリアからの返事はない。
ただゆっくりと、時間だけが過ぎていく。
上空を埋め尽くす星々の輝きが、夜の世界を彩っていた。
俺はイリアの手に自分の手を重ねたまま、震えが収まるのを待ち続けた。
どれくらいそうしていただろうか。
「ありがとう」
小さく言って体を離すイリア。
振り返ればそこには、一人の少女の笑顔があった。
「これからの私の戦場は、宮廷の中になる。正直言って不安だ」
イリアは胸に手を当ててゆっくりと話す。
「今まで拠り所にしてきた剣は通用しない。私よりも強大な権力を持ち、敵意を向けてくる連中が大勢巣食っている。だから……」
イリアはそこまで言って言葉を切った。
少しの間目を閉じて、呼吸を整えているようだった。
「見守っていてくれないか? クリス、お前が見守ってくれていれば、私はどんな困難にも立ち向かえる気がするんだ。お前のことを思うと胸の奥に暖かい火が灯る。勇気がわく。こんなことは初めてだ」
熱っぽい目でそんなことを言われたら、どう答えていいのか言葉に困る。
こいつは……。
もしかして――という予感はたしかにある。
だがそれを確認してしまえば踏みとどまれるかどうか、今の俺には自信がなかった。
「わかった。約束するよ。たとえどこにいても、イリアのことを応援している」
だから俺に言えるのはこれが精いっぱい。
「ふふ……ありがとう。クリスと出会えて……よかった。本当に」
イリアは胸の前で手を組んで、俺の言葉をかみしめるように目を閉じた。




