魔王の役目
「かつて世界には魔物や魔族、魔に属する者たち以外の生物はほとんどいなかった。それは世界に満ちる特異な波動――魔瘴気の影響じゃ。魔瘴気は生物の理を歪め、狂わせ、魔物へと変貌させてしまう。魔瘴気に適応できた者は魔族となり、適応できない者は異形の化け物となった」
魔瘴気。さっき鏡の部屋でも魔王はその単語を言っていた。
「え、じゃあ人間はいなかったの?」
魔王はアンナを見て小さくうなずく。
「もちろんおった。が、人間のままで生きるのは相当に低い確率じゃった。ほとんどの者は魔瘴気に当てられて魔族として生きるより他なかった。そして魔族の中でも特に優れた適応力を持ち魔瘴気の扱いに長けた者が現れ、魔王を名乗るようになった。魔王は魔瘴気をどうにかしようと思考を巡らせ、研究を始めたのじゃ」
「魔瘴気が魔族を魔族たらしめているものだとしたら、魔王はなぜ魔瘴気を取り除こうとしたのでしょうか?」
リズミナの質問。
魔王は教え子に言い聞かせる教師のような口調で続ける。
「今話した通り、元々魔族や魔物も普通の生物と大元は同じなのじゃ。魔瘴気に影響された生物は暴走して狂う者もおれば、原型を留めないほどの化け物になる者もいた。それは魔族たちにとっても悲劇じゃった。それに、魔瘴気の影響を濃く受ければ魔族とて化け物になることもあったそうじゃ。だからこそどうにかしたいと思ったのじゃ」
たしかに、昨日までの友人がある日突然見るもおぞましい化け物に姿を変えていたとしたら、それは絶望に違いない。
この世界の人間たちの間で最もメジャーな宗教では、魔族も人間も神が作ったとされる。それだけに魔王の話す内容は衝撃だった。
「何代にも渡る魔王たちの研究の結果、魔瘴気は徐々に取り除かれ、影響の弱まった地域では生物が本来の姿で数を増やしていくようになった。そして余の代になるとアリキア山脈を隔てた東側の領域では魔瘴気の影響はほぼなくなり、人間たちが繁栄を謳歌するようになっていたのじゃ」
「魔王が世界の浄化者だとしたら、なぜ人間界に戦争を仕掛けたりしたんだ? 魔王のおかげで繁栄した人間を、魔王が滅ぼそうとするなんて矛盾してるじゃないか」
魔王は少しうつむいて眉根を寄せた。その顔に現れたのは後悔の表情だった。
「問題は魔瘴気の浄化方法にあった……。魔王は魔瘴気を体内に取り込み、その体をろ過装置として使う。その過程でとてつもない苦痛が発生するのじゃ。苦痛だけではない。実際に体を傷つけ損傷を強いる行為なのじゃ」
なるほど。魔王の寿命が短いとされている理由がこれでわかった。
「魔瘴気の浄化でダメージを受けると言ったな? ならやっぱり今人間界で起こっている異変は、お前の体が限界に来ていたからなのか?」
魔王はうなずいた。
「うむ。余のろ過能力を超えた魔瘴気があふれて、破裂する寸前じゃった。正直、危ないところであった。人間界に魔瘴気の影響が出たのは、余のろ過効率が低下したからと見ていいじゃろう。ほんのわずかな綻びがかくも大きな影響を生み出してしまう。魔王とはまっこと難儀なものよ」
「苦痛って……どのくらい……」
ユユナが小さく言った。
魔王は凄みのある笑みを浮かべた。
「とても言葉で言い表すことはできぬ」
歴戦の勇士にしかできないようなその表情を見れば、苦痛の凄まじさがわかるというもの。
「魔瘴気の浄化の過程で狂う魔王もいれば、命を落とす魔王もおった。そして余は……。愚かにも苦痛のあまり、憎しみを人間に向けてしまったのじゃ。人間たちのために余がこれほど苦しんでおるのに、人間たちはそんなことも知らずにお互いがお互いを傷つけ殺し合っている。戦争に明け暮れる人間たちを、どうしようもなく憎らしく思うたのじゃ」
俺たち魔王以外の面々はお互い沈痛な表情で顔を見合わせた。人間は今の時代でも人間同士で殺し合う戦争を繰り返しているのだ。
「それだけが理由ではない。当時は魔族と人間は共存して生活していたが、同時にお互いの種族間で差別や迫害も行われておった。力の弱い魔族からは、人間から受けた迫害の被害に対する多くの陳情が上がっていた。余は魔族を統べる者として対応を迫られ、ついには挙兵するに至ったとういうわけじゃ。しかし……すべては言い訳にすぎぬ。余が人間界に戦争を仕掛けた事実は……弁解の余地はない」
魔王はひざの上で作った握りこぶしを、ギリギリときつく握りしめていた。
「その戦争で、魔族は負けちゃったんだよね? 戦争のとき……一体なにがあったの?」
アンナの問い。
魔王はぎくりと顔を強張らせた。
そして俺たちから顔を背けてぽつりと一言。
「……言いたくない」
「ええーーーっ!」
エリが声を上げた。
俺もエリと似たような気持ちだ。人間代表を気取る気はさらさらないが、人間としてはそこが一番気になるところだったのだから。
「お前、なんでも全部話すって言ったじゃないか。魔王ってのは自分の言った言葉の責任も取れないのか?」
「うぐっ」
俺の一言は魔王にとって痛いところを突いたらしい。
「うう……いじわるじゃあ……お主はいじわるじゃあ……」
目にうっすら涙まで浮かべてやがる。
魔王というかまるっきり小さな女の子みたいだ。なんだかイジメてるみたいでかわいそうになってきたぞ。
「ああ、いや……そんなに嫌なら無理にとは」
「うう……こい……」
ふてくされたような顔で、ぼそりという言う魔王。
「え?」
ジロっと俺をにらむ魔王。それからヤケクソ気味に声を張り上げた。
「だからあああああ! 恋じゃ! 余は人間と恋に落ちてしまったのじゃあああああああ!!」




