大胆アンナ ファーストキスはどんな味?
「クリスー……」
振り返ればアンナが着替えて女湯から出てきたところだった。
のぼせて真っ赤な顔で、ふらふらとした足取り。
「大丈夫か?」
「うぅぅ……頭がぐらぐらするよぉ」
具合の悪そうなアンナと部屋に戻る途中、一人の男とすれ違った。
男は自分の右腕をだらんと落として、左手で押さえていた。
よく見ればその右腕はひじの辺りが赤く腫れあがっていた。
「あっ」
男は俺を見て驚き、声を上げた。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもねえ。へへ……」
男は痛みからか顔中に汗をかき、卑屈な愛想笑いを浮かべた。
「その腕、痛そうですね?」
「いや、なんでもねえんだ。ほんとだ。へへへ」
そう言ってそそくさと離れようとする男の背中に声をかける。
「あ、落としましたよ」
「えっ? ああ、ほんとだ。こりゃすいませんね」
床に落ちている術符の束。
それは今俺がわざと落としたものだ。
それを男は拾った。
ただの術符の一枚ならありえたかもしれない。
だが術符を束で持ってる人間などそうはいない。
王都で技術公開したと言っても一般にまで広く術符を流通させるにはまだ時間がかかるはずだ。
しかも王都からこんなに離れた温泉街で、術符の束を持った人間はいるはずがない。
俺は男の顔面をぶん殴った。
「ほげぎゃあっ!?」
男の胸倉を掴んで、火炎符を一枚口元に押し付ける。
その符から小さく炎が上がったのを見て男の顔色が変わった。
「お前が、犯人なんだろ?」
男が俺を見て驚いていたのは、俺の服に見覚えがあったからだ。
男が術符の束を思わず拾ってしまったのは、盗んだ術符をうっかり落としたと思って慌てたから。
俺が見せた火炎符の炎は、ライターほどの小ささでも男の肝を潰すには十分だった。
「ひぃぃぃいいいいい!! す、すいません! 許してください!!」
「俺から盗んだ術符の束、全部返してもらおうか?」
俺の服からは、術符の一部がなくなっていた。
終始卑屈そうにしていた男の目がギラリと光る。
「ちっ、こうなりゃこの術符、手あたり次第全部使ってやらあ! 死ねぇぇえええ!! ……え?」
男は気付いただろうか?
盗んだ術符を取り出そうとしたはずの左腕が、いつの間にか感覚を失っていたことに。
男の左腕は俺の氷冷符によって氷漬けにされていた。
「うわああああああああ!? なんじゃこりゃああああっ!」
俺は男の両足も氷漬けにして拘束し、宿の主人に突き出しておいた。
あとは街の警備隊にでも引き渡してもらって、処理してくれるだろう。
術符は全て取り戻せた。
部屋に戻り、長湯をしてのぼせ気味のアンナをベッドに寝かせて、水の入ったコップをそばの台に置いてやる。
「うぅ……ありがと」
「お前の服は大丈夫だったか? 何も盗られたりしてないか?」
「うん、大丈夫」
「そうか」
もしアンナの服が盗まれたなんてことになっていたら、さっきの泥棒の腕は氷漬けではなく床に転がっていたかもしれない。
ベッドの上で、荒い息を吐くアンナ。
出会った頃は痛々しいほどに痩せていた体は、今は健康的な丸みを帯びて年相応のふくらみをしていた。
スカートから覗く太ももに、思わず目が行ってしまって慌ててそらす。
何を考えてるんだ俺は。
アンナの横にどすんと体を投げ出して寝転がり、俺も天井を見る。
「どうしたの?」
「なんでもない」
赤くなっているかもしれない顔を思わず腕で隠してそう言う。
横にいるアンナの匂いが妙に気になってしまってドキドキが収まらない。
はぁ、こんな調子で夜ちゃんと寝れるかな。
今まで普通に出来てたことだ。しっかりしろ、俺。
そう思っていたらアンナが寝返りをうつように転がって俺に体を押し付けてきた。
「お、おい……」
「クリスー。えへへへー」
俺の体は抱き枕じゃないんだぞ。
いかん、完全に甘えモードだ。
「おい、お前も女の子なんだからあんまり体をくっつけるなよ」
「なんで?」
俺の胸に顔を乗せて、不思議そうに聞いてくるアンナ。
「なんでって、男と女であんまりくっついたりするもんじゃないだろ。こういうことは――」
そこで言葉が詰まる。
こういうことは好きな人同士じゃないとダメなんだ。
それを口に出してしまったら、それはまるでアンナから告白を引き出そうとするかのよう。
「クリスのこと、大好きだよ。だからくっつくんだもん」
せっかく言葉を切ったのにいきなり無意味にされてしまった。
俺が精いっぱい働かせた自制心を一発で砕きにかかるアンナ。
「いや、それはうれしいけど」
「クリスは嫌いなの? あたしのこと」
「嫌いなもんか」
「じゃあ好き?」
「まあ……好き……かな」
その瞬間アンナはがばっと抱きついてきて、思いっきり力を込められる。
まるで押し倒されてるみたいだ。
「お、おい……」
「好き好き好き! 大好き! クリス! んっ――」
アンナの愛嬌ある顔。笑顔がかわいい、くりくりとよく動く大きな瞳の、アンナが視界一杯に広がって。
唇に暖かい感触。
キスされたと気付いたその瞬間――。
天井で大きな音がした。
俺とアンナはがばっと跳ね起きて天井板を見る。
「ネズミかな?」
ガタッと鳴った音は一回だけだった。
確かこの宿に三階はなかったはずだ。
幽霊……とか?
背筋にぞっと冷たいものが走った気がした。
「ふーーーーーー」
もう一度、今度はうつぶせにベッドに寝て、枕に顔を押し付けた。
火照った顔にひんやりとした感触が心地いい。
キスされてしまった。
アンナがこんな大胆な行動に出るなんて思ってもみなかった。
心臓がバクバク鳴りすぎて痛いくらいだ。
窓のほうを向いて外を見る。
ああ、そろそろ日が落ちようとしている。
そういえば腹が減っていたな。
「なあアンナ、今日のメシは宿で食うか」
「えっ」
驚いた声。
どの町で泊ってもだいたいが外食だったので意外な提案だったのだろう。
「こういった宿だらけの観光地は、意外と宿のメシもいけるもんだ。料理のうまさを売りにして客を引っ張ってる宿もあるって話だしな」
「そうなの?」
「わからん。だから試しに今日はここのメシを食ってみよう」
「はーい!」
アンナは素直に賛同してくれる。
宿の主人に食事のことを聞くと、今日はとっておきだから楽しみにしていてくださいと言われた。
俺たちは準備が終わるまでしばらく部屋で待つのだった。




