気の休まらない夜
リガミルタの町はイリシュアールの南西に位置する中規模の町だった。
到着するやラーニャは馬車の御者に指示して、とある宿へと向かわせた。
夜も遅いというのに宿のドアはラーニャが数度ノックをしただけで開いた。
そして出迎えた店主は驚きもしない。おそらくこの宿もラーニャの仲間のアセルクリラング人が経営しているのだろう。
俺たちは提供された夜食を摂ったあと、それぞれにあてがわれた個室へと入った。
「はぁー……」
ベッドに腰を下ろすと勝手に声が漏れた。
馬車に揺られていただけとはいえ、一日中となると結構疲れる。
メシを食って一息ついたこともあり、さっそく眠気がやってくる。
「ふぁぁぁぁ……」
大きなあくびをしてからベッドに横になると、部屋のドアが軋み音を上げた。
「失礼します」
ラーニャだった。
ゆったりとした踊り子のような恰好なのは変わらないが、夜に見ると妙に艶っぽく見える。
「どうしたんだ?」
俺の問いにすぐには答えず、ベッド脇まですすっと歩み寄る。
そして背中を見せてベッドに腰を下ろして座り、寝転がる俺の足に手を置いた。
「クリス様は大事なお方。旅の疲れが残ってはいけません。私が揉みほぐしてさしあげましょう」
「疲れているのはお前も同じだろ。というか俺たちに気を使って馬車ではずっと話をして楽しませてくれていたじゃないか。大変だったろ」
「ふふ、お優しいんですのね。ですが心配には及びません。クリス様をおもてなしして差し上げるのが私の務め。クリス様は何も考えずに身を任せていただいて構いません。とっても気持ちいいですから」
それにしたってなんでわざわざこんな夜更けに一人のところを。
「いや、いいよ」
だからはっきりと断った。
「あら?」
ラーニャは不思議そうな顔をする。
「そんなことをおっしゃらないでください。ほら、お体のほうはとっても疲れているご様子」
そう言って足に置いた手をつつ、と動かす。
俺に覆いかぶさるようにゆっくりと体を寄せてくる。
香水だろうか? やさしい香りが鼻先をくすぐる。
「頼む、やめてくれ」
こんなところを誰かに見られでもしたら大きな誤解を招く。それくらいのことはラーニャだってわかるだろうに。
力任せに振り払ってもよかったが、さすがにそれはラーニャに悪い。
ラーニャはそれまで浮かべていた妖艶な笑みをさっと消した。
ベッドから素早く体を離し、床にひざを突いて頭を下げてくる。
「失礼いたしました。クリス様にご無礼を働いたことをお詫びします」
「俺もアンナたちもあくまで友好国へのただの旅行として来ている。普通にアセルクリラングを楽しみたいだけだ」
まさか深夜になって町に到着したのも、こうするためにわざとだったというのは考えすぎだろうか?
顔を上げたラーニャは、あごに指を当てて思案するように眉を寄せた。
「お連れの方々が全員女性でしたので、てっきり……」
いったいどう思われていたのやら。
「本当に悪い。だけどこういう気の使い方はやめてほしい」
ラーニャは今度はすっきりとした笑顔を浮かべた。
「わかりました。でも……クリス様は国主様ですから、やめさせるにしてももっと高圧的に命令して構いませんのに。そんな風に可愛らしく懇願されてしまっては、私の抑えが効かなくなってしまいます」
「はは……は……」
笑い飛ばすのに失敗した。
冗談にしたって色っぽすぎて心臓に悪い。
「本当に申し訳ありませんでした。クリス様は私がお見立てした以上の、素晴らしいお方のようですね。短い同行でもそれを強く感じました」
「というと?」
ラーニャは立ち上がって背中を向けた。
「私が今ここにいること自体、クリス様にはよろしくないことなのでしょう? 話の続きはまた今度ということにしておきましょう。それでは失礼いたします」
そう言ってさっさと部屋を出て行ってしまった。
去り際の彼女の様子からは悪意の気配は感じなかった。
なら俺も必要以上に警戒することもないだろう。
この旅が楽しいものになることを祈りつつ眠りについた。
その日からラーニャは、目に見えて俺への対応が変わった。
これまではことあるごとに手を取ったり体を寄せたりと、やたらと距離が近かった気がする。それが、一定の距離を保って節度あるガイドに徹するようになったのだ。
そしてそのガイドの仕事ぶりは実に優秀で、国境を越えてからの話も俺たちを魅了し続けた。
長旅ではこの話の上手さには本当に助けられた。
ただ揺られているだけの馬車の中では、退屈こそが最大の敵なのだから。
こうして俺たちは道中いくつもの町に泊り、イリシュアールから八日をかけてようやくアセルクリラングの首都ネラグラントへと到着したのだった。




