思い出のスープは涙の味
連れていかれた先はユイリーの店だった。
今日は定休日だから客はいない。
ユイリーは黙って厨房に入り、料理を始めてしまった。
「おい、お前がハザランのなにを知っているんだ? 教えろ!」
シャルルは吠えるがユイリーは聞こえていないように無視して料理を続けている。過去に捕らわれ執着しているシャルルは、腹を立てはしても話を聞かずに店を出ることはできなかった。
「えっ、シャルルさん?」
店に入ってきたシャルルを見てのんきに驚くのはザッカールだ。
「くそっ」
シャルルはあきらめたようにどかっと席に腰を下ろした。
やがてユイリーが料理を持ってやってきた。
「はい、どうぞ」
テーブルに置かれたのはなんてことのないスープだ。カボチャだろうか? ほんのり甘い匂いのする黄色いスープ。赤や緑の野菜がぽこぽこと浮かんでいる。
「私に……食えと言うのか?」
ユイリーは答えずにこにこと微笑むだけ。
シャルルは訝しげにユイリーを見ていたが、あきらめたようにため息を吐いてスプーンで口に運んだ。
そして次の瞬間、その顔は驚きに強張った。
「なっ――これは!? このスープは……」
目を見開いてユイリーに顔を向けるシャルル。
「これが答えだよシャルルさん」
「そんな……バカな……。これは、私たちが見習いとして王宮入りして下働きをはじめたときに、私があいつに作ってやった……あのときのスープだ。当時新人へのひどいシゴキがあって、私もハザランもくたくたに疲れて腹を空かせていた。他の先輩の料理人たちの目を盗んで急いで作ったから、塩の量を間違えてしょっぱくなってしまったんだ。余り物の野菜が不ぞろいの大きさに切られているのもそうだ。間違いなくあのスープだ」
「生涯最も大事な勝負で作ろうとしていた料理だって、じいちゃん言ってた。私はレシピを見て冗談かとも思ったけど、じいちゃんは真剣だった。お前ならいつかこのスープを作る日が来るかもしれないって、そう言ってた」
「うそだ!! そんなこと……あの大一番にこんな失敗作のスープなんて作るはずがない!!」
叫ぶが、シャルルの体は震えていた。
まるで恐怖に怯えているかのように。
「レシピはうそをつかない。じいちゃんがなにを考えてこのレシピを残したのか。私に託したのか。あなたにはわかっているはずだよ」
たぶんハザランは、仲直りがしたかったのだと思う。
一人の女性を巡ってぎくしゃくした関係を、思い出のスープで修復したかったのだ。
シャルルとの友情が最も厚かったときのスープ。感謝と感動の気持ちを、勝負の日に伝えようとしていた。
「お……おおお……ハザラン……おおおおおおお……」
シャルルはぼろぼろと涙を流して泣いた。
「私も聞いたことがあります」
ザッカールが言った。
「生前、母サリージャが言っていました。昔、大切な友人にひどいことをしてしまったと。彼は大事な料理の勝負に臨んでいたのに、自分は偶然それを知ってしまって、台無しにしてしまったと。あなたのことだったんですね……」
「詳しく教えてください!」
シャルルはイスを蹴立てて立ち上がり、ザッカールの襟を掴んで言った。
ザッカールはその腕にそっと手を置いた。
「母はこう言いました。彼はとても真面目でまっすぐな人だけど、それだけにその勝負に負ければ立ち直れない、料理人をやめてしまうだろうと。それをなんとしても止めたかった。たった一度の勝負で失ってしまうには、彼の才能はもったいなさすぎると」
シャルルは力なく肩を落とした。
「……サリージャは知っていたんですね。それどころか、私のことを完全に見透かしていた。そうです……私はあの日、料理人としてのすべてをかけて勝負に臨みました。負けたら二度と厨房には立つまいと、そう思っていたのです。そしてサリージャは私よりもハザランのほうが料理人として才能があると思っていたのですね。だから勝負をやめさせたと……」
しかしハザランが作ろうとしていたのは失敗作のスープ。
料理勝負になっていれば勝っていたのはシャルルのほうだったというのは皮肉な話だ。
さらにザッカールは言った。
「母は勝負の前日に、父を半ば強引に説得して連れ出したのだそうです。折り悪く母の親族たちの差し向けた追っ手が迫り、二人は王都の外へと駆け落ちするしかなかったそうです。母の家は貴族。二人の仲をよく思っていなかったのでしょう。母の行動はふしだらな密会だと思われてしまったのです」
「なんてことだ。ハザランが逃げたのではなく、サリージャの意思だったなんて……。つまりサリージャは勝負なんて関係ない、最初から心はもうハザランに奪われていたのか……。はは、は……私はとんだ道化だったわけだ……」
頭を抱えるシャルル。
その顔からは覇気が抜け落ちて、弱々しかった。
俺は部外者だが話を聞いていて、胸にこみ上げてくるものがあった。
だから言った。
「料理は人を幸せに、笑顔にするためのものなんだ。シャルルさん、きっとサリージャさんはあなたに料理人を続けてもらって、多くの人を笑顔にしてほしいと、そう思っていたんじゃないですか? あなたは料理の腕に自信があるんでしょう? あなたが今までに作った料理はきっと、多くの人を幸せにしてきました。違いますか?」
シャルルは寂しそうな目で俺を見る。
「私にその資格はありませんよ。自分のことだけを考えて料理をしてきた私には……ね」
「おじさんの作ったスープ、おいしかったよ」
アンナの言葉はなぐさめじゃない、本心からのものだろう。
シャルルはもう一度席に着いて、スープを口にした。
「ははは、あいつめ……。こんなへったくそなスープを、そんな大事に……レシピに取っておくほど大事に……ううぅ……ほんと、いつまで経ってもお前は変わらねえ。やさしくて……友達思いで……うぐっ、うああああああっ!!」
決壊したように、ついに声を上げての大号泣。
そしてシャルルは泣いてしゃくりあげながら、最後の一滴までスープを飲み干した。
立ち上がって俺たちに背を向けるシャルル。
「ごちそう……さまでした。そして今までご迷惑をおかけしたこと、お詫びします。店は畳もうと思います」
「えっ!?」
驚いたのはユイリーだ。
「元々私の本店は南区にありましてね。ここへは無理に店を出したんですよ。私が支店にかかりきりになっては、本店の味が落ちないか心配だ。それに……ここには私を料理大会で負かすくらいの、とてつもない強敵がいる。戦略的撤退ですよ」
そう言って振り返ったシャルルの顔は、憑き物が落ちたみたいにすっきりとしたものだった。
そして今度こそ店を出て行ってしまう。
俺は外へ駆け出してその背中を呼び止めた。
「待ってください! お墓に置いてあった真新しい花束。あれはあなたが置いて行ったものですよね? あのとき墓地にいたのはお墓参りをしていたからなんでしょう? 口では恨んでいる憎んでいると言っていても、あなたは友達思いの、素敵な料理人なんです。天国の二人も、きっとわかっているはずです。あなたは二人にとって、最後まで大切な友人だったんですよ」
ただ憎い相手に会うだけなら花束を用意する必要はなかった。あのお墓にはサリージャはいない。祖父と母しか入っていないとユイリーは言っていたのだから。
シャルルは耳が聞こえないかのように反応らしい反応を見せずに歩いて、行ってしまった。
ただ、その歩いて行った道には足跡の代わりに、落ちた涙の小さな黒い染みが点々と続いていた。




