神社にて
ガサガサと鳴る葉。鬱蒼とした植物の圧迫感。手に堅い葉が擦れ、鋭い痛みを感じる。僕の頬をじっとりとした汗が滴り落ちた。
今日は夏休みに入ってから数日がたったある日。学校が休みになり、みんなはスポーツでさわやかな汗を流したり。はたまたエアコンの効いた涼やかな室内で新作のゲームに興じたりと、思い思いの夏を楽しんでいることだろう。
だが、僕は何でこんな目に遭っているのか。背より高い草をかき分け、埋もれてしまった獣道をずかずかと進んでいるこの状況に、僕はいい加減嫌気を起こしていた。目の前には虫がたかり、汗でべっとりと張り付いた衣服が不快感を増大させる。
事の発端は一本の電話だった。今日の朝、寝起きに朝日を浴びていると、親友から電話がかかってきたのだ。
『ちょっと、一つ頼み事を聞いてくれない? いや、そんなに大変な事じゃないからさ。一冊のアルバムを、ある神社に捨てていって欲しいんだよ。アルバムと神社の地図は君の家の玄関に置いておいたから。なに? 自分でやれって? まあ、そうなんだけどさ。俺にもいろいろ用事が…… とにかく、よろしくね~』
と、まあ、こんな具合にだ。そして有無も言わせずに電話を切りやがった。何の嫌がらせだよ。しかも玄関に行ってみたら、アルバムと手書きの地図がポストに投函されてたし、ご丁寧にも《引き受けてくれてありがとねー》とかいうふざけたメモが添えられていた。
頼まれたら断れないのが僕の性。まあ、今日は特に予定もないし。そういうわけで真夏の炎天下に山登りとかいうこの苦行を僕は強いられているのだ。
ああ、暑い。自分でここに来たからといって、暑さが和らぐわけではない。この暑さにやられたのか、少し頭も痛くなってきた。それに加えて寒気もする。誰かにじっと見られているような、そんな感覚。
「これで神社がなかったらタダじゃおかないからな……」
悪態をつきながらも渡された地図を確認する。この地図が間違っていなければ、もうすぐ神社に着くはずなのだが……
そのとき、木の陰にちらりと鳥居が見えた。よし。とりあえずあの悪友は、嘘だけはついていなかったようだ。
僕はその鳥居まで進んでいく。そこまでは思ったよりも距離があり、悪戦苦闘しながらもその鳥居にたどり着いた。
――その瞬間、目の前が開けた。色あせた鳥居。腐食して崩れかけた拝殿。境内に薄く生えた雑草。しかし、そんな物よりも僕の目を奪った物があった。
それは、一人の少女だった。ぼろぼろになった賽銭箱を背もたれにして向拝に腰掛けている。彼女は紅白の巫女装束を身に纏い、膝に座らせた狐を撫でていた。
「狐を撫でている」などという荒唐無稽な状況にもかかわらず、僕はその状況をあるがままに受け入れる事ができていた。
何故か。それは狐を撫でるその情景が、あまりにもその少女に似合っていたからだ。木漏れ日に照らされた彼女の目は薄く細められている。その表情は厳かで可憐な日本人形のようだった。
僕は鳥居の前でただ立ち尽くして息をのんでいた。境内に入ってしまっては、彼女と狐と神社の織りなす、張り詰めた蜘蛛の糸のような空気感が壊れてしまうような、そんな気がしたからだ。そう思ってしまうほどに、どこまでも美しかった。
……どれくらい時間がたっただろうか。風になびいた長い髪とともに、彼女はふと顔を上げた。
僕と少女の視線が交差する。その瞬間、僕の脳裏に畏怖のようなものが掠めた。この世ならざるもののような、関わってしまってはいけないような、そんなものを、彼女の瞳から感じた。
しかし、その感覚は刹那にして霧散し、消えていった。
僕が固まったまま動かないでいると、その少女は狐を膝から下ろし、立ち上がった。そしてこちらに歩み寄ってくる。
「おや、こんなところに人が来るなんて、珍しいわね。道にでも迷った?」
その少女は目を細めて首を傾げる。
僕は言われた事をとっさに理解できず、反復し、反芻してから答えた。
「い、いや、少しも迷ってなんかいないさ」
……嘘はついていない。ただ地図が信用できなかっただけだ。
「この神社に用があるんだ。君こそ、どうしてこんな場所にいるの?」
「こんな辺鄙な場所の神社に用があるのか。物好きがいたものだ。よし、その用を私に言ってみなさい。ちょうど暇をしていたところだし」
少女はそう宣言すると目を輝かせる。
まあ、あえて隠す理由もない。……地味に僕の質問が、一つ無視されているが。
僕は抱えていたアルバムを取り出して言った。
「このアルバムをこの神社に捨ててこいと頼まれたんだ。何でこの神社なのかは知らないけどな」
少女は興味深そうに頷く。
「それで藪をかき分け、草を踏みしめてここまではるばるやってきたわけだ」
「ちょっとそのアルバムを見せてよ。そこらには捨てられないアルバムなんて、面白そうじゃない」
そういうなり、少女は僕からアルバムを奪って、ページをめくり始めた。
僕は驚いて一歩後ずさる。しばらく待ったが、少女は一心不乱にページをめくるだけだった。
……兎も角、僕は役目を果たした。アルバムを捨ててはいないにしろ、この神社に置いてきた事は確かだ。
「じゃあ、僕はこれで帰るとするよ。そのアルバムは適当に捨てておいてくれよ」
「待て」
振り返って帰ろうとすると、少女が強い口調で呼び止めた。
「今帰ると、君はきっと後悔することになる」
「どういうことだ?」
僕は帰ろうと動かしていた足を止めて振り返る。
「そのままの意味だわ。あなたはこのまま帰ると後悔することになるの」
「アルバムを捨てたことを後悔する、って意味ならそれはない。さっきも言ったけど、これは渡された物で、僕はこのアルバムに何の愛着もないんだから、捨てて後悔するって事は……」
少女は首を振って、僕の話を遮った。
「違うわ。愛着とか感情とか、そういう問題じゃない。もっと物理的な問題よ」
「と、いうと?」
僕には想像もできなかった。
「ところでこの神社に来るまでに、何か体の不調はなかった?頭痛がしたり、体が無性にだるかったり、目眩がしたり……」
「まあ、暑いし、そのくらいはあったさ」
「他には?」
そう尋ねる彼女の顔に、先まで浮かべていた薄い笑みは微塵もなく、真摯な目線があるだけだった。
「後は……、何かに見られているような、そんな寒気がしたくらいかな……」
「そう……。分かったわ。結論から言うわよ。よく聞いておきなさい」
僕は少女の真剣な表情に、思わず息をのむ。これから言われることに全神経を集中して――
「――あなたは呪われているわ」
「…………は?」
僕は拍子抜けしてしまった。いやいや、そんな大まじめな顔で呪いがどうとか言われても、反応に困る。そもそも、僕は呪いだとか、幽霊だとかの類いは微塵も信じていない。子供じゃあるまいし。そんな僕に、「あなたは呪われています」なんて生真面目に言われても、「ああ、そうですか。それは大変ですね」と、皮肉を言うくらいしか反応できない。
「……いま、わたしを馬鹿にしたでしょう。『呪いなんかないのに、こいつ、大まじめな顔して何言ってるの? 馬鹿なんじゃないの?』みたいに」
……いや、そこまでは思っていないが。
彼女の視線が怖い! 腕を組んでじっとこちらをにらんでくる。
「まあ、いいわ。あなたがわたしの忠告を無視して呪い殺されようが、野垂れ死のうが、わたしには全く影響はないのだから」
……どうやら、彼女はいじけているようだった。何故かは知らないが。
「分かった、分かったから。それで、その呪いだか何やらがなんなのか、僕に教えてくれよ」
「そう。なら教えてあげるわ」
そう言うと、組んでいた手をほどき、例のアルバムを手にして言った。
「このアルバムには、一人の少女の霊が取り憑いているの」
「霊? 怨霊とか幽霊とか、そういうやつのこと?」
「簡単に言えばそうよ。だけど、この少女の霊は、怨霊の類いとは違って悪意は持ってないわ。だから安心して大丈夫よ」
安心とか安心できないとか、そういう問題ではない。霊や呪いとか、そんなことを突然言われても、にわかには信じられなかった。
「それで、このアルバムに霊が取り憑いているとして、僕がそのせいで呪われたと言いたいの?」
目の前の少女はめくり続けていたアルバムをぱたんと閉じて言った。
「あら、その通りよ。よく分かったわね。まあ、厳密に言えば違うのだけれど」
少女は少し驚いた顔を見せる。
……どうやら、彼女は本気で僕が呪われていると言っているようだった。確かに僕がこの神社へ行く途中に感じた寒気は、思い返してみると不思議な事が多いように感じた。あの感覚は、風邪の時の寒気とは違って、誰かににらみ付けられた時の感覚とよく似ていた。
とりあえず、呪いを解く事について考えた方がよいのかもしれない。
「それで、僕の呪いを解くためにはどうすればいいの?」
「そうね…… 普通は呪われる方にも何か理由があるものだけど、このアルバムは今日以前には見たこともないのでしょう? なら、君を呪っている張本人に聞いてみるしかないでしょうね」
少女はうんうん、と頷きながら言った。
「つまり、アルバムに取り憑いている霊を呼び出すということか?」
「そうよ。それが一番手っ取り早く解呪する方法だわ」
霊を呼び出すのは簡単なことなのか……。
「じゃあ、今すぐやってくれよ。暇だとはいえ、真夏に長い時間外にいたくはない」
木々の中なのでいくらか涼しいとはいえ、真夏の熱気は少し辛かった。
「ごめんなさい。今すぐにはできないの」
少女は少しだけ申し訳なさそうに言った。
「でも、さっき簡単って……」
「簡単よ。ただ、少しだけ準備がいるの。手伝ってくれる?」
「別にいいよ。それで? 何を用意するの?」
「鏡を二枚と、蝋燭。それと、塩を持ってきなさい」
……ん?「持ってきなさい」だって?
「なんで僕が一人で全部用意する事になっているんだ? そこは普通分担して用意するものじゃないか」
「いいじゃない、別に。わたしはこの神社の境内から出られないし」
「いや、出られないって……。出たくないだけじゃないのか? まあ、いいさ。頼まれたからには引き受けよう」
「あら、引き受けてくれるの。てっきり、そこは断って、呪い殺される運命を選ぶと思っていたわ」
……こいつ、たまに毒を吐くな。
「まあ、快く引き受けてくれたことだし、さっさと用意してきなさい。明日、またここで会いましょう」
そう言うと彼女は向拝に腰掛けた。
「そうそう、まだあなたの名前を訊いていなかったわね」
「そういえばそうだな……。僕はコウスケ。『コウ』って呼んでくれて構わないよ」
「じゃあ、そう呼ばせてもらうわね。わたしの名前は……」
そこまで言って、彼女は顎に親指を当てて考え込んでしまう。
「そうね……。《畑見稲荷神社のヨウコ》と呼びなさい」
……何だ、その長ったらしい呼び方は。それに、この神社にも名前があったのか。
「えっと……、普通にヨウコでいいか?」
彼女は少しだけ考えてから言った。
「まあ、紛らわしいけどそれでもいいわ。とにかく、明日、絶対に来るのよ?」
「はいはい。言われた物を全部もって行きますよ……」
何故か張り切っているようにも見える少女にあきれながら、僕は答えた。
彼女は嬉しそうに目を細めて笑う。初めて見る彼女の笑顔は、人間のものとは思えないほどに無垢で、美しかった。
僕は崩れかかった鳥居をくぐる。ふと振り返って見ると、優美な狐の姿が見えた。
……帰り道、またあのひどい獣道を通ることになったのは言うまでもない。
*****
翌日。僕は畑見稲荷神社に向かっていた。背中にはリュックサック。そこには昨日頼まれた物品たちが詰め込まれていた。
今日も天気は快晴。まだ朝だというのに、ただ歩いているだけで汗が噴き出し、滴り落ちた。
黙々と歩いていると、あの獣道の入り口にたどり着いた。
覚悟して獣道に踏み込む。そして草花を踏み分けながら進んでいった。
……あれ? なんだか昨日よりも獣道が整備されているような気がする。僕が二回通ったからという理由もあるのかもしれないが、それにしては明らかに誰かが整備した跡があった。
もしかして、あのヨウコが整備してくれたのか?……いや、あいつに限ってそんなことはあり得ない。あんなに不躾な態度で僕に命令して、たまに毒も吐くヨウコに、そんな気の利いた事はできるわけがない。
そうこうしているうちに、畑見稲荷神社の腐りかけた鳥居が見えてきた。
鳥居をくぐると、ヨウコが仁王立ちで待っていた。「もう、待ちくたびれたわ。女の子を待たせるなんてコウは最低ね」
……やはりこんな彼女が気の利いた事をするわけがない。
「ところで、この神社までの道をきれいにしておいたのだけれど、どうだった?」
……道を整備したのは彼女だった。
「うん。まあ、昨日よりは通りやすかったよ」
「そう。ならよかったわ。それはともかく、頼んだ物は持ってきてくれた?」
「ああ。持ってきたよ。これでいいか?」
僕は背負っていたリュックサックをヨウコに手渡す。
「鏡二枚と、蝋燭と、塩。よし、これでいいわ」
ヨウコはリュックサックの中身を確認して言った。
「これでアルバムに取り憑いた霊と話せるわ。早速始めましょう」
そう言ってヨウコは崩れかけた拝殿の中に入っていく。僕もその後に続いた。
薄暗い室内はがらんとしていて、中になにもない。一歩進むたびに腐った床板が軋み、悲鳴のような音が響き渡った。
ヨウコは部屋の中央で膝をつき、僕の持ってきたリュックサックから中身を取り出す。二枚の鏡を向かい合わせに立て、その間に蝋燭とアルバムを置いた。
「コウ、蝋燭に火を付けなさい」
そう言ってヨウコはマッチ箱を僕に渡してくる。僕はそのマッチを擦り、合わせ鏡の間にある蝋燭に火を付けた。その火は、合わせ鏡に幾重にも映り、幻想的に辺りを照らし出した。
ヨウコは祝詞を唱える。何を言っているのかは僕には分からない。しかし、古風な民謡のようなリズムで彼女から紡ぎ出される言葉は、ひどく哀愁的で、ひどく儚げだった。
……どれくらい時間がたったのだろうか。ヨウコの声に聞き入っていた時間はとても長く感じられ、それでいて一瞬にも感じられた。彼女はアルバムに塩をまき、拍子木を鳴らす。
――その瞬間、蝋燭の火が大きく揺らめいたかと思うと、『それ』はいた。不自然で、不条理で。それでいて最初からそこにいたかのように、『それ』は現れた。
「……おねえちゃんたちは、なんで私を虐めるの?」
――声が聞こえた。その声とともに、僕は『それ』を認識する。
それは、六、七歳の少女に見えた。涙目になりながら、ぬいぐるみを抱きしめる小さな少女。合わせ鏡の間に立つその姿は鏡の中の世界には映っておらず、彼女が霊的な存在であることを示していた。
「虐めてなんかいないわ。わたしたちはただあなたを助けたいだけよ」
ヨウコは慈愛に満ちた表情で優しく言った。ヨウコにもこんな表情ができたのか。僕と話すときとはえらい違いだ。
「本当に? ……私を傷つけたりしない?」
「もちろんよ。だから、あなたがこのアルバムに入った理由を教えて欲しいな。何か手伝えることがあるかもしれないわ」
ヨウコは優しい笑みを浮かべて言った。
「えっとね……。私、少し前に事故に遭って死んじゃったの。そしたらね、体から私が抜けて、気がついたら知らない写真の中にいたの。私、怖くて…………」
そこまで言うと彼女はヨウコに抱きつき、声を上げて泣き出してしまう。ヨウコは優しく背中を撫でながら、鋭い声で僕に話しかけた。
「コウ、アルバムに何が挟まっているかを見なさい。この少女が言うことが本当なら、きっと何か変な者がアルバムの中に挟まっているはずよ」
僕はヨウコに言われたとおりにアルバムの中を確認する。
ぱらぱらとページをめくると、親友の幼い頃の写真が整然と並んでいた。その中に、真っ黒に塗りつぶされたような写真があった。
僕はその写真を取り出す。
「この写真がその『変な者』か?」
「そうよ。早くその写真を燃やしなさい。そうしないと彼女は成仏できないの」
僕はすぐさま蝋燭の火にその写真を近づける。すぐ写真に火が燃え移り、真っ黒の写真は一瞬で燃え尽きた。
「これでいいか?」
そう言ってヨウコを見ると、抱きついていたはずの小さな少女の姿はなかった。
「どういうことだ? 彼女は成仏したのか?」
僕はヨウコに尋ねた。
「成仏したわ。ありがとう。彼女が幸せに成仏したのはコウのおかげよ」
「いや、僕は何もしてないよ。それで、僕の呪いはどうなったんだ? 解呪できたのか?」
彼女は苦い顔をして言う。
「今の君に、呪いはかけられていないわ。そもそも、最初からあなたに呪いはかかっていなかったわよ」
「はい?」
「だから、そもそもあなたは呪われてなんかいないのよ」
……おいおい、待ってくれよ。僕がこの一件に関わったのは僕が呪い殺されるからじゃなかったのか?
「じゃあ、僕の頭が痛かったり、目眩がしたのは……」
「恐らくただの熱中症ね。せいぜい水分をとって安静にしていれば治るわ。」
つまり、僕は騙された、ということか。
「でも、この一件に呪いが関わっているは事実よ。あの子は、呪いのせいで死んでも成仏できなかったのだから」
「……あの少女が呪われていたって事?」
「そうね。よかったじゃない。あなたのおかげで一人の罪無き少女が救われたのだから」
まあ、結果だけ見ればそうなるが……。
……まあ、いいか。あの少女を助けることができたのは事実だし。
「騙してしまった事については謝るわ。それと、一つ頼みがあるのだけれど」
「なんだ?」
「この神社にはしばしばこのような霊的な問題が持ち込まれるの。わたしはその解決を今までしてきたのだけれど、あなたにその助手をしてもらいたいの」
「僕が助手?」
「そうよ。今回みたいに何か物品が必要になったとき、わたしは買いに行けないの。ここから出られないし」
「あれ? 獣道の整備をしたのはヨウコじゃなかったっけ?」
「……言い方が悪かったわね。見た方が早いわ。ちょっと付いてきなさい」
そう言うとヨウコは鳥居の方へと歩いて行く。僕もその後に続いた。
鳥居の下にたどり着くと、彼女は立ち止まって目配せをした。
「じゃあ、行くわよ」
彼女が一歩、鳥居の外に足を踏み出した瞬間――彼女の姿は一瞬にして消えた。
……いや、足下に一匹の狐がいた。赤い目に真っ白の毛色をした、優美な狐。
「これが、ヨウコなのか……?」
にわかには信じられなかった。
その狐が境内に入ると、すぐさま元のヨウコに戻った。
「どう? 驚いた?」
ヨウコは嬉々とした表情で訊いてくる。
「ああ、驚いたよ……」
僕は背筋を凍えさせながら答えた。
「でもわたし、最初から正体が狐だって事は言っていたわよ。気がついていなかったようだけど」
……どういうことだ?
「わたし、最初に名乗ったとき、《畑見稲荷神社のヨウコ》って言ってるじゃない」
「ああ、あの長ったらしい名前ね。でも、そのどこに自分は狐だっていう情報があるんだよ」
「よく考えてみなさいよ」
僕は数回唱えてみる。
「畑見稲荷神社のヨウコ、畑見稲荷神社の妖狐。ああ、そういうことか!」
「ヨウコ」は名前ではなく、「妖狐」って言う意味だったのか。
「そうよ。だからそこについては騙していないわよ。それで、助手の話は引き受けてくれるのかしら?」
「もちろん、引き受けるさ。物を買いに行けない理由も分かったし、喜んで引き受けるよ」
……君と話をするのも、なんだか楽しいし。
「ありがとう。これからよろしくね、コウ」
「こちらこそよろしく、ヨウコ」
お互いにそう言って固い握手を交わす。
ヨウコは狐のように目を細め、心の底から嬉しそうに笑っていた。