2-1 少しだけ夢の話をしようか。
照りつける太陽が真夏のものになり始めた。私がここに来てから早三ヶ月が経とうとしている。とはいってもこの国には梅雨がないらしく、夏場でも空気がカラリとしているのでかなり過ごしやすい。
ただ梅雨の長雨に打たれる紫陽花が見られないのは残念だ。西洋紫陽花があるにはあったのだが、そもそも形が日本のものより大きすぎて侘さび感に欠けた。雨が少ないからか色も単調だ。
それに躑躅もない。あの梅雨の時季に香る甘い香りがないのも物足りない。それを言えば学校のプール脇に絶対と言っていいくらい高確率で植わっている梔子だって……と、まあ、過ごしやすいのに物足りないと感じるのは贅沢か。
最近ようやく生きていて良かったと思えるようになった。本当を言えば脚立から落ちたときに死んでいたってたぶん、あまり困らなかっただろう。こんな物かと思うくらいで、こんな気持ちは知らなかったはずだ。
話すことが苦手だったせいもある。
人見知りだったせいかもしれない。
けれど恐らく私は他人に興味がなかった。本の中にある物語に憧れはしても自分から行動を起こす度胸も気力もない。そんなつまらない日々は、たぶん死んでいるのも同然だったのだろう。
話は変わるがそんな私でも何故か、年下には懐かれやすい。それと同じく、年上にも好かれやすい。しかし不思議なことに前述したものを合わせると同年代との反りは全く合わないのは何故だろうか……。
数週間前のマーガレットの手紙の一件以来、三日置きくらいにスティーブンが現れるようになった。マーガレットといいスティーブンといい、私はどうやらこの師弟コンビに気に入られたらしい。この頃は一緒にマーガレットに宛てた手紙を書いたりもする。
二人からからすれば私はお互いに“教えることが出来る”対象なのだろう。年上なのに教えられることが何もない私は肩身が狭い。今日もスティーブンは木陰で昼休みをとっていた私の元へやってきた訳なのだが……いつも思うがタイミングが悪い男である。
マーガレットとの一回ごとが分厚い文通と、スティーブンの三日に一度の来訪のおかげで随分上達(?)した筆談で思わず走り書きした。
【そんな可哀相なものを見る目で見んな】
ちょっと思い出して欲しい。真夏の私の昼休み姿を。
【馬鹿かお前は!来たのが私だから良かったものの、これが――】
【分かってるよ、これがエマさんだったり、オリバーさんだったらどんなに怒られるかって言いたいんだろう?】
【そう言うことじゃ――!】
【もう良いから、取りあえずあっち向いてろ】
この間、数十秒。黒板を叩くように走るチョークの音が響いた。壮絶な言い合いにもかかわらず無声である。この頃は二人の書く速度が上がったので、スティーブンが自前の黒板を用意するようになった。
もう会話するのと変わらない。ちなみにエマさんはお世話になっている老婦人でオリバーさんの奥さんだ。
シッシッ、と片手を振るとようやくスティーブンが背中を向けた。物凄く何か言いたそうにしていたが生憎だが私に声でのお小言は効かないぞ。こっちだってまさか、腰履きになっていたオーバーオールの下のシャツを半分持ち上げて中を拭いていた時に来るとは思わないだろう。
【不可抗力だ。忘れろ】
シャツを下ろしてオーバーオールを着込んだ私が肩を叩いて見せた黒板の文字にスティーブンが渋面になる。
【……そういう問題ではない。女としての恥じらいがないのかお前には】
書き出された文字に、持っていた黒板で頭を叩いてやる。思いのほか良い音がした。睨んでくるその目に怒りはない。先日知ったことだが、やはりというかスティーブンは私よりも六つも年下だった。
そのせいで歳の近い姉弟のような気安い関係になったスティーブンからは、以前のような威圧感を感じることもなくなった。良い傾向だ。そう思って今度は撫でてやった。
すると一瞬固まったが、何だかんだでそのまま撫でられ続けている。結構可愛いじゃないか。
【今日はここで食べていくのか?】
書き込みながら朝作った厚焼き玉子のサンドイッチが入った包みを渡す。
【もうさっきのような真似をしないならな】
書き込まれた内容を見て苦笑する。首を縦に振ると安心したのかホッと息をつくのが分かった。失礼な奴だな。
【美味いか?】と訊ねれば頷く。大きな弟を持った姉の気分だ。平和な昼下がり、木陰で寝転びながらしばらくただ木々の葉がざわめくのを聴いていた。
*******
木陰で気持ちよさそうに寝転ぶトモエを横目に、スティーブンはまだ内心の動揺をおさめきれずにいた。先日もトモエに面と向かって注意したのだが彼女は全く聞く気がないらしい。
曰く、彼女の国では一般的だと言うがおそらく嘘だとスティーブンはにらんでいる。ここまでがさつな女性ばかりの国があるわけがない、と。
彼の若さがそう思い込ませているのだ。
しかし最近はようやくマーガレットの言葉が分かってきた。彼女の前ではただのスティーブンでいたくなる。
領主であることも当主であることも止めたスティーブンの姿で。だが未だ兄妹そろって身分を明かしていないことに対する後ろめたさがあるのも事実だ。先日届いた手紙のやり取りからマーガレットも、それを気にしているのが分かった。
でも、駄目だ。いざ伝えようとすると、黒板に向かう手がピタリと止まってしまう。嘘は心苦しくてもこのゆったりと流れる時間を失うのが怖い。
【そちらにいるときに正体を明かそうと思って、私トモエに名族のお金持ちってどう思う? って聞いたんです。そうしたらトモエは国にいるときお金持ちに酷い扱いを受けたのだそうで、シネバイイノニって言っていました】
少し前に届いたマーガレットからのこの手紙の一文を見てからはすっかり気が萎えていた。
(――いや、今もそうだと決まったわけではないのか?)
スティーブンは食べかけのサンドイッチからチラリと横のトモエに視線をやる。気持ちよさそうに目をつぶっている彼女はスティーブンの視線に気付いたのか、片目を開けて“ん?”という顔をした。
何でもないと首を振ると、彼女は再び目を閉じる。
そこにいるだけ。傍にいるだけだというのに。
この時間は手放したくないと、強く思う自分がいる。そのことがスティーブンには一番の疑問だった。普段なら頭を撫でられることも、ましてや叩くことなど絶対に許さない。第一、誰もやりたがらないだろう。
手にしたサンドイッチにかじりつく。雑穀の入ったパンに甘い厚焼き玉子が良くあう。料理長のジェームズに頼んで夜食にできないだろうか。そんなことを考えて、また決行を先延ばしにしている。
早く片付けなければいけない物事を故意に触れずに放置するなど、執務中には考えられないことだ。トモエのことを知っている近しい者達には、スティーブンとマーガレットの身分を決して教えないように先回りをして口止めまでしている。
しかも筋金入りに鈍い彼女は、このクロムウェル家の敷地内にある庭園を市政の公園だと思い込んでいるらしい。いったいどんな国から来たのだろうかと思う。
(別に、言ったところで彼女がこの国で頼れるのは私やマーガレット達しかいないのだ。だったら早めに両者の理解を深めた方が……)
良いのは、明白だ。
【ああ、もしかして紅茶が飲みたいのか?】
急に起きあがった彼女の黒板の文字を見て、その思いはまた萎えた。
【頼む】
スティーブンが書いたその一言に嬉しそうに頷くトモエを見ていると、このまま何かが起こって白日の下に曝されるその時までは、このままで。
できれば、ずっと。そんな日が来なければ良いと思った昼下がりだった。
*******
今日はオリバーさんと一緒に朝の早い時間から芝生の手入れをしたが、ここは芝生も美しい。しかし私は砂利の道も、飛び石の並んだ小路も恋しかった。
【トモエ、手が止まっているよ】
オリバーさんが黒板の表面を叩いてそんな文字を見せてくる。おっと、いけない。再び芝生に生えた小さな雑草を引き抜いていく。
芝生を美しく整えるのは庭仕事の基本である。小さな雑草であってもちょこちょこ出てくると見苦しいものだ。
そういえば枯山水の雑草引きはこれの比ではなかった。熱された砂利の上、白い石は日の光を反射するので眩しいし、小さな雑草を引こうと指を入れたら雑草が砂利の中に潜ってしまったりするからだ。
フフッ、と思い出し笑いを漏らした私にオリバーさんがどうしたという顔を向けてくる。
【すみません、ただの思い出し笑いです。ちょっと私の国の庭仕事を思い出して。今から集中します】
いけない、いけない。小さな雑草を探して麻の袋を一杯にしていく。この国は庭園内のほとんどに芝を使用しているので、今日のノルマだけでもまだまだある。
しばらく無言で――いや、無文字で作業に集中する。抜けども抜けどもこれではまるで緑の海だ。顎の先からは幾粒もの汗が滴り落ちた。小さな雑草を引き続けること三時間。私はまだ動いている腕時計を見てオリバーさんに十時の休憩をとる時間だと黒板で伝えて、はっとした。
これは日本での決まり事であって海外……異世界で通用するかは分からない。朝の時間から二人でずっと行動するのが珍しいので、近くに人の気配があるとついまだ元の職場にいるような気分になってしまっていた。固まっている私にオリバーさんが【そうしようか】と頷いてくれてホッとする。
格下が格上の職人に休憩を催促することを、日本では良く思わない風潮が今だ根強くあるのだ。今のが元の現場なら監督から「そんなにサボって給料貰う気か」とか何とかの皮肉が飛んでいたところである。
私がオッサントートバッグの中からエマさんが作ってくれたレーズン入りのスコーンと濃いめの紅茶を取り出していると、近くにオリバーさんが腰を下ろした。ポットから紅茶をついだカップとスコーンを載せた紙ナフキンを手渡す。そうして二人で黙々と食べていたら、不意にオリバーさんが黒板を叩いた。
【トモエの国の庭はどんな風だった?】
その文字を目で追っているだけでも、私は故郷の庭園へと思いを馳せていた。
【こことは違った自然を現そうとした庭です。この国の庭は原風景の中にある奔放さと人間がソッと手を入れた調和を上手く利用した新しい自然だと思います。対して私の国の庭は――】
そこまで書いて、何故だか涙が出そうになる。これが里心と言う奴だろうか。グッと腹に力を入れて涙を押し戻す。
【厳しい自然に沿い、人の見たい姿に沿わせる。奔放さを排除した口答えを許さない庭です。ですが……愛情深い母親のように手をかけてやらなければいけない可愛い庭です】
前の年の失敗をしっかり見せつけて文句を言い、上手く手入れができていればこちらの予想を上回る成果を見せてくれる。石の上に生えた苔が綺麗に育つように上にかかる枝を切りすぎてはいけないし、弱って樹勢が衰えればひこばえを抜いたり整枝してやる。
冬場に樹皮が割れるような木にはコモを巻いて暖をとらせて、春場にその中で冬眠していた害虫ごと焼き捨てる。雪の重みに耐えられない枝には雪吊りを施して、雪深い時に咲く花には雪に押しつぶされないようにテントのような覆いをかけた。
【庭師たちが手入れを怠らなければ何年も、何百年でも変わらずそこにある。そんな庭です】
本当はそんな大した会社に入ったわけではないから、書き込んだのはただの憧れだ。でも半纏をまとった職人たちはみんなそんな気持ちでいるはずだろう。
たまにかち合う大きな現場で、すれ違う彼等の自信に満ちた姿が羨ましくてたまらなかった。あそこにいる人たちは家人に「泥だらけの姿で視界に入らないで」とも「泥が落ちるから玄関先を通るな」とも言われないんだろう。
自信を持って鋏を振るえる現場なんて私は知らない。私程度の腕の人間はただ機械のように言われた時間内で作業が終わるよう、鋏を動かしていれば良かったのだから。
【トモエは自分の花園が欲しいのかね?】
オリバーさんの向けてきた黒板に書かれた文字を見て苦笑する。
【まぁ、言葉も話せない私では夢物語ですけどね】
そう書き込んで過去の未練に蓋をした。
浮き上がってくるな。惨めになる。そう強く言い聞かせて、自分の底へと沈ませた。大丈夫、私はあの頃よりも惨めじゃない。
【次はどこから取りかかりますか?】
まだ何かを考え込んでいたオリバーさんに黒板を見せて、午後からは公園の入口からちょっと奥まった所にある大きな噴水の掃除をすることに決まった。
良かった、これで午後は少し涼しくなりそうだ。