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1-7   そろそろ自己紹介をしようか。



 彼女が寝込んだその日、先日の言葉通りマーガレットはオリバーと入れ代わるようにして叔父の屋敷へと発った。


 これでこの屋敷の当主一族として残されたのは、スティーブンだけになってしまったのだ。そう望んでいたはずなのか、それとも本心では違っていたのか。それはもうスティーブン自身にも分からなかった。

 

 ただ彼女が少しでも長く寝込んでくれていれば良いと思ったのは事実だ。それが何の解決にならないとしても、言葉が通じないこの土地で。元の独りになってしまった彼女に何をしてやれるかなど分からないのだから。


 五日ほど寝込んだ後に回復した彼女は、当然マーガレットを探して庭園内を毎日散策していた。けれどスティーブンの予想と違っていたのは、彼女がその散策を一週間もたたずに止めてしまったことだった。


 落ち込んでいるのかもしれないと、オリバー夫婦に聞いてみてもそのような素振りもないという。これには少し、ほんの少しだがスティーブンの方が落胆した。


 身勝手なことだとは分かっているが、彼女にとってマーガレットはただ毎日つきまとう子供で、彼女はその子守をしているだけにすぎなかったのかと。マーガレットが思うほど彼女はマーガレットにたいして思うことが少なかったのかと。


 であるならば自分がこれ以上面倒を見ることもないのではないか。オリバー夫婦も本当の子供が出来たようだと毎日楽しげに過ごしている。たまにあの食事会をした使用人用の食堂裏で、料理長のジェームズと身振り手振りで何かを伝えあっているのも見かけることもあった。


 “自分がいない方が彼女は周囲にとけ込めるのでは――?”と。そう思うとますます彼女を保護しなければならない義務感が薄れた。結果、スティーブンはマーガレットの願いがただの杞憂だと判断を下し、毎日を仕事にだけ割くようになる。


 小さな領地とはいえ仕事は多い。領民の生活が肩に掛かっているだけに、やることは多岐にわたった。一週間、二週間とそうして過ごすうちにスティーブンの個人としての人格は薄れ、セントモーリス領主であるスティーブン・クロムウェルとしてのみ過ごす日々が続いた。


 何もおかしいことはない。依然とまるで変わらない日々。彼女が現れた最初の二週間と少しがおかしな日々だったのだから。スティーブンはバーラムとの遠乗りもしない日々が続いた。


 そんな無味乾燥な日々が淡々と続き、春の和やかな日差しから初夏の白い日差しにかかり始めたある日。マーガレットが叔父の屋敷へと発ってから一月が経った日のことだ。朝いつもように執務室に向かうと、机の上にやたらと分厚い封書が載っていた。


「……何だ、この分厚さは」


 陳情書の類にしてもあまりに分厚すぎるその封書に、思わずスティーブンは言葉を漏らす。執務中は溜め息すらほとんどつかないスティーブンだったが、封書の印を見てとるや思いきり溜め息をついた。


「叔父上か。今度はどんな用件だというのか」


 眉間に深い皺を刻んでペーパーナイフを滑らせる。


「これは――マーガレットの文字か? いったい何だと……」


 気まずい別れ方をした妹からの手紙だと知ると、なおさら皺も深まる。しかしその内容を読み進めていたスティーブンの表情がふと緩んだ。もしもこの場に使用人の一人でもいれば、その表情の変化にさぞ驚いたに違いない。


 けれど今、ここにはスティーブンだけだ。


 スティーブンはその分厚すぎる封書を抱えると、久し振りに仕事とは関係のない場所へと向かった。



*******



 初夏の気候になり始めた。しかし一年の間に同じ気候をもう一度味わうことになろうとは思ってもみなかったけどな。そういえば二週間前に知ったのだが、お世話になっている老夫婦の旦那さんは私と同じ庭師らしい。


 私が最初に目覚めてから数日しか一緒にいられなかったけれど、一月前に帰ってきたのだ。住まわせてもらっているお礼と、そろそろ樹木に触りたいという誘惑にかられて、最近では一緒にあの公園の手入れをさせてもらっている。


 というのも夏が近づいてくると、ようやく私にもここで出来そうな仕事が増えてくるからだ。イングリッシュガーデンといってもここには花木が少ない。妙だなとは思うが、下手に花木が植わっていても勝手が違うためにあまり役には立てなかっただろう。


 それにしてもマーガレットがいなくなってから早一月。長いような短いような、微妙に判断しにくい孤独な時間である。とはいえ、孤独といっても一人ではない。いまだ老夫婦は身元不明の私を家に置いてくれているし、とても可愛がってくれているのも分かっている。


 先日も私に似合うとはとうてい思えないような花柄のワンピースを勧めてくれた。ボディーランゲージで必死に断ってみたものの、老人のあの表情はずるい。結局は押し負け、しっかり日焼けして、さらに地黒な肌に淡いピンク色のワンピースを着る羽目になったのだった。


 老夫婦は喜んでくれたが、私のあまりのダメージの受けようにその日以来ワンピースを勧めてはこなくなった。変わりに旦那さんの若い頃に着ていたらしいオーバーオールの丈を詰めてくれたので、手に入れてからは毎日そればかり着ている。


 婦人には残念そうな顔をされてしまったが、髪をとかしてもらうようになるとその顔もしなくなった。三十一歳にもなって人に髪をといてもらうのは恥ずかしいが仕方ない。


 こうして良くしてもらう日々の中、私に文字を教えてくれ、言葉を解してくれたマーガレットはどうしているだろうかとふと頭をよぎることがある。良いところのお嬢様らしかった彼女だ。もしかしたら病弱だと言っていたから保養に来ていたのかもしれない。


 貧困な私の想像力ではそれぐらいが考えつくことの限界で、ともすればまた過ごしやすい気候になれば合えるかもしれない。それまでは彼女と最後にした約束を守らねばと意気込んでいた。


 朝の涼しいうちに簡単な手入れを済ませた私と旦那さんは、あとの時間をそれぞれ好きな植物の世話に充てていた。


 図書室で借りた本のおかげで、剪定や庭に関する言葉なら筆談も出来るようになった私達は、いまや師匠と弟子のような関係性でもある。日本にいた時は徒弟性の職人たちの中で女だからという理由から弾かれていた私も、言葉が分からないからか親身に接してもらえるのが嬉しい。


「おー、今日も良い感じですね~」


 やっぱりほとんどの苗が駄目になってしまったが、残りの数本は今日も元気に生長していた。話しかけながらその若葉を撫でる。小さな芽があの蝋を徐々に突き破って出てくる様は何度見ても可愛い。


「今日もしっかり光合成して早く大きくなるんだぞ」


『お前は人に話しかけずに植物に話しかけているのか?』


 私の背中にふと最近忘れかけていたあの男の声がかけられた。人間、見られたくない姿の一つや二つあることだろう。まさに今の私がそうだった。


「い、いきなり私の背後に立つな!」


 思わずどこぞの少年マンガのような台詞を口にしたが、地面に腹ばいになって植物に話しかけて良いのはマーガレットのような美少女だけだと思っている。それをこの三十一歳の女がやってはいけないことくらい百も承知なのだ。


 したがって彼にはここで見た記憶をなくしてもらわなければならない。


「よぉし、お前ちょっと歯ァ食いしばれ」


 にっこり笑って立ち上がった私はそういって拳を握りしめると、不穏な空気を感じ取ったのか男が一歩下がって何かを胸の前で構えた。


 構えられたのは一枚の黒板。あの、オシャレなカフェメニューを書いたりする小さなやつだ。そこには区切られた単語でこう書かれてあった。


【トモエ、ゲンキ、シテル? ワタシハ、ゲンキ】


 一瞬意味が分からず拳を握りしめたまま男を凝視する。男が構えていた黒板を一度消して何か書き直した。


【キミノ、ヘンジ、キコウ】


 ポカンとしている私に、男はもう一言付け足した。


【ワタシハ、スティーブン、ダ。アイサツ、ガ、オクレテ、スマナイ。ヨロシク、タノム】


 今度はこちらにチョークを差し出してきた。書け、ということだろう。しばらく悩んだが、入れ知恵したのはマーガレットのようだ。しかたなく私は差し出されたチョークを受け取り、男の――、スティーブンの持つ黒板へと書き込む。


【マーガレット、ワタシモ、ゲンキ。ソレカラ、ワタシハ、サワタリ・トモエ。ヨロシク、スティーブン?】


 書き込みながら、そういえばこちらに来てマーガレット以外と自己紹介をするのは初めてだと思った。スティーブンは私の書き込んだ不格好な文字をまじまじと眺めて……微笑んだ。


 その不意打ちは、まぁ、良いか。



*******



【お兄さま、お元気ですか。早いもので――】


 そう始まった書き出しを読むともなしに眺める。それから三枚にも渡る社交辞令のようなよそよそしい内容に辟易し始めた。


 四枚目の便箋。


 もう読み飛ばそうと思っていた便箋だった。


【そろそろ飽き始めて読むのを止めようとしているだろうお兄さまへ。きっと約束をお忘れになって、トモエを独りぼっちにしていることだと思います。彼女はもう簡単な単語での筆談くらいならばこなせるようになっていますので、私と文通をして欲しいのです。お兄さまからお伝え願えませんか。これを彼女に渡して下さい】


 ここを離れてからマーガレットは随分とはっきりした性格なったらしい。妹の成長ぶりに苦笑しつつ、分厚い封書をひっくり返す。中からは幼い子供が手習いに使う小さな黒板が出てきた。それと可愛らしい絵柄の絵本が数冊と初等部の子供が使う文字の手習い書。


 入っていたのはそれだけだった。


 だが、それだけで充分だった。


 そしてマーガレットの考えは正しかった。


 スティーブンが書き込んだトモエの答えを見て顔を上げると、勝ち気でつり気味な瞳がほんの少し柔らかく細められていた。


【サイキン、ミナイ、カラ、シンパイ、シテタ。ツタエテ、メ、デタ。マーガレットノ、バラ】


 彼女は――トモエは思いのほかお喋りだった。筆談用の黒板はすぐに埋まり、消されて、またすぐに埋まっていく。


 スティーブンも次々と答えと質問を書き込んでいく。それは久々に仕事から離れた楽しい時間だといえた。


【スティーブン、モ、サビシイ、ダロウ。オシエゴ、イナク、ナッテ】


 その質問に一瞬息をのんだスティーブンに、トモエは表情を変えずに続けざまに書き込む。


【マタ、ヒル、タベヨウ、ナ】


 そう書き込んだ手を伸ばして、スティーブンの頭を撫でる。固まっているスティーブンに構わず撫で続ける手。その表情は相変わらず読み辛い。


 けれど、それで良かったのだ。その日は、日が暮れてオリバー夫婦がトモエを呼びに来るまでの間ずっと。


 二人で小さな黒板を挟んで頭を突き合わせたまま書いては、消して。


 手習いを始めたばかりの子供のように、尽きない言葉で語り合った。


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