1-6 そこまで期待されても困ります。
作るとは言ったし、約束もした。それは良い。それは大した問題ではないから。ただしこうも言った。
「そんなに期待しないで……頼むから」
マーガレットと約束した後日。さっそくお招きいただいたマーガレットの知り合いの厨房。厨房って……本職と関係ないし。何でもここは使用人が使う食堂だそうだ。いつの時代も使用人は主の影であるらしい。
「大丈夫よ。していないわ!」
嘘つくの下手くそか。
「いや~……でもすごい圧を感じる」
特にその明らかな本職のオッサンから。ここの主はおそらくあのオッサンに間違いないだろう。
分かるよ、ショバを荒らされるその苛立ちは。痛いほどよく分かる。
「そんなこと全くないわ!」
おのれ、まだ言うか。
どうやら後ろの二人は出ていってくれなさそうだ。諦めて調理台に向き直る。台の上に載っているのは新鮮な玉子、牛乳、チーズ、バター、小麦粉、野菜、鳥のモモ肉、そしてチーズ。
……チーズ多いな……。オッサンの好みかマーガレットの好みかによって使用のしかたが変わるぞ。あとは料理用の赤ワインと塩、胡椒、砂糖といった一般的な調味料。さすがに日本で基本の“さ・し・す・せ・そ”は集まらなかった。
三種の神器であるめんつゆ、顆粒だし、出汁入り味噌は当然ない。野菜も現代日本と違い当然路地物が中心だから、季節でない野菜はなかった。魔法とかなさそうだもんねこの世界。
さて、これだけで料理の幅はグッと狭まる。玉葱、人参、小さなカブなどどうしても根菜類が中心になってしまった。まず鶏のもも肉を処理する。給料が少なくて笹身か胸肉しか使っていなかったから嬉しい。
とは言っても、きれいに解体してくれているからあまり手をかける所がなかった。塩胡椒をまんべんなくふりかけて揉み込み、軽く小麦粉をはたく。これだけ。所詮は金のない独身女の適当料理なのだ。あまり期待しないでくれと隣の美少女に言いたい。
次に玉葱をみじん切りに……ん、ちょっと待て。これは――。
「この包丁全然切れないぞ!? ちゃんと研いでんのかオッサン!!」
許して欲しい。刃物は切れ味が命。道具の切れ味で仕上がりが断然変わる仕事だからね。なまくらなメスを持ってる外科医はいない。庭木もきれいな切り口でないと雑菌が入って腐る。
「飯が不味いのはまだ良いがなぁ、切れない刃物は事故の元なんだよ!」
ビッ、と包丁の切っ先をオッサンに向ける。何か分からない言葉でがなる私に怯えるオッサン。そしてマーガレット。
「……マーガレット。ちょっとご飯が遅くなるけどお腹まだ大丈夫?」
コクコクと無表情で頷くオッサンとマーガレット。ゴメンってば……。
私はバツの悪い空気を味わいながら持ってきていた道具袋を漁った。指先に目当ての物が当たる。長年愛用している砥石だ。値が張るものは長持ちするなぁ。引っ張り出した二つの石を見て、恐怖が好奇心に変わったらしい二人がこちらを覗き込んできた。
そんな二人に苦笑しながら、まず私は両方の石を水に沈めて気泡がおさまるまで待ってから引き上げ、最初にザラザラした石にちょっと角度をつけた包丁を滑らせた。正気になったオッサンが騒いでいるが気にしない。ある程度の粗研ができたら今度は滑らかな表面の石で仕上げた。
包丁の表面を水できれいに洗って再び玉葱に刃を入れる。
――ストン。
軽快な音を立てて一気に下まで刃が通る。
どうだ、とドヤ顔で二人を振り返れば拍手を送ってくれた。気を取り直して玉葱と人参をみじん切りにして熱したフライパンにバターを投入。玉葱と人参を入れてしんなりするまで炒める。
次に赤ワインを小鍋にいれて火にかけ酒精を飛ばす。砂糖を多めに加えて揺すりながら焦がさないように半量になるまで煮詰める。本当は醤油と酒と砂糖で照り焼きのタレを作りたかったのだが仕方がない。
「あ、しまった。こっちにトースターなんかないんだった!」
と、これもマーガレットに通訳してもらい、塩胡椒しておいた鶏モモはオーブンに入ってもらうことになった。良かった一瞬焦ったぞ。表面がパリパリになったらまた合おう。
う~ん、塩を振った小さなカブは……行き場がないのでもう少ししたら鶏モモの隣に入ってもらおうか。余熱で焦げ目をつけよう。チーズはマーガレットの好物だったようなので、子供は好きだろうという安直な思い込みでさっき炒めておいた玉葱と人参と一緒に玉子でくるんだ。
……ただのチーズオムレツだな。チーズが日本の物よりかなり濃厚そうなのでソースはかけない。
そうこうするうちに鶏モモと小さいカブも焼けた。煮詰めた赤ワインと砂糖のソースもどきをまだブスブスいっている鶏モモに塗り付けていく。飛び散ったソースがすごく熱かった。
少し冷めてくるとツヤツヤした飴がけみたいになる。これで完成。本当は焼きながら絡めたほうが味がしみて美味しいのだが、時間がかかってしまうので今日は省略する。
「何かよく分からないけど、素材の味は生きてる料理の完成です。これはチーズオムレツ」
唯一分かる料理だけ料理名を教えた。オムレツってフランスだったか?出来上がった物を並べて見ると、日本だな~……と感じる折衷料理になってしまった。マーガレットには悪いけれど、これは日本の食事とはいえないな。嗚呼、猛烈に醤油や味噌を使った和食が食べたい。
三人並んで調理台横のテーブルに陣取る。私が手を合わせて「いただきます」をしている横で神に祈りを捧げる二人。こういうところで人種の違いを感じる。
まず鶏モモ肉を一口かじる。本職が焼いてくれた鶏モモはトースター料理とは全然違った。パリパリなのにジューシー。
オッサンと共に健闘を讃え合って残っていた赤ワインをあおる。久し振りのお酒が咽に沁みた。マーガレットにはホットミルクに砂糖と鶏肉にかけて余ったワインをほんの一匙。
お酒が入ると言葉が分からなくても気にならなくなるのはどこの国でもそうらしい。オッサンは気を良くして秘蔵酒を振る舞ってくれた。真昼の酒盛りは最高だ。横ではマーガレットが必死にオムレツを頬張っている。あんまり美味しそうに食べるものだから、思わず自分の分をあげてしまった。
それにしても――三人で食べ切るには調子に乗って作りすぎてしまった。最近食が細くなったのをうっかり失念していたのだ。そんな和やかな食事風景の中、珍客が現れた。
『騒がしいと思ったら……こんなところで何をしているマーガレット』
言葉を理解できなくとも隣でマーガレットが怯える気配がする。さっきまでワインを飲んでいたオッサンもそそくさとワインの瓶を隠していた。こんなところにまで現れるとは、この男はこの屋敷でそれなりの地位にいるらしい。
マーガレットを睨んでいるからもしかすると彼女のお目付役か何かだろう。図書室に詳しかったから案外家庭教師かもしれない。
「あまり怒らないでやってくれないか。この子は私の心配をしてくれたんだ。そっちのオッサンも私に付き合ってくれただけだ」
最近分かってきたが、この男は急な反撃に弱い。今回も予想しなかった方向からの返答に少し戸惑った素振りを見せた。
「……マーガレット、今のを訳して伝えてくれる?」
そう言いながら顔は男に向けたままトン、と隣の小さな背中を叩く。マーガレットはしばらく私と男を見比べていたが、小さく頷くと男に向かって私の言葉を訳してくれた。
男はそれを聞いてほんの少し驚いた表情を見せる。よし、今だ。
「作りすぎて困っていたところなんだ。もし良かったらだけど一緒に食べてくれないか?」
今度は隣のマーガレットが驚く。ついでにオッサンも。あれ、そんなに驚くことを言ったつもりはなかったんだけど……。伝えてと視線で促す。マーガレットは一つ深呼吸をするとその旨を伝えてくれた。
――沈黙。
何だろう、言わない方が良かったのか。私がそう心の中でじれ始めた時だ。私たちと向かい合う形で男が座った。最初から素直にそうしていれば良いものを。
私はオッサンに取り皿とグラスを頼む。もちろんマーガレットの通訳を介してだ。適当に料理を盛り付けて男の前にワインと共に提供する。
「では気を取り直して。いただきます」
私の合図とともに三人が片言で『イタダキマス』を復唱するものだから思わず吹き出してしまったが、いつの間にかぎこちない雰囲気も薄れて、その日の昼食は久しぶりにお腹が一杯になるまで食べたのだった。
*******
先日なぜか彼女たちと昼食を一緒にするはめになって以来、スティーブンは妹のマーガレットとの関係が前とは違ってきたことに気付いた。最近のマーガレットは部屋に籠もることもなく、熱もあまり出さなくなった。
良く笑うようにもなったのか、屋敷の中でその鈴を転がすような声を耳にすることもある。
使用人達からの報告ではたびたび供も付けないで屋敷を抜け出すことがあると心配する声も上がっているが、スティーブンは「その心配は必要ない」と言って報告を取り合わなかった。というのも、どこに行っているのかが明白だからだ。
あの日、彼女と屋敷の裏口で別れた後。マーガレットはスティーブンに向かってこう言った。
《お願いお兄さま。トモエには私たちが兄妹だと教えないで。トモエは私をどこかのお嬢さんだって思っているの。ただの世間知らずなお嬢さんだって。だから、だから――》
苦手であるはずの兄の目の前で、小さな手を握りしめて。
《私はトモエの前ではただのマーガレットなの。クロムウェル家の人間でも、セントモーリス領主であるお兄さまの妹でもない。ただのマーガレットでいたいの!》
ため込んでいた言葉を叫んだマーガレットはしばらく細い肩で息をしていたが、思い詰めたような暗い目をしてこう続けた。
《――この間、叔父様が私を養女にしたいと。私はこのお話をお受けしようと思っております。……これ以上、お兄さまのお邪魔になりたくはありませんから》
だからその迎えが来るまでの間で良い。自分をただのマーガレットとして扱って欲しい、と。突然の妹の言葉に、スティーブンは動揺した。一人では何もできない無力で、時に煩わしくもあった妹。動揺したのはそれを見透かされたからに他ならなかった。
《オリバーが戻ってきたら変わりに私が参ります。その時は彼女も――》
そう言いかけて、マーガレットはうなだれた。彼女の矜持がその言葉を続けさせなかったのだろう。
《トモエを独りぼっちにさせないでね……お兄さま》
叔父夫婦はマーガレットには甘かった。しかし叔母の家は大商家だ。身元のはっきりしない人間を連れていける場所ではない。それをマーガレットはたった九歳にして理解していた。
今日も、マーガレットの笑う声が屋敷内に響いている。最後の休暇を楽しむように。初めてできた歳の離れた友人と過ごす日々を刻みつけるように。
それを聞きながら、スティーブンは執務室の椅子に身体を沈ませて深い息を吐くその手には手紙が握られていた。その消印は十日前のものだ。そこから手紙の内容を逆算すれば……叔父の元からオリバーがあと一週間で帰ってくる。
*******
「今日でこの世界に来てからえーと……十六日?十八日?」
遭難したらまず日にちを数え続けること。それで人間性――正気を保つことが大切らしいが、私はもう結構あやふやになってしまっている。馴染みだしたと言っても良い。第一、元の世界でも仕事の環境があれだったおかげでカレンダーを正しく認識する能力がだいぶ低下しているのだ。
要は“もうどうにでもなあれ!”というやつである。
「トモエ!」
すっかり開き直ってしまった私の背に、可愛らしい声が呼びかける。
「おはよう、マーガレット。今日は昨日の続きをする? それとも別のことがしたい?」
薄紅色の頬をしたマーガレットはとても綺麗になった。春が来て君は……いや、出会ったときから綺麗な子だったけれどここ数日でさらに磨きがかかったような気がする。将来はどんな美人になってしまうのだろうか。恐ろしい子である。
「ううん、昨日の続きが良い。あと少しだけここのバラの苗を作っておきたいの」
「了解。マーガレットは本当にこの公園のバラが好きなんだね」
「ええ、そうね。バラの花は亡くなったお母さまが好きだったから」
気のせいだろうか。そう言ったマーガレットの顔がわずかに陰ったように見える。母親が亡くなった時のことでも思い出させてしまっただろうか?
「へぇ、うちも母親を早く亡くしたけど、親……父親がそういうこと全く憶えてない人でね。母親が何を好きだったかなんて聞いたこともなかったよ」
軽口を叩いてようやく笑ってくれる。良かった、いつもの笑顔だ。
「もう蝋は溶かして温めてあるから昨日と同じことをするだけだし、何か他に接いで欲しい木があったら持ってくると良いよ」
昨日マーガレットが急にバラをどうにか殖やせないかと言ってきた。この公園を見てどうやら私と同じことを考えていたそうだ。なので、時期的には少し遅いがバラの接ぎ木をしようということになった。
こんなところでフローリスト課にかり出された経験が役に立つとは……つくづく人生何があるか分からないものである。
「昨日トモエがやっていた接ぎ木? っていうのは私にもできるかしら?」
「う~んできなくはないかもしれないけど、今回は台木の数が限られてるから止めといた方が無難かも」
そういうとマーガレットは少し残念そうな表情になったが、変わりに接いだあとの蝋付けを頑張って欲しいと言うと納得してくれた。今回使用する台木はモッコウバラのこぼれ種からできた小さな幼木を使う。ノイバラの近種だからできなくはないはずだ。
とはいえ業者に発注したものではないので不揃いな物が多い。どれだけ活着するかはまだ未知数だ。
私とマーガレットは昨日も作業をした公園内の東屋に向かった。簡単に組んだレンガの炉でごく弱い火を焚き、上に蝋の入った鍋を置いて溶かす。昨日と同じように私が地面に胡座をかくと、マーガレットも昨日と同じように驚く。マーガレット曰わく、この国では女性が人前で足を崩すだなんてとんでもないことらしい。
「それじゃあ、始めるとしますか」
まず、抜いて根元の首が少し残る長さに切って洗っておいた台木の年輪の外側。一層と二層の間くらいに肥後ナイフで切り目を入れる。枝先から葉っぱを三、四枚数えた下辺りの細い枝を切り落とし、葉っぱを落としてマッチ棒くらいの長さにする。
片方の切り口を斜めに、出来るだけ鋭い感じに切る。こうすることで台木との癒着面を多く確保。台木の切れ目に斜めの方の切り口を向けて挟みこみ、手芸用の糸でクルクルと巻く。巻いたらこれを溶かして温めてある蝋にほんの一瞬浸ける。
こうして表面を蝋でコーティングして雨風で折れたり腐ったりしないようにするのだ。これで完成。
あとは小さな園芸ポット……はないので、適当に水が溜まらない小さな物に植え付ける。今回は底に針で穴を開けた玉子の殻を使用した。昨日生ゴミを一緒に漁っていたら、この間のオッサンに見つかって物凄く怒られたっけな。当然私が。
「ねぇ、トモエ。この子たち全部から芽が出るかしら?」
私はその時のマーガレットの声がやけに耳に残った。不安と哀しみがない交ぜになったような、そんな声。だから私は柄にもなく優しい嘘をついた。
「こんなにマーガレットが愛情を込めて作ったんだ。みんな出てくる。私がちゃんとそう言い聞かせておくよ」
本当は、バラの春苗の活着率は他の植物よりも断トツに低い。百本接いでも十本程度しかつかないこともザラだ。
「みんな元気に大きくなって、綺麗な花をつけるようになる」
いつしかマーガレットは泣き出してしまった。
何故マーガレットが泣くのか分からなかったけれど、その亜麻色の髪を撫で続けたのだが……翌日私は何年ぶりかの高熱を出して寝込んだ。疲れが溜まっていたからか泥のように眠る中で、私はもう記憶の彼方にある母の夢を見た。
――ああ、そうだ。
母は春先、庭の片隅に咲く菫の花が好きだった。
だから、庭を――荒らしては、いけなかったんだ。