1-5 小さな通詞と、その弟子と。
おかしい、私は日本人なら誰だってとる行動を取っただけなのに。全くもって理不尽な仕打ちだ。そもそも距離が近い。
私は男前であろうが美人であろうが距離感のない人間が大嫌いだ。
「確かに気にしてくれていたのかも知れないがなあ、こっちは三十一年間そういうことをされたことがないから耐性がないんだよ!」
思わずそう叫んで殴った相手が思っていたよりお偉い人だったなんて知る由もないわけで……。
あの後、何を言っているのかは分からなかったけれど、お世話になっている老婦人があの男に物凄く平身低頭してしまったのは全く予想外だった。
あんまり申し訳なさすぎて、一度は籠もった部屋から飛び出して土下座してしまった。無論、婦人に。
そして婦人はあっさり許して土下座していた私を優しく立たせてくれた。ここまでは何の問題もない良い話だ。しかし、理不尽な仕打ちはこの後だった。婦人は何やらあの男に向かって話しかけ、男の方も神妙な面持ちで頷いていた。
あれから二時間後。一旦家に帰ったはずの男が何故か婦人宅まで私を迎えに来た。そしてそれからさらに二時間後の現在。時刻は十時半をさしている。
『では、これは読めそうか?』
男に目の前にもう何冊目になるか分からない分厚い本を差し出され、辟易しているところだ。今度もチラリと表紙を見つめて首を横に振る。どうやらこの世界にも色々な国や言語があるのだろう。当たり前だが日本語はまだ目にしていない。
私が首を振るのを見て男が肩を落とす。少し疲れてきたらしい。奇遇だな、私もだ。二人で床に座り込みながらもう 二時間もこんな不毛なことをしているのだ。ジト目で見つめると困ったような表情をしている。
ふむ、やはりただの感覚だけれどこの男は私より年下に違いない。
『これも駄目か――』
……あぁ、何か落ち込んでおられる。
通された部屋は図書室と思われる。こっそり連れてこられたお屋敷にも驚いたがお屋敷内に図書室まであるとは恐れ入った。
夢のような部屋の壁面はみっしりと本で埋められていた。これだけある本を読むことが叶うなら私だって嬉しい。表紙や背表紙も美しいが、模様のような文字の羅列も魅力的だ。――本当に読めればどんなに嬉しいか……。
しかしこんなところに私を連れてきてしまって、見つかったらこの男は怒られないのだろうか?
嫌いな奴だがここまで気にかけられるとこっちも少し心配になる。この男がどれくらい偉いのかは分からないが、こんな不審人物を招き入れて怒られないはずがないだろう。
見るともなしに眺めていた本棚の中、私は一冊の本に目を奪われた。金糸で植物の蔓をモチーフにした背表紙。深い緑の天鵞絨で作られたその本はひどく私の心をそそる。思わず手を伸ばして引き抜く。
『何か読めそうなものがあったのか?』
男が何か言って私の手元を覗き込んできた。冒頭でも述べたとおり私は距離感の近い人間が好きではない。が、そんなことはもう大した問題ではなかった。
「……そうか、そうだよ! これなら字が読めなくてもそこそこ分かる! 何で気づかなかったんだ!」
灯台下暗しとは昔の人はよく言ったものだ。
「技術は目で見て盗むんじゃないか!!」
私は本棚から引き抜いた一冊の庭の手引き書を掲げて思わず叫んでしまった。中には剪定の方法が図で記されている。
これをあちらの世界から持ってきた私の本と照らし合わせれば、多少なりとも言葉だって分かる。元の世界に帰ることは叶わなくとも、どこかで雇ってもらって庭の手入れだって出来るかもしれない。
すっかり気落ちして忘れていたが、私は好きなことだけならばいくらでも吸収できる。逆に好きではないことは全く、本当に、全然憶えられないが。
「こういう本、他にもないの!?」
横で面食らっている男に本を指差して喰い気味に尋ねると、やや遅れて理解してくれたのか似たような本を取ってくる。おお、何だなかなか使える奴だったんだな。何だかんだとより分けて最終的に五、六冊集まった。久しぶりに読めそうな本を目の前にしてだいぶ気分も上がっている。
「ありがとうな! 使えない奴だと思ってて悪かったよ!」
自分でも礼が言いたいのか、けなしているのか微妙だとは思ったがまだ初日の暴挙を許したわけではない。そこを忘れてもらっては困る。
ホクホク顔の私に男も軽く微笑んだ。そのあまりの破壊力に思わず「ん、許す!」と言いそうになってしまった脳内の自分を叩き伏せる。男に婦人の家まで送ってもらいその日はそこでお開きとなった。
そして二人してうっかりしていたのだが、普段は静かな図書室。私が上げた声が外に漏れ響いていたのだと分かったのは、それから少し後になる。
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《あらまぁ、ここまでお転婆だとは思わなかったわねぇ。私としましては元気で良いのですが――。旦那様、このままではこの子の為にも良くありません。早急に言葉か文字を教えなければ、ずっとこんなに怯えて暮らすなんて可哀想ですもの》
そう婦人に言われて彼女に本を貸し与えてからすでに一週間が過ぎた。あの日はあの後から急に入った領地内の仕事を片付けるのに追われ、今日まで彼女に合えていない。
ここで少しこのあたりの地理について簡単に述べようと思う。
このセントモーリス領は代々クロムウェル男爵家が治める土地である。国としては小さなイルグリードは、クロムウェル男爵領地のように幾つかの小領主が治める土地が固まって出来た国だ。
その中でもクロムウェル男爵家が治めるセントモーリス領は、小さいが気候の穏やかで農作物が育ちやすい土地柄だ。だが辺境地といって差し支えがないくらいに首都エールグラントから離れている為に、中心で興る物事の情報は二週間ほど遅れることもあった。
この話の中で度々酷い目にあっているスティーブンはその本名をスティーブン・クロムウェル・セントモーリスと言う。
先代のアーネスト・クロムウェル・セントモーリスから男爵の位を継いだ若き領主である。ちなみに叔父のウィリアム・アッテンボローと、その妻エミリーに常々金の無心をされる苦労人だ。
話は戻るが、叔父の元へと送り出したオリバーからの手紙がまだこないのも気にかかっていた。中心に近い場所に家を持つ叔父夫婦の家からであれば、もうそろそろ手紙が届いてもおかしくはない。
こちらから手紙を出してはいるが、梨の礫である。
そして、家族のことだ。考えてみれば彼女と出会ってから過ごす時間は、一日に実の妹と過ごしている時間より多い。スティーブンははたと気づいてしまったその事実に少しの罪悪感を感じた。
執務室に籠もっている間、妹のマーガレットのことは屋敷の使用人達に任せっきりになっている。もともと歳が離れすぎている兄妹だ。歳の近い遊び相手がいないマーガレットは一人きりの時間が多い。
それに極度の引っ込み思案が拍車をかける。たまに近くに立ち寄った知人の兄弟や姉妹が話しかけても子ウサギのように怯えて逃げてしまう。
良くないことだと本人が自覚しているだけに注意もし辛い。それがまたさらに兄妹を他人行儀にさせてしまうのだ。
「彼女の態度が軟化したのは良いが……実の妹にまで怯えられているのは情けないものだな」
ふ、と短く息を吐いて呟くがこれといった良案は何も思い浮かばない。もう兄妹というよりは“叔父夫婦から預かっている姪っ子”くらいに、心の距離が離れているせいもある。
どうしたものかと鬱々としながら、気分転換に敷地内にある庭園を歩いていた時だ。スティーブンは最初、目の前の事態が飲み込めなかった。
彼女は最初に出会った時の服に身を包んで何かの作業をしている。手にはこの間貸した本と彼女の私物である本、スケッチに使われる細い木炭と紙を持っていた。マーガレットはそれに付きまとっているらしく、いつもは血管が透けそうな青白い頬に健康的な赤味がさしている。
時折彼女が木に近付いてその葉を一枚だけむしる。手元の本を台にして葉を置き、その上に紙を重ねて木炭で擦っているようだ。足元にはあの鞄もちゃんとある。マーガレットはその様子を不思議そうに眺めていた。
彼女はチラリとそんなマーガレットを見て、またすぐに採取した葉に意識を戻す。それを本の中に挟むと、また次の葉を採取していく。
『トモエ、それは何をしてるの?』
マーガレットの口から出た言葉に、スティーブンは目を見張った。
『これ? これはね、近種……あー、えっと……私の持っている本に載っているのに似た種族を探しているんだ』
『どうして?』
『どうしてって……あー、近い種類の植物だったら世話のしかたも似ているところがあるから。それを知っていれば便利だしね』
彼女が話し終えるとマーガレットは得心したらしく、しきりに頷いている。けれど驚くことはそれだけではなかった。
マーガレットが急に彼女の腰元にしがみつく。あの人見知りが服を着て歩いているようなマーガレットがだ。まるで甘える子猫の仕草であるが、彼女はとくに気にすることも、かといって邪険にすることもない。
一瞬作業の手を止めてその頭を撫でただけだった。
その後はもう一心に本を片手に葉を採取しては日に透かしたり、折り曲げたり、匂いを確かめたりといった不思議な行動をとっている。しかし要所要所で読めない部分があるのだろう。
開いた本を身を屈めてマーガレットに見せている。頼られたマーガレットは嬉しそうに、同じような記載の箇所を両方の本の中から見つけ出しては彼女に教えていた。熱心に聞き漏らすまいとしながらも、彼女が自身の本にそれら一つ一つの言葉を書き留めていく手は止まらない。
その執念にも似た凄まじい集中力はマーガレットにも伝播するらしく、頬をさらに紅くして熱弁していた。孤独を感じていたのは知っていたが、よもやこのたった数日であれほどまでに外来語を憶えるまでだったとは――。
『トモエ、トモエ、他に何か知りたいことはある? それともお腹が空く頃だから、家の者に頼んで何か持ってこさせましょうか?』
マーガレットはもっと彼女の気を引きたいらしく、一生懸命に何か話しかけている。マーガレットがここまで大きな声でハキハキと喋るのを、スティーブンはこれまで一度も聞いたことがなかった。
こんなところで息を潜めていないでその場に出ようかとも考えたが、自分が出て行けばあの二人はいつものように怯えた表情に戻ってしまう気がして……スティーブンは踵を返すとそのまま執務室に戻ることにした。
しかし戻る道すがら、あの二人は一体どこで知り合ったのだろうかと頭を悩ませることになる。
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「あ~……気持ちは嬉しいんだけど……遠慮しておく」
「あらどうして? お腹が空いていないの?」
「実は……こっちの料理の味が苦手なんだよ。ここへ来てから結構経つんだけど、お世話になってる人にも言い出せなくて……最近はもう果物とジャムとジュースで生きてる感じかなぁ」
頭を掻いて答える。とはいえ、いい加減に食に馴染まねばならないのは分かってはいるのだが。
「まぁ、トモエそれは駄目よ! 貴女が今あげたもの、みんな元は同じ物じゃない。果物だけでは栄養が偏ってしまうわ」
目の前にいる亜麻色の髪にアイスブルーの瞳を持つ透き通るような肌の美少女は、そう言って腰に手をあてる。怒っている、という絵文字の表現みたいで私は少し笑ってしまった。
「笑っていないで、ちゃんと何か食べないと。貴女が痩せていってしまってはお世話をしてくれている人も悲しむわ」
今から一週間前。私に突然歳の離れた友人が出来た。名前をマーガレットという。華の名前の彼女はその名に恥じない美しい子だ。
最初に会ったときは随分とおとなしい子だったのに、今では本来の歳通りの明るさでこうして話をしてくれる。まだ九歳だと聞いたときは驚いたが、地頭が良いのか耳が良いのか。おそらくそのどちらも良いのだろう。私がびっくりするほど簡単に言葉を吸収してしまった。
たぶん世界を超えて来たはずの私に能力値補正は全く付いていなかったが、なる程。チートはここにおられましたか。おかげで私の語学力は恐ろしく拙い幼児程度の筆談が出来るようになった以外ほとんど上がっていないのだが――。
こちらの世界の色々なことを教えてくれ、そのどれもが興味深く面白いので話題も尽きない。日本語をこうしてまた話せる日がこんなにすぐにおとずれるとは思わなかった。
そして、何より嬉しいのは。
「トモエ、聞いているの?」
マーガレットは私の名前をよく呼んでくれる。もう二度と呼ばれることがないと思っていたのに。それがどんなにか嬉しいことだと、私はこの子のおかげで知ったのだ。
「うーん……食材の状態でなら何とかなりそうなんだけどね」
「トモエはお料理ができるの?」
あ、意外そうな顔をしている。素直なその反応にまた笑ってしまう。小さな友人は頬を膨らませて私を睨んだ。
「料理ができる! というほどはできない。普通に食べられる程度の物なら作れるけどね」
言ってしまってからまずったと思う。これではまるで“お前の国の飯は食い物じゃない”と言っているようではないか。思った言葉を心にしまっておけない三十一歳、元社会人。
「……じゃあ、材料とお世話をしてくれる人の家ではないキッチンがあれば良いのね?」
機嫌を損ねるかと思えば、マーガレットはそんな意外な提案をしてきた。予想の斜め上な反応にほぼ条件反射で頷く。
「それならなんとかなりそう。そのかわり、作ったお料理を私も食べさせて欲しいの。貴女の国の言葉と同じくらい興味があるわ」
「それは別にかまわないけど……期待されるようなものはできないよ?」
マーガレットはたぶん間違いなく良いところのお嬢さんだ。端々に登場する使用人だとか。今日の装いにしたって布地の種類に疎い私でも分かるほどのドレスだからね。
苦笑混じりにそう答えた私に向かってマーガレットが輝く笑顔を向けてくれる。ん、この感じ――最近どこかで感じたような気がしないでもない。頭の中を探ってみたらなぜかあの男の顔が浮かんだ。そういえば本を回収に来ないようだけど何かあったのだろうか?
あの日以来すがたを見せない美丈夫と、あの日から現れた美少女。
「もしかして性別変わったの?」とはさすがに聞けなかった。いくら何でもありな転移のしかただったからといって、こちらの世界でも良くあることかは分からないのだし。
頭がこれ以上おかしな人間だと思われたいわけでもないので今度こそソッと心にしまう。
その時だ。ブワリと春の嵐が巻き起こる。チューリップや、ムスカリ、クロッカスなどの花々を次々と撫でた春風は、そのまま駆け抜けてトピアリーの動物たちを震わせる。
バラのアーチの近くに立っていた私たちの足元には散り始めたモッコウキバラの黄色い花弁が波のように打ち寄せられてきた。ほんのりと春の日差しを染み込ませたような花弁は蝋梅の花弁よりも薄くてさながら光の漣といった鮮やかさだ。
時々混じっている薄紅色の花弁はロサ系品種のバラだろう。あれはたまに日本庭園でも植わっているが、みっしりとついた細かな棘が本当に痛いのだ。
そういえばこの庭園はイギリス式であるようなのにバラの数が少ないような気がする。疑問に感じたが、とはいえ美しいものは美しい。
「それにしても――本当にこの公園は綺麗だ。いつ来ても人がいない穴場だし。このあたりの人は見慣れているのかもしれないけど、勿体ないよ」
「ね?」と同意を求めたマーガレットの表情が何故かほんの一瞬固まったような気がした。