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1-4   悩むのは止め……ないけど。



 何となく部屋に居づらくなってしまったスティーブンは、少年もとい、彼女を残してソッと部屋を出た。廊下にはオリバー婦人が心配そうな顔で立っている。恐らくずっとそこにいたのだろう。手にはミルク粥を載せたトレーを持っていた。


「あの子の様子はどうでしたか? 食事をとれそうな状態でした?」


「いいや……今は、その……泣いている」


「まぁ、無理もありませんわ。可哀想にさぞかし心細いことでしょうねぇ」


 オリバー婦人は小柄でふっくらした身体をした老人である。心根もその姿と同じく柔らかくて温かい女性だ。


「それに目が覚めてから水以外ほとんど口にしていないものですから、私と夫も心配しているんですの」


「それは初耳だ。三日も何も食べていないのか?」


「いえねぇ、スープを匙に一すくいだとか、パンをほんの一かけだとかは口にしてくれるんですけれど……。あれでは食べているうちに入りませんもの」


 「困ったものですわ」と婦人は言うが、それは結構大事のように思える。そういえば確かに最初に会ったときよりも、頬のあたりが痩けていたように見えた。


「医者は何と言っていた?」


「心の問題だから無理に勧めても食べないだろう、とのことでしたわ」


「何を暢気なことを……」


 スティーブンは苛立ちを隠せずに思わず舌打ちする。当主としてあまり褒められた行為ではないが、婦人は気にした風もない。


婦人の方でも医者の見立てに不満があるらしく、一緒になって眉間にシワを寄せている。しかし年の功というべきか、婦人の切替は早かった。


「そんな状態でミルク粥は難しいかしらね。果物でも剥いてあげましょうか。それはそうと旦那様、お時間の方は宜しいのですか?」


「ああ……そうだな、そろそろ屋敷に戻る。すまんがもうしばらく世話をかけることになりそうだ」


「かしこまりましたわ。それに――私も夫も子供がおりませんから、こんなことを言ったらあの子に申し訳ないけれど嬉しいんですよ。ですから旦那様が謝られることはございません。むしろこの老夫婦に子育ての楽しみを与えて下さって、感謝しておりますわ」


「――そう言ってもらえるとわたしも助かる。勝手に叔父上にオリバーを連れて行くことを承諾してしまったうえに、身元不明人の引き取りまでさせてしまった。前にも増して頭が上がらなくなったな」


「そんな、旦那様。私ども夫婦は先代様や奥様には大変よくしていただきましたもの。まだまだお返しできていないのはこちらの方ですよ」


 コロコロと楽しげに笑ってそういう婦人を見ていると、スティーブンも子供の頃を思い出して口元を綻ばせた。この婦人はいつもこうして人を笑顔にさせる。いつも仏頂面のオリバーと対にするとちょうど良い。

 

 あの日はなにぶん急な事だったし、まだ身元も安全性も分からない人物を、マーガレットや叔父や使用人達のいる屋敷に連れ帰ることも出来なかった。また叔父に知られれば面倒なことになりかねない。いや、確実になるだろうことは容易に想像ができた。

 

 かといって手荒な真似をしてしまった事実は心苦しい。口が固くて信用できる人物ともなれば、屋敷に古くから仕えてくれている馬丁のジョンか、園丁のオリバーしかいなかった。


 しかし村から通っているジョンに預けるのは気が引けたため、屋敷のすぐ傍に住んでいるオリバー夫妻に預けたのだ。


 そしてそれは間違いではなかった。まぁ、夫妻に預けた翌日に報された性別にも大変驚いたのだが……。スティーブンは自身の人選が間違いではなかったことにひとまず胸をなで下ろした。


「もしもオリバーがいない間に何か困り事があれば、いつでも屋敷を訪ねてくれ」


「はい。かしこまりましたわ」


 今度こそ屋敷に戻ろうとその長身を翻した時だった。


「あ、そうですわ、旦那様。あの子のこめかみにある痣の手当てを夫がしようとすると、酷く嫌がるんですの。身体にもいくつも痣がありますし……何かご存知ありません?」


 その言葉にギクリとする。身体の痣は知らないが、間違いなくこめかみの痣には心当たりがあった。うっかり伝え忘れていたバツの悪さに一瞬言いよどんでしまう。そこを「お心当たりがあるのですね?」とたたみかけられた。


 「実は……」と切り出したスティーブンに滅多にない婦人の雷が落ち、当主であるにもかかわらず、傷が癒えるまで彼女への接近を禁止されてしまったのだった。



*******



 早いもので私がこちらに来てしまってからもう十日が経った。もちろん言葉も文字も依然として理解できない。


 四日目にはお世話になっている老婦人が家の近くにある広い公園の散歩に誘ってくれたのだが、これがまた見事なイングリッシュガーデンだった。たぶん塞ぎ込んで食の細っている私を気遣ってくれてのことだろう。


 バラのアーチがいくつか巡らされ、噴水には鳥が集い、実は少し憧れでもあった東屋もある。中でも特にトピアリーの細かさに驚いた。確かに一つにそれもあるのだが、このあたりの食事がどうにもなぁ。


 どうやらここは元の世界で例えるとイギリスに近いらしい。そしてイギリスと言えば有名なのが……とにかく、食事が、口に合わないのだ。


 米を牛乳で炊くのも、大麦を含む雑穀のビスケットもどきも、何でもかんでも揚げるのも、日本人にはハードルが高すぎる。だいたい何でプリンの中に肉を入れるんだ!? あと、ソース類もかけすぎで、素人目にも“素材の味とか良いの?”と言いたくなるのだ。


 ここに飛ばされてくるまでは割と濃い味付けが好きだった私も、さすがにあっさりとしたものが食べたい。普通に卵粥とか、そういうのが。


 もう一つには、人間は絶対に慣れた生活時間に合わせて行動してしまうものなのだと悟った。


 ――そんなわけで、私の腕時計はまだ五時をさしている。


「元の世界にいる頃だったら遅刻だな……」


 家から職場までは片道一時間半かかった。ここではそんなことが関係ないと分かっているのに身体が勝手に飛び起きてしまう。昨日までは鳴っていた携帯のアラームも、今朝見たら充電切れで止まっていた。


 この時計もいつまで電池が保つのか分からない。しかしもう私はあちらの時間を生きる必要がなくなってしまったのだ。


「これがただの休日なら最高だったんだけどなぁ」


 私は今、ろうそくの灯ったランプを手に一人で教えてもらった公園の中を歩いていた。ここ数日ですっかり日課になっている。道具袋とオッサントートバッグも一緒だ。


 老婦人が用意してくれた洗いざらしのコットンシャツとズボンはすこぶる着心地が良い。空はまだ暗い。優しい老婦人はまだ眠っていることだろう。


 朝の空気の冷たさを胸に吸い込んでみても、懐かしい日本の植物の香りはしない。


「向こうだと沈丁花が終わって雪柳が咲きだす季節か」


 一般の人は日本庭園に香りは少ないと思っているかもしれないが、実際はそうでもなかったりする。


 季節の花の香りは勿論、朝早ければ苔の香りや土の香り、葉に残った朝露の香り、古い樹皮の香りに、思わず背筋が伸びるような針葉樹の濃い緑の香り、枯山水の石の香り――。


 朝の日本庭園は昼の静けさに比べて存外お喋りなのだ。


 ここに来て気付いた最後の一つは、私は仕事が好きだったらしいということだ。語弊があるといけないので細かくいうと、会社は大嫌いだったが、樹木を剪定したり庭の掃除をしたりするのは好きだった。


 たぶん、大好きだった。だから高校もあんな田舎に片道二時間もかけて通ったのだ。


「なのに、イングリッシュガーデンなんだもんなぁ……」


 苦笑混じりに誰に聞かせるでもなく漏れた言葉が、胸を抉った。こんなことで傷つく自分が情けない。今さら気付くのも情けない。肩にかけた道具達もきっと呆れているだろう。


 昔から人と話すのは苦手だ。


 でも人と話せないと社会から弾かれてしまう。

 

 ならば、話せないでも自信を持てるような技術を手に入れたい。

 

 そうだ、無口でも仕事が出来れば文句を言われなさそうな職人になろう。

 

 それでどうせなら、家の荒れた庭を手入れ出来るような庭師になりたい。


 ――そうすれば……。


 そうすれば私はどうなれる気がしていたのだろう?


「――報われる気でいたのかよ」


 嘲るように出た言葉。傷つけるだけの汚い言葉だ。きっと優しい言葉をかけてくれているあの老婦人と、私の言葉が通じなくて良かった。


「まぁ、ウジウジ悩んでるだけの居候からはそろそろ脱しないとな」


 うん、と大きく延びをする。悩むのを止められるわけではないけれど実際そろそろお世話になりっぱなしなのは心苦しい。気合いを入れるために両頬を力一杯叩く。ここ数日でこめかみの痛みと腫れもようやく引いた。


 そういえば何故かは分からないが、あの屈辱の姿を見られた日からあの男を見ない。正直どんな顔をして会えばいいのか困っていたので助かるが。ふと時計を見てみると、色々と考え込んでいるうちに結構時間が経っていたようだ。


「ん、もう六時か。そろそろ、帰るかな」


 あの世界にではないし、ましてや自分の家ですらないけれど。私は踵を返してお世話になる老夫婦の家へと向かった。



*******



 昨日ようやく婦人から面会のお許しが出たので、今日あたりにでも様子を見に行こうと思っていた矢先。まだ朝の薄暗がりが残る中「オリバー婦人が旦那様をお呼びなのですが……」と執事が部屋にやってきたのだ。


 慌てて身支度をすませて呼び寄せた婦人の口から彼女が荷物を持って消えたと聞いたときは一瞬、周りの時間が止まった。


 捜索に出ると言うスティーブンを婦人は待つようにと押し留めた。「もしも明るくなり始めても戻らない場合はよろしくお願いします」と言った婦人にそのわけを尋ねても「信じるしかありません」と言う。


 果たして、空の端が薄明るくなり始めた頃――。


「旦那様! あの子が帰ってきましたわ!」


 婦人の声を聞きつけてスティーブンはいちもにもなく外に飛び出す。戸口では婦人がランプを掲げて薄暗がりの中に見える彼女を呼んでいる。


 彼女の方も婦人に気付いたのか、自身の持っている小さなランプを左右に振りながら近付いてきた。


 中から飛び出してきたスティーブンに「くれぐれも叱らないでやって下さいませ」と釘を刺すと、婦人は彼女の方に歩いていく。


 しかし叱らないのかと思っていたら、その皺の深い手で彼女の頬を摘まんでいた。彼女も心配をかけたと思っているようで、頭を掻いてそれを受け入れ、時折笑みらしいものまで覗かせている。

 

 たった十日のことなのに、言葉の通じない二人はまるで仲の良い祖母と孫のような関係性を築いていた。婦人に促されるままこちらへ歩いてきた彼女だったが、戸口にスティーブンの姿を見つけるやその場で固まってしまった。


 それはスティーブンも同様で、互いにどう対応すればいいのかまるで分からないといった姿に婦人が苦笑している。


 背中を押されてノロノロとこちらにやってくる彼女は先ほどまでとは別人のように無表情だ。何故こんな早朝に、どこへ行っていたのかを尋ねようにも彼女とは言葉が通じない。


 ついにスティーブンの目の前へと婦人に押し出された彼女は、居心地悪そうに俯いている。スティーブンは無駄と知りつつ言葉をかけようか迷ったが、言葉をかけるよりも先にすべきことがあったことを思いだし、断りも入れないまま彼女のこめかみにかかる髪を指で持ち上げた。


 次の瞬間。それまで小さくなっていた彼女は切れのある拳を左わき腹に叩き込んで何かを叫ぶと、突然の強襲に膝を折ったスティーブンを押しのけて婦人が止めるのも聞かずに部屋に立てこもってしまったのだった……。


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