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***** 02



「――アイザック」


「何でしょうか、旦那様?」


「お前は結婚という契約についてどう思う?」


「はい?」


「結婚についてお前の意見を訊かせてくれ。簡潔にだ」


 執務室に本日の書類を持ってきたアイザックを捕まえたのは、もう一人で悩むにしても八方塞がりだったからに他ならない。いつもなら絶対に有り得ない人選だが今は選り好んでいる暇がなかった。


このままでは仕事が手に着かない。だが意を決して訊ねたにも関わらず、その返事は芳しくなかった。


「旦那様、申し訳ありませんがわたしも妻帯者ではありませんので、その質問にはお答えしかねます」


 苦虫を噛み潰したような表情でそう答えるアイザックに、思わずスティーブンも似たような表情を返す。


「そうか……おかしなことを訊いた。忘れろ」


 力なく手で下がるように告げたスティーブンの前から、アイザックは動こうとしない。立ち去らないアイザックにスティーブンが視線をやると、彼は何事か考えている様子だ。


 いつも冷静なその顔には理知的だがともすれば酷薄な印象が強い。そんなアイザックが眉間に深い皺を刻んでいるとなれば、屋敷中のメイド達が一斉に逃げ出す事態の前触れである。


 相変わらず神経質で硬質な声だとスティーブンが思っていると、アイザックは非常に躊躇いながら言葉を続けた。


「旦那様、それはトモエに関する質問と捉えてもよろしいでしょうか?」


「そ、うだが……」


 アイザック相手に動揺することなど仕事上ではほとんどない。しかしこと彼女のこととなれば藁にもすがる思いなのだ。屋敷内での階級などはこの際二の次三の次である。女心の分かるものであれば誰でも良いというのが、今のスティーブンの心境であった。


「左様でございますか。しかしあれは使用人でございます。そこのところはご理解頂いておりますね?」


「そうだな。だからどうだと言うのだ?」


 瞬間、室内の空気が張り詰める。スティーブンが本来纏うこの空気を、彼女は知らないに違いない。それくらいにトモエといるスティーブンは多少融通が利かなさそうではあるものの、穏やかな青年に見えるのだ。


「いえ、ご気分を害されたのであれば申し訳ありません。ですがそうではなく、責任を取られる覚悟がおありになるのかと思いまして」


「……責任?」


「愚考ながら申し上げますが、ただ傍に置きたいのであれば、何も彼女を妻にせずとも今の関係性のままでも良いのではないでしょうか?」


「――続けろ」


 底冷えする声にアイザックが居住まいを正す。先代に良く似たその声音は未だにアイザックの知るこの屋敷の姿を脳裏に描かせるに足る威圧感だ。


 真向かいに座るスティーブンは最早さっきまでの御しやすそうな雰囲気を微塵も感じさせなかった。その変わり映えにゾクリとする。彼女といるときであればクルクルと良く変わる表情もまた、アイザックの良く知る先代にそっくりだった。


「先代様と奥方様も身分に差のある者同士のご結婚でした。その時にも、わたしはこうして反対をさせていただきましたが、聞き入れられることはありませんでした。ご結婚なされた当初はお二人もとても幸せそうで、わたしもただの杞憂であったのかと思ったほどです。けれど―――」


 どこか芝居がかったアイザックの語りが、次の言葉を予想させる。


「結果は、旦那様が一番ご存知のはずではありませんか? 身分の違う者同士が惹かれ会ったところで本当に幸せになれるでしょうか? 答えは否です。厳しいことを言うようですが、生まれ育ちはどうにもなりません。その差も、有り様も生まれた時から決まって―――」


「黙れアイザック!!」


 ダンッ! と拳で机を叩きつけたスティーブンがそう叫ぶと、アイザックはスッと一礼して涼しい顔のままその場に待機する。


「……もうお前に用はない。下がれ」


 嫌味なくらいに折り目正しい一礼をもう一つ残して、アイザックは部屋を後にした。一人取り残されたスティーブンは、どうしようもない胸の内が治まるまでジッとアイザックが去ったドアを見ていた。



*******



 ついこの間来たと思っていたベリメももう終わりかと思うと、一年の流れというものはあちらもこちらも変わらず早いものだ。そう考えると何となく感慨深い。今日は昼からスティーブンと遠乗りに出かける約束をしている。


 朝に少しオリバーさんの仕事を手伝って、エマさんと昼食を一緒に食べた私は、約束の使用人食堂から少し離れた場所でスティーブンが来るのを待っていた。


「お、スティーブン! こっちこっち!」


 待ち人の姿を久し振りに見つけた私は大きく手を振る。久し振りと言ってもほんの三日ぶりくらいなのだが……最近引っ越して一人住まいに戻ったせいか妙に寂しく感じることがあるのだ。


「あぁ、待たせてしまったか。俺から誘っておいてすまないな」


「良いよ私もちょうど今来たところだったし」


「それなら良かった。待たせている間に何かあると心配だからな」


「――――……」


「トモエ?」


「ちょ、ちょっと待ってろ。今こっち見るな」


 いきなり頬に血の気が上がったのを悟られまいと、スティーブンから距離を取る。何だ、いったいどうしたんだ私の身体は。この一瞬のやり取りだけで動悸息切れが半端じゃない。


 今のはただ単にまだ絶好調ではない体調を気遣われただけで、別にそれ以外の意味とか……いやいや、それ以前に“それ以外の意味”って何だ。


「トモエ、せっかく一緒にいる時間ができたんだ。大丈夫ならそろそろ出発しないか? それともやはりまだ体調が思わしくないか?」


 この無意味に良い声なのがまた……というか。


「お・ま・え・は! だから近いんだってば!!」


 すぐ間近にその顔があって心臓が馬鹿みたいに跳ねた。マズい、この不整脈は何かの信号か? この間の後遺症とかだったらどうしよう?


 傍目からも分かるくらいにテンパっている私から、それでもスティーブンは離れない。このままでは心臓が保たない! と思った時だった。


「旦那様、もうそのへんで勘弁してやったらどうです? それ以上近付いたらトモエの奴失神しますぜ?」


 天の救いかと思ったらそこにいたのはただのジェームズだった。というか見ていたんならもっと早く止めてくれよ……。


「失神? やはり体調が優れないのか?」


「ち、違う違う! そうじゃなくて、」


「そうだよなぁ、違うよなぁトモエ?」


「う、うるさいぞジェームズ。外野は黙ってろよ」


 ニヤニヤと気に食わない笑い方をしているジェームズを一喝しようとしたのに、声が裏返って情けない声が出てしまった。それを聞いたジェームズがさらにニヤニヤ笑いを深くする。


 ……嫌な予感しかしない……。


「だよなぁ、トモエは随分先にここに―――」


「わああああああ!?」


 予感が的中した私は、思わず最後まで言わせまいと声を張り上げて無理やりジェームズの言葉の先を制した。ついでに“このくそ野郎”という目で睨み付けるも、隣ではスティーブンが驚いた表情を浮かべて固まっていた。


「トモエ、本当に大丈夫なのか?」


「大丈夫って何だよ。私はどこもおかしくないってば」


 自分で言っていてどんな下手な嘘だよと思ったが引っ込みがつかない。だったらここはもうこの勢いで行くしかない!


「ジェームズなんか放っといてさっさとジョンさんのところに行くぞ!」


 そう言ってスティーブンの手を握って引っ張ったら――スティーブンが動かない。どうしたのかと思ってスティーブンの顔を見たら、何故だかこっちも私並におかしかった。


「顔色、それ大丈夫なのか? 真っ赤だけど熱でも――」


 あるのかと思って手を伸ばしたら避けられた。ううむ、こちらもよく分からん状況らしい。しかしだったらその方が返って安心するというものだ。


「ほら行くぞ、スティーブン」


 今度は素直について来る。そのままジェームズに親指を下に向けるポーズをとって足早にその場を後にしたが、あのポーズが果たして通じたのかは分からない。



*******



【お兄さまお元気ですか? わたしの方はようやく学校にも馴染み始めて、お友達も少しずつですが出来てきました。お兄さまもその後なにか進展はありましたか? 早くトモエを“お姉さま”と呼びたいです】


 妙な圧力を感じさせる締めくくり方に、少しマーガレットの執念が垣間見る。歳が離れていても兄妹揃って好みが似ているのかもしれない。


 とはいえ急かされても困るだけで、所詮人の心などは互いが惹かれ合わないとどうにもできないのだ。しかし思い過ごしでなければ、最近彼女の方でも意識してくれている風がある。まだ飽くまで可能性の段階ではあるのだが。


 それにアイザックの口にした苦言も分かる。けれどだからといって諦める気など毛頭ない。意識してくれている今が勝負どころなのは間違いないのだ。青い春を逃した人間にとって、この問題はこれ以上先送りにしていては消滅する危険がある。


 彼女の気持ちも大事にしたいが、さりとて自身に初めて芽生えた恋心も優先したい。そんな相反する感情に一人悩むスティーブンなのだった。


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