1-3 続・そこは仕様にしといてくれよ。
私はつい数秒前に自分の取った浅はかな行動を猛烈に反省していた。突然大声をを上げた私の喉元に突きつけられているのは、美丈夫がその腰から抜き放ったやや大振りな狩猟ナイフだ。
たった瞬き一つの間に馬上にあったその顔が息のかかる距離にある。そういえば職場で軽業師みたいに脚立から降りてくる同僚がいたなとか、本能的な恐怖から逃れようと現実逃避をしてしまう。
馬上にいた時は黒目黒髪だと思ったけれど、近くで見ると髪は昔、馬鹿親父と花見がてらに出かけた競馬場で見た馬の色に似ている。光の加減で青黒く見えるし、瞳も灰がかった青だ。
彫りが深くて嫌味なくらいに男前だが、気になるのはそこではない。
この、喉元のナイフ。私がほぼ現代の庭造りにおいて必要ないが、主に趣味を満たすために揃えた剣鉈より見劣りはするものの、人を一人殺すには申し分のない殺傷力を持っているだろう。この状況に陥ると分かっていれば家に置いてきたりしなかった。
とはいえ、刃の作りが全体的に甘い。火入れの方法か、使用されている鋼の違いか。いかにも粘りが足りなさそうな刃だ。私が持っている刈り込み鋏を開かずに横撃を加えれば折れるのではないだろうか。
改めて日本の冶金術は凄い。現実逃避と趣味の延長からそんなことを考えていたら喉元からナイフが離された。
敵意がないのが伝わったかと安心しかけたその時。ああ……柄は良い材質だったのだな、と。私は自分のこめかみで思い知ることになった。
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いきなり近距離で叫ばれたのには面食らった。馬はがたいの大きさのわりに耳が良く、大きな音を嫌う。
バーラムは勇敢な馬だが、もしも驚いて立ち上がりでもしたら今頃この不審人物の命がなかっただろう。とっさの事とはいえ、気が付けば喉元にナイフを突き付けてしまっていた。
相手は怯んだのか一瞬大人しくなったが、それでも次に叫んだ場合はさすがのバーラムも嫌がるだろうと思い、スティーブンは多少粗っぽいが物理的に封じることにした。
「いったい何者なんだこいつは……。叔父上の次は不審人物か。まったく、今日は厄日だ」
厄日度合いで言うのなら恐らく今ぐったりとしている人物にしてもそうだ。よくよく見ればこの国の人間ではない顔立ちをしている。何と言うか……。
「随分と彫りが浅い顔立ちだな……」
個性がない。なさすぎて返ってこの国では浮くだろう。よく日に焼けた浅黒い肌はこれまでにも見たことがあるが、みな顔立ちはくっきりとしていた記憶がある。それに意識を失った不審人物の顔は、よく見てみればまだ幼さを残す少年だった。
間近に見た時は勝ち気に見えた黒いつり目も、今は閉ざされている。短い髪はこの国では珍しい混じり気のない黒。癖が強く、硬い。抱きかかえた身体も薄く、ぐったりと全体重をかけているはずなのに軽い。
服は粗悪な布で作られた妙な留め具のついた上下。これはお仕着せだろうか。身体のサイズにまったく合っていない。それにしても相当必死にここまで来たのだろう。泥と汗にまみれた酷い姿だ。
言葉もまったく解さないところからスティーブンが導き出した答えは――。
「……奴隷商人から逃げてきた異国の子供か?」
だとすればゆゆしき問題だ。奴隷商人が領内に入り込んできているなどということはあってはならない。脳裏に屋敷に残してきたマーガレットの顔がよぎった。
さっき出会った時を思い返す。叫ぶ前、少年は何か必死に訴えていた。それを不審人物だからといって、怯えている子供相手に随分手荒な真似をしてしまった。屋敷で叔父にあれだけ無能さを感じて憤ってさえいなければ――。
「違う、そうじゃないだろう……」
一瞬でも人に責任を押しつけようとした自身に嫌気が差してそう一人、呟く。すると腕に少年を抱きとめたまま動きを止めていたスティーブンの背中にドン、と衝撃が走る。
「どうした、バーラム」
愛馬に背中を小突かれたのだと気付いてのろのろと振り返ると、鼻面が間近にあった。大きな馬体に似合わず穏やかな目をしたバーラムを見ていると、スティーブンの心もまた穏やかに凪いでいく。
その穏やか目をした愛馬がしきりに前方の、少年が立っていたあたりを気にしている。促される形でスティーブンもバーラムの視線を追う。
あれは、少年の荷物だ。スティーブンは愛馬の意図を汲んでその瞳に頷いて見せる。そっと地面に少年を寝かせ、意識のないその耳に「すまないが荷物を確かめさせてもらう」と告げた。
小柄な少年が持ち運ぶには大きい袋が二つ。一つには茶色い液体が入った容器が二本と何かが入っていたらしい空の器。残された匂いからして恐らく食べ物が入っていたのだろう。
それに分厚い本が一冊。開いてみたが文字が読めず、何が書いてあるのか分からない。しかし頁をめくると端々に小さく走り書きがされている。植物の図が多いが、この国にあるものとは少しずつ異なっていた。
もう一つの袋には何と刃物が入っていた。形は様々であったが、中には見たことがある形もあった。
いや、似ているだけで用途が同じであるかはまだ分からないが、これは持ち帰って似た道具を使っていたオリバーにでも聞けばいいだろう。他には表面が滑らかな石と、ザラザラとした手触りの石などだ。
これらを持って少年がどこに逃げようとしていたのかは分からないが、せめて連れ帰って目が覚めるまで保護しなければならないだろう。
「すまんバーラム。帰りは少しお前に負担をかけそうだ」
主のスティーブンにそう言われたバーラムは、お安いご用だとばかりに鼻を鳴らした。
*******
寝起きは最悪――というわけではなかった。正確には寝起き“は”最悪でもなかった、だけれど。
よくよく考えてみればここ一月まともな休みは全くなかった。皆無だ。最後にカレンダーを見た時は十九連勤目だった。
一日の労働時間が十五時間だったから、と。こんなところまで来て考えるのはよそう。とにかく前向きに捉えるならば久し振りにしっかり睡眠がとれたといえなくもないわけだ。
とはいえ――。
「はああぁぁ~……」
何度目になるか分からない深いため息を吐いて硬いベッドの中から見る天井は、ここへ来て三日経つが、未だに私の部屋の雨漏り後がある天井ではない。この三日だって私が目を覚ましてから日が昇って、沈んだ回数を数えただけで、今日が実際こちらに来てから何日目であるのか分からないのだ。
「いい加減に夢なら覚めてくれよぉぉぉ~……」
三十一歳の女にはこの現実がまだ受け止められない。受け止めたくないと言った方が正しい。私がまだ十代なら初日の男を王子様だと思えたかも知れないが、今はそんな出会いよりおいしい飯と酒が恋しい。
あと、これが何よりも私を落ち込ませている原因だが、言葉が理解できない時点で嫌な予感はした。でも実際見た時の絶望感といったら――!!
目覚めたばかりの私に、このベッドを貸してくれている老夫婦が筆談を試みてくれた。どうやら傷の手当てと着替えまでさせてくれたらしい。
ただ、手当してもらった傷の殆どは元の世界にいたときに現場でついたもので、こめかみと肩の鬱血あとに貼ってくれた湿布薬? だけがこちらでの傷といえる。
優しそうな老夫婦はもうずっと昔に亡くなった母方の祖父母に似ていた。馬鹿親父の方は行方知れずだ……と、話はそれたが、幸い製紙技術はあるのか羊皮紙や竹かんではなかった。ペンとインクも普及している。しかしそこに書かれた文字が……読めなかったのだ。
一応綴りの形を見もした。少し、ほんの少しだがアルファベットに似ている形の物もあるにはあったし、当たり前だが法則のようなものもちゃんとあるらしい。ただ、分かったのはそれだけだった。
そもそも英語だって読めないし書けない。日本でしか生きないと思っていたから覚える気がなかった。今、それを猛烈に後悔している。
「本が……本が読みたい、漢字、平仮名、カタカナどれでも良い。読める文字なら」
それに初日に一撃入れられたこめかみがまだ痛む。樫の柄で人の頭を殴るとは正気か、あの男は。
「あの野郎、絶対許さん」
思わず低い声で呪いの言葉を呟いていると、ここ三日で顔馴染みになりつつある来訪者が現れた。
『やっと起きたのか。今日の体調はどうだ』
そうお前だよ、と声には出さずに毒づく。どういうわけだか初日に私を殴りつけたこの男は、毎日こうやって朝の数分だけ顔を出す。私は顔を背けて男の声を徹底的に無視する。
と、いうよりも本当に理解出来ない。通じないのだ。異世界に生まれ変わっていない私はどうやらこの世界の言葉がまったく聞き取れない。
確かに道理ではあるけれど厳し過ぎやしないかと思う。付け焼き刃な知識ではあるが、言語を覚えるには幼少期をそこですごすのが大切だと聞いたことがある。ならばせめて十代であればギリギリ片言くらいは喋れたかも知れないと思ってから、それもないなと考え直した。
あちらの世界にいた頃からあまり頭の出来は良くなかった。高卒で専門職。これで学力社会によくも飛び出せたものだ。高校時代に中学の同級生と偶然会った時、英語と数学の教科書が二冊あると聞いて驚いた。
私の高校にはどちらも一冊しかなかったのだ。あの話をした時の同級生の顔が今も忘れられない……。
そもそも本が好き=頭が良いという世間の思い込みはどうにかならないものだろうか。とかなんとか考え込んでいたら。
『まだ痛むのか。それとも怒っているのか?』
低い深みのある声で懲りずに話しかけ続けている男は、一瞬悩むそぶりを見せてから私のベッドの傍に置かれた椅子に腰掛ける。
その忍耐強さを初日に発揮してくれれば、私の心もここまで頑なにはなっていなかっただろうに 。ジッと見つめてくる灰がかった青い瞳をこちらも見つめ返す。“早く失せろ”との思いを込めて。
だがまぁ、それにしても男前だ。樫の柄で女を殴るような奴は好みではないが。あぁ、でも女に見えなかったのか。それは否めないし仕方がない。
それにこの距離で見て感じたのは、この男はもしかして若いのかもしれないということだ。白人系外人の年齢を外見ではかるのはアジア系には難しいが、もしや私より年下なのか?
『どうした? 何か伝えたいことがあるのか?』
――駄目だ、さっぱり分からん。
これ以上見つめ合っても有力な情報が得られそうにもない。私は再び男から顔を背けようとして、目端に映ったオッサントートバッグと道具袋を指差した。男に視線で“持って来い”と促す。
『あれをとって欲しいのか?』
何を言われているのかはさっぱりだが、とにかく通じたらしい。椅子から立ち上がって汚い私の鞄をベッド脇まで持ってきてくれる。
そうか、ボディーランゲージと言う手があった。これは使わない手はないが、ひとまず用事はそれだけだ。男に軽く会釈してそれらをベッドの上に引き上げようと手を伸ばす。
その動きだけで察してくれたのか、今度は何も言わずにそれを引き上げてくれた。私はもう取り上げられまいと鞄を抱きしめる。すると情けない、まったく情けないことに涙が零れた。三十一歳にもなって人前で泣くなんて有り得ない。
悔しい、腹立たしい、怖い、やるせない、心細い、それに……寂しい……。
唇を噛み締めて必死に声を上げまいと堪える。誰が泣くか、こんな異世界の、しかも人前で。そう強がってはみても、どうやら私は自分で思うよりずっとこの現状が堪えていたらしい。
涙は後から後から沸いてくる。男が戸惑っている気配がしたがどうしようもない。私は鞄ごと自分を抱きしめるようにして泣き続けた。道具類が中で擦れあって金属音が耳に響く。
もう私にはお前達しかいない。言葉も文字も分からない、同じ地球かも分からないこの世界で。そう思えば思うほど、前よりもずっと道具達を愛おしく感じた。
そうしている時間が長かったのか、短かったのか。再び顔を上げた時、男の姿はどこにもなかった。