最終話 彼女の庭。
ついに最終回です。
ですが、まぁ……もうこのフリでお分かりですよね?(^ω^;)<エヘ☆
安心して下さい!ハッピーエンドですよ!
その庭を一目見たとき「驚いた」とたった一言だけの感想を口にしたら、彼女は少し不満げに眉根を寄せた。もしかすると簡潔すぎる表現にそう喜んでいないと思われたのかもしれない。
ただ彼女が勘違いしているとすれば、スティーブンの驚きは表面的な部分に出せないところで今にも爆発しそうになっていたのだ。
今日はヘクトの八十八日(十二月二十八日)。巷では聖誕祭まで後二日、屋敷ではスティーブンの二十七歳の誕生日だった。
「あの赤レンガをわざわざこのためだけに使ったのか?」
葉の一枚もない細い若木が植えられた庭の中で、一カ所だけ色のある絵がそこに広がっている。
「そうだけど……思ってたより感動が薄いな」
わざと口をへの字に歪めてそう言ってみたものの、きっと彼女も本当はその心境を分かっている。この場所に案内されてからこの一時間、スティーブンはずっと庭の入口で立ち尽くしていたからだ。
「まぁ、無理もないか。こんな庭じゃあまだどんな形になるのか見当がつかないもんな。でも自己満足に付き合わせて悪いけどさ、私の時にあれだけ頑張ってくれたから――私もお前を全力で祝ってみたかったんだよ」
そう言ってから照れ隠しのつもりなのか「土地はお前の家の持ち物だけどな!」と笑った。それからスティーブンの前に回り込んだ彼女は急に口調を改めてこう言った。
「旦那様、これが私の今の精一杯の技術で仕上げた庭でございます。どうぞここより先は夢現と思ってお楽しみ下さいませ」
グッと低く頭を下げて腰を折る。腰に握った両手を当てて取られた礼はこの国のものではない。おそらくは彼女の国のものだろう。優雅さや威厳に欠けるその礼には、ただただ目の前の職人が持つ愚直さだけが感じられた。
「あぁ、それでは――……拝見させて頂こうか」
周りの庭から死角になるように造られた入口から一歩踏み出して、右足が最初の枕木を踏みしめる。ほんの少しだけ地面から離された段差が彼女のいうところ暗示。その暗示にかかってやろうと次の一歩を踏み出す。
左足が赤レンガの上におりた。その線上から見る庭は確かにまだ間抜けな状態で、少なくともいま楽しめる造りではない。けれど――。
「――トモエ」
「はい、旦那様。如何でしょうか?」
おどけたように彼女が背後で返事をする。スティーブンはそんな彼女を振り返って、今まで見たことのない子供のように無邪気な笑みを見せた。
「俺はお前の造ってくれたこの庭が、とても好きだ。きっとこの先もっと好きになる。……ありがとうトモエ。本当にこんなに嬉しい誕生日は生まれて初めてだ」
「おぅ、そっか、ちょっと大げさだけど気に入ってくれたみたいで良かったよ。それにな、私だって礼を言いたいくらいなんだよ。訊いてくれるか?」
「勿論。お前からの礼なんて珍しいものを聞き逃すわけがない」
「お前ねぇ……言ってくれるよなぁ、ったく」
軽口を叩き合いながら二人して一歩ずつ歩を進めて向かい合う。相手の瞳を見つめ合っていると何だか色々なことが頭の中を廻っている。最近では悪態をつきあいながらもこうして一緒にいるのが普通だ。それこそもう十年来の仲のようにそこにいる。
両者共に出会った頃はお互いの印象も最悪で、今こうしている未来なんて想像もつかなかったわけだが、どうしてかこうしてここにいる。
「……あのな、スティーブン。この世界で初めて私を見つけてくれたのがお前で良かった。その、ありがとう、な」
向かい合った彼女は頬を染めてそう言った。その頬が染まっているのがこの気温のせいなのか、それとも照れのせいなのかは分からなかったがそんなことはスティーブンにとってどうでも良かった。
ただ彼女を引き寄せて、その頭に自分の顎をのせたまま「俺もだ」と伝える。そう伝える自分の頬が熱いのは、きっとこの気温に冷えのぼせたからだと言い聞かせた。腕の中でトモエがもがくので離してやると、スネを蹴られる。
いつもの攻撃パターンと違うのですっかり油断していたが、上半身だけでなく下半身も攻撃の対象に入るとは……。
痛みに呻いていたら「すぐに抱きしめるのよせってば!」と怒られてしまった。しかしその仕打ちの直後には手を差し伸べて「ほら、馬鹿やってないで奥まで行くぞ?」とスティーブンを急かす。
苦笑しつつ二人で枕木と赤レンガで出来た路の上を歩くと、そう長くない路はすぐにあの細工がされた歪な形の石板に行き当たる。
「トモエ、あれは何だ?」
スティーブンが指差す方向を見たトモエが“よくぞ訊いてくれた”とばかりにニヤリとする。
「スティーブンにはあれが何だか当てられるかな?」
「ベンチ……にしては背もたれがないな」
「惜しい! 良いやもう、ほらこっち来いよ」
タッと先に地面を蹴った彼女が石の上を飛ぶ。すぐにベンチの前まで到着したトモエがスティーブンを手招く。素直にその後に続くと、トモエは強引にベンチにスティーブンを座らせた。
訝しむスティーブンと背中合わせになるようにトモエが腰掛ける。
「ここはこうやって、庭を見ながらお茶をするところだよ。背もたれがないのは複数の人がこうしてお喋り出来るようになってるんだ。これなら約束通り皆でお茶会が出来るだろ?」
スティーブンはそう言ってニンマリする彼女を穴が開くほど眺める。そんな状況に置かれたトモエはというと「……本当に、無自覚な奴は怖いな」と呟いていた。
「まぁ、あれだよ。春が……ベリメが待ち遠しいな」
「そうだな。きっと今よりずっと綺麗だ」
「うぅ……お前な、こっち見たまま某歌手の歌みたいなことを真顔で言うなよ。変な汗が出るだろ」
頬を染めてよく分からないことを言うトモエを、それでも眺め続けていたら額に軽く拳をぶつけられた。
あまり痛くはなかったが額に手をやると、そんなスティーブンを呆れた表情で見ていた彼女が諦めたように笑って言った。
「あ、そうだ。ベリメになったら赤いパラソルを買ってくれよ。それでこの上に赤い毛布をひいて皆でお茶会しような?」
――その後はもうどちらも喋ることもなく、ただ背中合わせに座ったまま黙って庭を見ていた。
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ここ数ヶ月を振り返ってみると、見事に庭のことしかやっていない自分に呆れながら完成した庭を歩く。それにしてもここは本当に冬場には寂しい庭だとつくづく思う。自分で手がけたからこそ粗が目立つとでも言うか。
こんな寂しい庭を二日前のスティーブンはとても喜んでくれたのだから、私の中でのあいつの評価を上げてしまいそうだ。最初に出会った時はとんだクソ野郎だと思っていたのだから、人間の評価とは随分変わるものだよなと痛感する。
考えてみればこんなに怪しい人物を簡単に屋敷に上げてしまう辺り、スティーブンはかなりお人好しのお坊ちゃんだ。屋敷の人間ももっと注意をしてやるべきだろうに。
そんなことを考えながら庭の空き部分に何を植えようか下調べをする。下草の種類をもっと増やせば、落葉してしまっても今より寂しくならないだろうから。
今日の晩は去年出来なかった聖誕祭のお祝いをオリバーさん達の家でスティーブンを招いてする予定だ。今年は庭の手入れでプレゼントを何も用意できなかったけれど、皆はベリメにここでお茶会をしてくれたら充分だと言ってくれた。
本当に今の環境はこちらに来たときには思いもしなかったことばかり起こる。本当に思いもしなかったくらいに楽しくて、嬉しくて、賑やかで、怒ってばっかりで、でもとても……幸せだ。
それを口にしてしまったが最後、空気に解けていくこの吐息のように溶けてなくなってしまいそうな気がして怖くなった私は、一気に庭の一番奥まで入り込む。
追いかけてくる何かから逃げるように最後の飛び石を踏んで、縁台の前まで辿り着いた――……その時だ。
《おぉい、佐渡ぃ!! この忙しい時にどこで油売っていやがるんだあの馬鹿は!!》
脊髄まで聞き慣れたあの濁声が耳に届き、驚いて声もなく咄嗟にその場でしゃがみこんだ。身体を縮こませてやり過ごそうとするが、何かに引っ張られるような強い感覚が全身を襲う。
私の身体を覆っていた夢が、微睡みが、解けていく。残された現世が、再び私を呑み込もうとその口を開いたのだ。
(まさか、まさか、まさか、何で今更、そんなの――嫌だ!!!)
急激に薄れていく意識の中で、私はもう届くはずのないその名を、姿を必死に脳裏に思い浮かべた。
*******
あの日、時間になっても現れない彼女を探して庭を訪れたスティーブンが最初に見たのは、曲がり角から少しだけ覗く爪先だった。それが彼女の爪先であると気付いた瞬間、頭の中が真っ白になったスティーブンはその後の行動をほとんど憶えていない。
オリバーの家に運び込んだ後は、必死で身体を揺すったり名を呼んだりしていたのだと後から聞いた。聖誕祭の夜に呼ばれた医者は、最初は不機嫌にただの疲労だろうと言っていたが、それも三日を過ぎるとこれは妙だと言い出した。
どこがどう妙なのかと訊いても有力な答えは得られず、何人も医者を呼びつけては治療に当たらせたのだが――。
今朝でもう一週間になるが、ベッドの上に横たえられたトモエはまだ目を醒まさない。四日目まではスティーブンの執務中はオリバーの家に預けて様子を観させていたのだが、ずっと寝ずに付き添っていたエマの方が体調を壊してしまった。
オリバーはそのエマの看病に付き添ってやらなければならず、急遽スティーブンはあの小屋に彼女を移したのだ。
部屋の中の音は時折弾ける暖炉の火と、彼女が微かに立てる寝息だけで。他の一切は眠っているかのように静かだった。もちろんベッド脇のスティーブンは眠ってはいない。眠らないどころか、瞬きすらも忘れているかのように眠り続けるトモエの顔を見つめていた。
ほとんど一日中そこから動かないスティーブンを心配したアイザック達が休むように言っても、全く聞き入れずに付き添う姿はいつかのこの部屋の光景をなぞっているかのようだ。
この部屋の中は昔から、いつもそうして楽しい日々からスティーブンを遠ざける忌々しい空間だった。
スティーブンは瞬きもせずにその影の差す頬を撫でた。その影とは死だ。触れる彼女の頬はここ一週間ですっかり痩けて、まるきり最初から彼女が病人であったかのように見せている。
溌剌としたあの雰囲気を今の彼女は全く纏っていなかった。無理矢理に注射器で栄養を送り込み続けている腕は赤黒く腫れあがっている。そこまでして彼女をつなぎ止めるのが正しいのか。最早そんなことすら分からなかった。
ただ一つだけ分かるのは――。
「トモエ、お前は……俺の庭師なのだろう?」
呻くように絞り出した声は虚しく枕元に漂った。
そのもう何度目かも忘れたことを問うてみたところで、今回も返事をしないだろうその顔を眺めていたら――……ずっと閉ざされていたそのひび割れた唇が、微かに動いた。
「………ティー、ブ……?」
「トモエ!!!」
せっかく殻を破った意識が再び閉ざされないように、火傷と傷に埋め尽くされた手をとってその名を叫んだ。
「……あ、」
「トモエ、俺はここだ!! ここにいる!!!」
落ちくぼんだ瞼がスティーブンの声に反応して痙攣する。その反応が消えないうちにより強く手を握りしめた。
「スティ、……ブン」
「そうだ俺だ! ここにいるぞトモエ!! 俺が分かるか!?」
ベッドに覆い被さるようにしてその名を叫び続けると、彼女が苦笑とも微笑みに失敗したとも受け取れる表情でスティーブンに向かって応えた。
「き、こえ、てる――た、だいま、スティー、ブン」
以前最後にここでスティーブンが迎えた朝は、彼の人生でも一番哀しい朝だった。けれど今朝のこの部屋は、以前とは異なる結末をスティーブンにもたらしてくれた。
一瞬ハッとしたように開かれた彼女の目から涙が一筋流れ落ちる。涙で濡れた真っ黒な瞳に映るスティーブンもまた泣いていた。しかし今はそんなことはどうでも良い。大切なことはたった一つ。
「あぁ、おかえり、それに――」
握った手と手が。指と指が、視線と視線が絡み合う。
物語の中の娘のように美しくも可愛らしくもない眠り姫に、けれどスティーブンは極上の微笑みと親愛を込めて呼びかける。
「……おはよう、トモエ」
――哀しい話は、ここでお終い。
――哀しい夢も、ここでお終い。
後はただただ抱き合って、互いの欠けた時間の隙間の境が跡形もなくなるまで、一人と一人で補い合うのだ。