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4-4・1 一年に一度、この歳になると忘れたい日。



 このところ日課になっている自分の庭いじりを終えた私は、全身泥と汗にまみれてはいたが心地の良い疲労感と充実感を味わっていた。とはいえさすがにちょっと匂う。一刻も早く水浴びをしようと、オリバーさん達の家の玄関をあけた。


「あら、遅かったのねトモ――まぁまぁ泥だらけじゃないの!」


 玄関開けたら二分でおかん……じゃなくて、エマさん。あらら? 何か珍しく慌てているようだけれど、いったい何があったんだろうと暢気に思っていたら。


「それに今日は大事な用事があるから早く戻りなさいと、朝食の後に言っておいたはずだけれど?」


「え!? そうでし――、」


 た、ね。しまった、そうでした。朝食の席を立つときにそういえばそんなことを言われていた気がする。早く庭の続きがしたくてエマさんの話を聞き流してしまっていたのだ。


 あー……遊ぶのが楽しみで社会人の基本である“ホウレンソウ”をすっかり忘れていた。とにかくここは素直に謝らなければ。そう思って口を開こうとしたら、エマさんにタオルと着替え一式を持たされた。


「いいから早く汗と泥を流していらっしゃい。ほらほら急いで」


「え、え?」


「それが済んだらその服に着替えてこっちに来て頂戴。髪を整えてあげるから」


「は、はい……?」


 訳も分からないまま洗面所に直行させられた私は、簡易的なバスタブに浮いた色とりどりの花弁に仰天してしまった。浴室内にはうっすらと甘い香りが漂っている。何だこれは。


 普段のここでの生活とはかけ離れた随分と貴族的な趣向に驚く。何だこの海外映画とか日本の昔話の流れで行けば、殺される未来しか待っていない生贄的な感じは……。


 色々といつもと違い過ぎて怖いが、とりあえず身体を流して日本人の性として浸かってみる。フワリと甘い香りが漂う湯船は、こんな時でもなければずっと浸かっていたい位だ。


 よくよく見れば屋敷の庭園内に咲いている花ばかりだから、オリバーさんが摘んできてくれたのだろう。もっと浸かっていたかったけれどさっきのエマさんの様子ではあまり時間がなさそうだ。


 名残惜しい気持ちになりながらも湯船から出て身体を拭く。


 いつもは汗と草と泥の匂いしかしない肌から、品の良い香水でもつけたような香りがする。どれ、着替えは……と渡された服を手にとった私は、再びギョッとした。

 

「今からこれでどこ行くんだろう……」


 そこにはマーガレットの誕生日に着ていった、モスグリーンのストンと落ちた形のごくごくシンプルなあのドレスがあったのだ。


 戸惑いつつもそれに着替えてエマさんの待つ応接間の方へと向かう。するとそこにはすでに、私の髪を整えようと準備しているエマさんの姿があった。


「ああ、今呼ぼうと思っていたのよ。早くここに来て座ってちょうだい」


 そう急かされて鏡の前に座らされる。まだ濡れた髪を一束一束しっかりと水気を切ったエマさんは濡れた布に髪を挟むと、熱したコテを当てて焦げないように注意深く乾かしてくれる。普段はお風呂の後に急ぎの用事なんてないからこれも初体験だ。


「あの~、エマさん、質問してもいいですか?」


「ええ、何かしら?」


「私はいったいこれからこんな格好でどこに行くんでしょうか?」


 不安いっぱいに訊ねた私の声に少しだけ手を止めてくれたエマさん。しかし「とっても素敵なところよ」と笑うだけで私の欲しい答えをくれはしなかった。これ以上は質問しても無駄だろう。


 これで私が年頃の可愛い女の子だったりしたら、かの絵本の人魚のように心変わりした老夫婦の元で“凄く美しい子が作った蝋燭”と銘打たれた商品を延々と製造させられるところだ。


 しかし私はいい歳をしたどこにでもいる凡庸顔で、ここでの労働が嫌いではない。


 むしろ好きだから別にそれでも構わないな……などと考えていたら、エマさんがいつの間にか乾かし終わった私の髪にスティーブンからもらったあの髪飾りを付けてくれているところだった。


「髪が伸びたから前よりも大人っぽくて素敵よトモエ」


「あはは、もう大人っぽいって歳でもないですけど。そう言ってもらえると何だか照れますね」


「ふふ、そうかしらね。さぁ、後は口紅ね」


「い、良いです良いです! 私に口紅とか絶対に似合わないですから!」


「あら、前の時もしたはずでしょう?」


 うおぉ、しまった墓穴を掘った! そう思って恐る恐る鏡の中のエマさんを盗み見ると――。嫌だ、目が笑ってないわぁ。


「貴女、ドレスを着たのにお化粧をしなかったの? ちゃんと持たせたはずだと思ったのだけど?」


 そもそも土木系の仕事で化粧なんかしたことない。きっとしてくれたところで似合う訳がないと、どれだけエマさんに化粧をする必要性のなさを説いても、私は人生初のお化粧からは逃れられなかったのだった……。



*******



 最初に彼女が到着した時は一瞬誰だか分からなかった……と言うほどではなかったにしろ、いつもより顔がくっきりして見えた。どうやら化粧をしているらしいと唇の紅さで分かる。


 マーガレットの誕生日パーティーの日には確か何もつけていなかったはずだから、おそらくあの化粧はエマの仕業だろうとスティーブンは思った。


 キョロキョロと落ち着きなく当たりを見回す様は淑女というより迷子だ。モスグリーンのドレスにあの髪飾りをした彼女はあの日の再現のように、まるで社交的な場に馴染まない。


 けれどあの日とは全く別人のようにはしゃいでいるのが分かった。まだ観察していたいところだったもののそろそろ迎えに行かなければ――そう思ったのだが、それよりも彼女がスティーブンを見つける方が早かった。


「スティーブン、何だよこれ凄いな!」


 そこにはいつもの少し表情に乏しい彼女はおらず、全身全霊で興奮を表現している彼女がいた。


「これってガーデンパーティーっていうやつだろ? 初めて本当にしてるところ見たよ。エマさんが言ってた素敵なところってここだったんだな」


「初めて――トモエの国にはなかったのか?」


「いや、一部のお金持ちとかはやってたけど、平民にはとてもじゃないけど真似できないよ。高級ホテル貸切とかでないと」


「そうなのか。だがお前は園丁だったのだろう? だったらその庭でやったことはないのか?」


「え、あぁ、そうか私の国とこの国では庭の在り方が違うんだな。日本庭園はこういう催しはしないよ。するとしても結婚式の記念撮影くらいかな。歴史のある格式高い感じのところは大体そうだ」


 そう話す間中も視線は落ち着きなく庭を見ている。その瞳に木々や暗くなったら灯す為に吊されたランタンが映り込む。彼女の瞳に映り込む物はどれもスティーブンやオリバーが好みそうだと選んだ物ばかりだ。


「お前にそこまで喜んでもらえたなら良かった。こちらとしても準備した甲斐があるというものだな」


「こんなの感動するに決まってるだろ。というか、ここはずっと壁だと思ってたんだ。外からはここで庭が終わってるように見えるから、まさか裏にこんな庭があるなんて思ってもみなかったよ」


「――ここは父が母の為に造った庭だからな」


「へぇ、お父さんは随分ロマンチストだったんだな。夫婦仲がそこまで良いのも羨ましいけど。でも――そうかぁ、道理で庭園の方にバラが少ないはずだよ。ここに庭園中のバラを集めてたんだな~」


 うんうんと感心したように頷きながら周囲を見渡すトモエ。その姿を見ているとここ数日のスティーブンとオリバーの苦労も報われた。


 と、トモエが急にこちらを振り返って咳払いをする。スティーブンが首を傾げていると彼女はドレスの端を摘まんで社交場で見るようなお辞儀をした。そんな彼女を見たスティーブンは、それまでの浮き立った気分が急激に沈むのを感じる。


「本日はこのようなところにお招きいただいて誠にありがとうございます」


「どうした、急に畏まって。熱でもあるのか?」


「スティーブン、お前なぁ……私だって社会人だぞ。こっちで招かれた時の礼儀作法くらいマーガレットの時に調べたよ」


 ムッとした表情を浮かべたのを見て安心する。いつものトモエだ。せっかくマナーを学んでくれた彼女には悪いが、スティーブンは彼女のがさつで礼儀知らずなところが気に入っていた。


「ま、確かにいきなりお淑やかにっていうのは無理があるよな。でもあれだ、誘ってくれてありがとうな」


 気を悪くしたかと心配したが彼女はそう言って笑った。ここで淑女なら口元を隠すのが基本なのに、彼女はそうしない。


 嬉しくて笑うという行為が、相手の心にどう作用するかを知っているかのように見せびらかす。いつだってトモエの“笑顔”は“笑顔”意外の意味を持たない。それが純粋に嬉しくて、スティーブンも微笑んだ。


「それで今日はここで何かあるのか?」


「勿論。なければわざわざこんな大掛かりな準備をするわけがないだろう」


「だよな。で、誰を主賓に呼んだんだ? マーガレットの誕生日にはまだ早いしこれだけの準備……そうか親しい人だ。お前ちゃんと友人いたんだな」


「………」


「冗談だって、怒るなよ。恥かかせないように隅っこで楽しんでるから」


 こちらの顔色を伺えているようでありながら全く伺えていないトモエを前にしたスティーブンが呆れていると――。


「トモエ!!」


「うぅっふ!?」


 全くの死角から唐突に繰り出されたタックルに、トモエが妙な声を出す。向こうから駆け寄ってくるまでの一部始終を見ていたのに教えなかったのは単にあまりの鈍さに対する腹いせだ。


「え? ごめんなさいトモエ! わたしてっきり気付いているものだと――」


「いや、良いよ大丈夫、だから」


 マーガレットが離れた腰をさすりながらトモエが苦笑する。しかし「てっきりお兄さまと目があったものだから……」とマーガレットが口を滑らせたせいで、ドレス姿でありながら膝蹴りを見舞われた。


 スティーブンが痛みに腹を押さえている間に、マーガレットは本物の淑女の礼をしてこう言った。


「今日はトモエのお誕生日パーティーにお招きいただいて、ありがとうございます。わたし今日が楽しみで昨日はほとんど眠れませんでしたの」


 その言葉で今まで肩をいからせていたドレス姿のトモエが、スティーブンの背中をさすりながら謝る。微妙にサプライズに失敗した珍妙な誕生日パーティーはこうして幕を開けたのだった。


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