1-2 そこは仕様にしといてくれよ。
右も左も当たり前だが知らない土地で、しかも山がどこにもない。遠くに見えるとかすらもないのだ。日本といえば大抵どこか端っこの辺りであっても、景色の中に必ずといっていいほど当たり前にあるはずのものが。
「フフ、ここが東京か――」
とか言ってみたりする田舎者ジョークも、この状況で一人とあっては笑えない。せめて第一村人でも見つからないものだろうかと目を凝らす。
不自然なのは山だけでない。日本の平地事情がどうなっているのか詳しくは知らないが、こんなに平らな土地が余っているのに畑も田圃も見当たらないのが引っかかった。これだけ拓けていたら棚田になんかしなくても米作りし放題だろうに。
「あ、無理か。水源がないもんなぁ」
山の次に珍しくない河川。歩き始めて約二時間たったがそれも見当たらない。そんな疑問が浮かんで、消化しきれないまま歩き続ける。
普段なら可愛い仕事道具たちが否応なく肩に食い込む。明日には鬱血しているかもしれない。そんな心配をしだした時だった。
「ん?」
平原の向こうから誰かやってくる。乗っているのは車――ではなく、大型の馬だった。最初はエンジン音かと思った地響きが近づいてくるにつれ、徐々にハッキリとしてきた姿からひずめの音だったのだと理解した。
「こんな時代に馬に乗ってるってことはこの近くに府民牧場とかあるのかも」
それならばこのだだっ広い平地も納得できる。そうと分かればヒッチハイクだ。私は肩に掛けていた荷物を下ろすと、馬の背に乗っている人物に向かって大きく手を振った。
*******
その日は朝から妙な気配が屋敷内に漂っていた。最近では金の無心に来る以外でこの屋敷に寄り付きもしなくなっていた、現当主の叔父であるウィリアムが訪ねてきたからだ。
「叔父上、本日は如何様なご用件ですか」
この屋敷の現当主で今は亡き兄の息子でもある甥に、あからさまな不信感を剥き出しにした声で訊ねられたウィリアムは首をすくめた。実際堂々としたその姿は当主に相応しい。
三年前に父を亡くし、その翌年には母も亡くした。いわば後ろ盾のない状態であるのにこの威厳である。
「そう怖い顔をするなスティーブン。今日は金を借りに来たわけではないのだよ」
「――いつもはそうである自覚がおありのようだ」
瞬間部屋の空気が凍りつく。壁際に控えていたメイドたちが息を飲む。みな一様に緊張した面持ちでことの成り行きを見守っている。
「叔父上、何度も言わせないで頂きたい。当家はあなたが放蕩三昧で作った借金の返済金を工面するためにあるのではありません」
『心底うんざりだ』と全面に出してくる有能な甥。その姿はウィリアムがこの世で一番憎んでいた兄に生き写しだった。
「だから今回は違うと前置きしているではないか」
忌々しい記憶が沸き上がるのを押さえ込もうとした声に憎しみが混じる。他家の婿養子としてこの家を出た時には清々したものだ。
しかしここから逃れても無能が有能に転じられるわけもなく、時折耳にする十歳上の兄と比べられる日々は彼の従来の執念深い性格をより悪化させただけだった。
もとより叔父と甥の歳が近いのも確執を深める一因である。兄の二十四歳の時の子供であるスティーブンは今年で二十五歳。
三年前に病で没した兄のアーネストは当時四十六歳。その兄と十歳離れていたウィリアムは三十九歳でお互い冷静に話し合うには歳が近いのだ。
容姿にしてもそうだ。日の光が当たると青みがかって見える黒髪、秀でた額にすっきりと通った鼻筋。長身だがなよなよしたところはなく、意志の強そうな灰がかった青い瞳は光彩によっては霧がかった湖面のように見える。
目の前の甥は年を追うごとに嫌になるくらいに彼の兄に似ていく。それに比べてウィリアムは顔や体格こそ女性に困らない造形をしているものの、どちらかと言えば神経質そうな男だ。
兄よりも明るいアイスブルーの瞳に母親譲りの濃い栗毛は優しげな印象を与えるが、根が恐ろしく執念深いと知れると誰も寄り付かなくなった。父は彼よりも兄を、母は父からの愛情を得られない彼を溺愛した。
「では、叔母上ですか」
ふと意識が過去に飛んでいたウィリアムの耳にスティーブンの深く冷たい声が届く。
「金の話でないとするならば叔母上のことでしょう」
蔑むようなその視線。その声。ウィリアムは怒りで胃が冷たくなるのを感じた。
「叔母上の我が儘を全て叶えるのは無理だと、夫である叔父上が諫めずどうするのです。領民の納めてくれるものと、叔母上が求めるものとでは収支が釣り合いません」
そんなことは年若い甥に言われずともわかっている。ウィリアムは女遊びを欠かすことはないが、妻であるエミリーを一番に愛していた。エミリーもそれを知っているからこそウィリアムの女遊びを許している。
妻のエミリーの実家は質の良い絹織物を取り扱う商家で、一時は“サー”の称号を贈られたこともある。娘のエミリー自身にもその商才は遺伝していたが、生まれついてのお嬢様で金遣いがとにかく粗いのだ。
とはいえ、ウィリアムに一目惚れしたエミリーが彼をこの家から連れ出してくれたようなものだ。彼の無能を許し、愛してもくれた。まるで母のように。
「――確かに相談とは妻のことだ。だが話を聞く前から金のかかることだと決めてかかるのはよせ」
「それは失礼しました。では他にどんなご用件があって当家を訪ねて来られたのですか?」
本当はこの憎らしい甥の顔面に拳の一つでも叩き込みたいところだが、武術の腕などはなから勝負にもならない。妻のためだと自身に言い聞かせ、冷え冷えとした腹の怒りを懸命に抑え込む。
「うちの園丁が腰を痛めてね。せっかく薔薇が見頃になったのに充分な手入れが出来ない。妻は薔薇が好きだから心を痛めているんだよ」
「それで薔薇の手入れが終わっているわたしの屋敷の園丁を貸せ、と」
「ああ、そういうことだ。この屋敷にはこちらと違ってあまり薔薇がないだろう? 薔薇の手入れがないならこの時期大した手入れは必要ないかと思ったのさ」
ここクロムウェル家に昔から仕えてくれているオリバーは齢七十を越えているがまだまだ現役の腕の良い園丁だ。
しかしウィリアムの指摘したとおりこの屋敷の庭は常緑樹で仕立てられたトピアリーの方が多い。オリバーでなくとも領内の園丁で事足りる。
「それは……宝の持ち腐れだと仰りたいのですか」
一時は治まりかけた空気が一気に不穏さを増す。
「そうは言っていないさ。ただの事実だろう?」
正直に言えばこの生意気な甥の機嫌を損ねられたことに胸がすく思いだが、ここで断られるのは避けたい。さてどうやっ てこの場を切り抜けるかとウィリアムが思案していた時だった。
「お兄さま……おじ様も……ケンカはだめ」
誰もが固唾を飲んでいた室内に可愛らしい声が響く。
「おお、マーガレットか。こっちにおいで」
その時ばかりはウィリアムの表情が叔父のそれに変わる。ウィリアム夫妻には子供がおらず、スティーブンの歳の離れた妹であるマーガレットは二人のお気に入りの姪であった。
「――マーガレット、話の最中は部屋に近寄らないように言っただろう」
兄の不機嫌な声にマーガレットが怯えた表情になる。それがまたスティーブンを苛つかせた。
十六歳下のこの妹は亡き母親に良く似た穏和な顔立ちだが、そのせいか身体の弱さも似ている。九歳になるのに自分の意思をはっきり口にしないところも苦手だった。
「兄さんの言うことは気にするなマーガレット。やぁ、お姫様はまた綺麗になったんじゃないか?」
確かにウィリアムの言うとおりマーガレットは整った顔立ちをしている。それは認めよう。病弱なせいで部屋にこもりがちな為に白い肌。美しいアイスブルーの瞳は祖母の遺伝だと聞いている。母親似の亜麻色の豊かな髪は絹のように滑らかだ。
近くにマーガレットを呼び寄せたウィリアムは、これで話は通ったとばかりに一方的に会話を打ち切ってしまう。
「……分かりました。オリバーにはわたしからそのように話しておきましょう。用件はそれだけのようなのでわたしは失礼します。マーガレット、叔父上にご迷惑をかけないように。皆、あとを頼む」
二人と壁際のメイドたちにそう言い残して部屋を出ると、その足で屋敷裏の厩に向かう。こういう腹の立っている時は、それを誰にもぶつけない為に一人遠乗りをするのが長年の癖になっていた。
厩に着くとすぐに心得た表情で馬丁のジョンが出迎えてくれる。どうやらウィリアムが来たときから準備を整えてくれていたらしい。
視線の先にはすでに鐙と鞍をつけた愛馬バーラムの姿。ジョンに礼を言って背にまたがると、青影の馬体が早く駆けさせろと訴えていた。その訴えをきいて鐙で横腹を軽く蹴ると、屋敷はあっという間に小さくなって行く。
しばらくそうして馬に任せて走る。こうしてバーラムの馬体が力強く駆ける様を時々羨ましいとすら感じた。駆ける為に産まれ、駆ける為に生きる。シンプルでとても有意義だと。
流れる景色を見るでもなくぼんやりと走らせていたその時、バーラムが何かに気付いて速度を緩めた。スティーブンはダグに入ったバーラムの背から前方に目を凝らす。
(――あれは、人か?)
まだ距離があるものの、人であるように見えた。一瞬で領主の顔になったスティーブンは、手綱でバーラムに指示を与えながら注意深くその人影に近寄った。
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近付いて来た人物の姿を見て私はドキリとした。別に一目惚れとかではなくて、どう見ても日本人じゃない。というか、外人にしたって現代人の格好じゃない。
本のジャンルを全く問わないタイプの私は、つい最近読んだ本の内容を思い出していた。真の本好きには小馬鹿にされることもあるジャンルだが、私は良い現実逃避になるので好きだ。
――ただし、それも自分が巻き込まれる系でなければの話ではある。いや、しかし待て。普通に考えてまだ希望を捨てるのは早い。
単に私がこの周辺のことを知らないだけで、ここがイン〇ラン〇の丘やハウ〇テン〇スの系列の施設である可能性もある。せめて明〇村であれば良かったのにと思うが――。
そんな取り留めのないことを考えていたら、ついに相手は目の前まで迫っていた。馬の背に乗っていることを差し引いたって大柄な馬上の人物に、一瞬言葉を失う。
純日本人には腰が引けてしまう映画館のポスターで見るタイプの外人だ。俳優かと思える顔の造形に感心する。私の好みではないが。
それに今はそんなことは問題じゃない。私が確かめなければならないことは山ほどあるが、取り敢えず一番根本的で、あのジャンルにありがちな有り難い機能を期待して馬上の人物に声をかけた。
「すみません、道に迷ったみたいなんですけど此処がどこだか教えてもらえませんか?」
『お前は見たところ流民か物取りの類か? 我が領内に何用か』
ほぼ同時にかけられた言葉に、お互いの意思の疎通をはかれるものは何もなかった。
あぁ、やっぱり……そうそう甘い話はないのか。分かってはいた。本当は分かってはいたのだがそこはやっぱり――。
「そこは通じる仕様にしといてくれよ!!」
驚いた表情をしている美丈夫を前に、私は今日二度目の大声を上げた。