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幕間    それぞれの思うところ。



「ごちそうさまでした!」


 明るい真昼の日差しが入る狭い食堂に、トモエの声が響く。目の前には空になった皿が三枚。満足そうに食後の紅茶を飲みながら一息つくトモエを見ていたエマは、嬉しそうに微笑んだ。


「うふふ、いつもながらたくさん食べてくれて嬉しいわぁ」


「そんなの、エマさんの作ってくれるミートパイが美味しいからですよ。ですよね? オリバーさん」


「――そうだな、エマのミートパイは絶品だ」


 食後の紅茶を淹れてもらっていたオリバーも彼女の言葉に頷く。二人きりの頃には聞いたことがない言葉に、エマは少女のように頬を染めた。


「まぁ、二人して褒めてくれても何もないわよ?」


「いやいや本当ですってば。ね、そうでしょうオリバーさん」


「……ああ、そうだとも」


 ここ一年半ほどですっかりこんな調子になっている食卓だが、以前は老夫婦二人きりの静かな食事だった。そこへ彼女が――トモエがやってきてからは、随分と賑やかになったものだ。


 最初に雇い主である屋敷の主人のスティーブンに運び込まれてきた時は、大変なことになったと思ったが、今ではもう二人とも彼女のいない生活など考えられなくなっていた。


「つきましては今日の夕食後のデザートって何かな~、なんて……」


「あらあら、トモエったら。今お昼を食べたところなのにもう夕食の話なの? うふふ、本当に食いしん坊なんだから」


「……わしも気になるよ」


「あら、あなたまで……まったくもう、二人そろって急かさないでちょうだい」


 そう言ってはいるエマだったが、実はもう献立を三日分は考えついている。ちなみに今日の夕食後のデザートは、トモエとオリバーの好物であるレモンパイに決めていた。


「フフッ、ごめんなさい。でも何が出てきても美味しいから良いや!」


「――そうだな、そうだとも」


 二人そろって夕食の会話をする様はまるで親子だ。エマはそんな二人を微笑ましく眺めていた。と、部屋の時計を見たトモエが突然立ち上がる。


「あ、ごめんなさい二人とも。私ちょっと午後からスティーブンと約束があるから、もう行きますね」


「あら、そうなのね。じゃあお皿は洗っておくから流しに置いておいてちょうだいね」


「ごめんなさい! 夕食後は私が洗いますから!」


 そう言いながらパタパタと準備を始めたトモエを見て二人は苦笑する。世間的な年頃と言うには少し過ぎてしまった彼女だが、二人にとってはまだまだ眩しい盛りだ。元気の良い音をあちこちで立てるのも見ていて面白い。


「あ~、時間ギリギリかも! それじゃあ二人とも、行ってきまーす!」


「はいはい、行ってらっしゃい!」


「気をつけてな」


 二人の見送りの言葉に「はーい!」と玄関先から大きな声でそう返事をすると、勢いよく飛び出していってしまった。


「うふふ、賑やかなこと」


「――元気で良いさ」


 慌ただしくトモエが去ってしまった食卓にはまた静かな時間が戻る。二人は紅茶を口に運んでいたが、二人ともほぼ同時に口を開いた。


「旦那様はあの子をどう思っておられるのかしら?」


「旦那様はあの子をどうなさるおつもりだろうね?」


 二人とも思っていたことが同じであったことに顔を見合わせて笑ったものの、本当は少し不安に感じていたのだ。一ヶ月と少し前のあの一件があってから、もう彼女がここに戻ることはないかもしれないと覚悟していた。


 けれど無事帰って来てくれて安堵したのも束の間。再びあんなことがおこったらと思うと、二人とも口にはしないが不安に感じていたのだ。


「まぁ、あの子も大人ですから、自分のことは自分で考えるんでしょうけれど……当の旦那様があの子をどうするおつもりなのか――心配ねぇ」


「……そうだな。お互いを必要としてはいるようだがね……」


 それから二人は続く言葉を飲み込んだ。


 “私達は使用人だからね”。


 その言葉を言ってしまえば、後には何も残らないから。



*******



 使用人用食堂の裏口は、いつでも喫煙する人間が自然と集まる場所だった。今日も今日とていつもの顔ぶれが集まったのだが、最近話題に上がるのは専らあの二人のことだった。


「ジェームズはあの二人をどう思われますか?」


「あの二人っていうと、あいつと旦那様のことで?」


「あなたは全く……他にどの二人がいると言うんですか?」


 察しの悪いジェームズに呆れながら、アイザックが溜め息混じりに答える。当のジェームズは、呆れられていても平気な顔をして「主語を抜かれちゃ分かりませんよ」と頭をかいた。


「ワシはスティーブン坊ちゃんが笑って暮らせるなら、今のままだって良いと思うが。あのお嬢ちゃんも破天荒なところはあるが、悪い子じゃあない」


 二人を見ていたジョンがそう声をかけると、アイザックとジェームズは顔を見合わせる。普段無口なジョンがここまで長く話すのは稀だ。そしてそれが実のところ二人の見解でもあったのだ。


「とは言え、相手は入ってまだ日の浅い使用人。旦那様はまだ奥方を迎えられてはおられない。今のままで良いわけがないのはお分かりですね?」


「――そりゃ、オレ達使用人は主家が長く続くのが一番だけどよ……」


「何でいけないことがある? アイザックさん、あんた奥様が生きておられたら同じことを言えたのかい?」


「今はもう亡いお方の話を持ち出すのはお止めになって欲しいものです」


 瞬間、空気がチリリと張り詰める。三人の中では一番年若いジェームズがその場の気まずさに堪えかねて大きな溜め息をはく。指に挟んだタバコの灰が地面に落ちて、青々とした芝を焦がす。


「――血、なんでしょうかね」


 ポツリとアイザックが呟くと、ジョンとジェームズが各々の懐から新しいタバコを出して火をつける。スルスルと空に上っていくタバコの煙を眺めながら、三人の古株は若い二人の行く末を思案した。

 


*******



 最近妻のエミリーが前のような浪費をしなくなったのは、悔しいがあの女の言ったことを、自分が実行しているからではないかとウィリアムは思っていた。


 いつもなら朝方にこの屋敷に帰り、深夜に愛人の家に出向くことが多かったウィリアムがこのごろずっと屋敷にいることで、使用人達の当たりもどことなく角がなくなっているように感じる。


 そして変わったのは妻や使用人達だけではない。あの引っ込み思案で何事にも及び腰だった可愛い姪――今では娘のマーガレットもそうだ。それどころか大変不愉快なことに、どうやら自分すらもあの生温さにあてられて変わってしまったと感じている。


 有能な兄・アーネストとそれにそっくりな甥に対する異様なまでの嫉妬心。そのタールの様にしつこく胸に沈んでいた長年の澱が、ここ最近少しずつ薄まっている気がするのだ。


 自分の捻れきった性根がそうそう容易く真っ直ぐになるはずはない。それは強く理解しているのに、何故か。考えてみればあの生意気な、殺してやりたいくらい憎かった甥が、あの女といる時だけは人間のような顔をする。それがウィリアムに新鮮な驚きと親近感を与えた。


 あの女が“二人分”と称して甥を殴り倒した日。


 まるで憑き物が落ちたように笑う甥を目の当たりにした時、甥には甥なりの現状に対する行き詰まりがあったような気がしてきたせいかもしれなかった。考えてもみれば、幼い頃の甥が兄に抱き上げられている姿を見たことがない。母親に甘えて抱きついたり我が儘を言って泣いている姿すら、だ。


 不意に軽やかな足音が近付いてきたのを感じて顔を上げると、そこにはエミリーの姿があった。


「あらあらアナタ……こんなところに独りでいらっしゃったの? わたくしが傍にいなくて寂しかったのではない?」


 そう言う彼女の顔に安堵の色が広がるのを見て、わざわざエミリーがここまで探しにきたのだと分かる。


 恐らく寝返りをうつ際に隣から抜け出したことに気付いて、ここしばらく落ち着いていた愛人の家へ行ったのかもしれないと、深夜の屋敷の中を探し回ったに違いない。


 それでもそんなことはおくびにも出さないエミリーが意地らしくて、ウィリアムはそんな妻が愛おしくなる。隣に寄り添うように立つエミリーの腰を抱き寄せると、いつもの優しい微笑みが返ってきた。


 その髪に、頬に口づけると、自身の抱えていた孤独感や焦燥感が薄れていくのがはっきりと分かる。ウィリアムを変えたのがエミリーなら、もっと大切にするべきだと。


 そんな当たり前のことは、あの女に言われるまでもないことのはずだったのに。


 いつか離れていくかもしれない愛情ならば、今のうちにより多くの女から得た方が良いなどと――……馬鹿なことを考えたものだ。腕の中で微笑むエミリーの様な存在を、あの甥が初めて得たのだとしたらどうだろう?


 そう考えると、何故だか――。


 歩み寄る時がきたのかもしれないと、そんなことを思ったのだった。


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