4-1 そろそろ作庭準備に入りますか。
庭園の片隅にあるオリバーの東屋。今日はその中で先日図書室で行われた石の最終選考をしていたのだが――。
【本当にこの石で良いのか?】
【うん、これが一番イメージに近いから】
頑なに最初に選んだ、白地に黒が掠れたように散った色合いの石板を片手にトモエが見せてきた黒板に、スティーブンは微妙な顔をした。
【もう少し購入する値段を高く設定してはどうだ?】
【あのな、スティーブン。高い安いの問題じゃなくて、風合いな?】
苦笑する彼女がもう何度目かの単語を書き込む“風合い”。彼女らしからぬ曖昧な表現にこちらも何度目になるか分からない書き込みを見せる。
【少しくらい援助させてくれないか? そうすれば――】
【し・つ・こ・い】
舌打ちを交えた挙げ句、火傷跡の残る掌を突き出されての拒絶に今度こそそれ以上の言葉をかけられない。
【この石の表面を他のもっと目の粗い石で擦るとな――】
そう言うと彼女は、いきなり傍らに置いてあった洗濯板のようなガタガタの石で、さっき選んだばかりの掠れ模様の石をゴリゴリと削りだしたのだ。
「お、おい、トモエ。その石はそんなことをして本当に大丈夫なのか?」
思わず心配になったスティーブンが声をかけると「まぁ見てなよ」と軽い返事が返ってくる。よくよく見ていると弧を描くようにゆっくりと擦りつけているらしく、段々と掠れ模様の石に波紋のような柄がつき始めた。
どうやら掠れ模様の石の方が洗濯板のような石よりも少々弱いらしい。だがどちらか一方が割れないところを見ると、両者の石はほとんど硬度に差らしい差がないようだ。ギリギリの強度差を彼女の指先は感じ取るのか、時折少しずつ削る場所をずらしていく。
「……器用なものだな」
「がさつなくせにって、思ってるだろ?」
実はちょうどそう思っていたところだったので、一瞬心を読まれたのかと驚いているスティーブンをチラリと見てトモエが笑う。それでも手元は微妙な強弱をつけてリズミカルに動いている。スティーブンはしばらくその作業を感心しながら眺めていた。
懸命に石を操るトモエの額に、小さな汗の玉が浮かぶ。
摩擦ではじき出された石が細かな砂粒になって彼女の服に、手に、真っ白く降り積もっていく。そのせいか東屋の中も埃っぽい。けれど窓から入る陽に照らし出された砂粒が彼女の周りをたゆたう様は、ほんの少し幻想的だった。
「その石一つに随分時間をかけるのか?」
「ん、まぁな。本当は植樹したかったんだけど、もう木が動いちゃってるから」
「木が、動く?」
聞き慣れない単語の組み合わせにスティーブンが眉根を寄せると、彼女は作業の手を止めて顔を上げた。
「木が動くって言うのは、例えだよ。起きるとか、言うこともある。暖かくなると根が、活動し始める。それを無理に抜くと、枯れてしまうんだ」
彼女が言うにはもっとヘクトの寒いうちか、ベリメの早いうちが良いそうだ。今はシュリフ(六月)の終わりに近い。なる程と頷くスティーブンに答えるかわりにトモエが微笑む。
―――それにしても。
「この短期間で随分言葉が上達したな?」
戻ってからずっと疑問に感じていたことを伝えると、微笑んでいた彼女の表情が苦笑に変わる。
「私の国では女三人が集まると“姦しい”って言って、騒がしいとか、煩いって意味になるんだ。ようするに、一日で凄く喋る」
これにもなる程と頷く。それでいくと確かに一日の会話量はすごいものになりそうだ。スティーブンがそんな風に一人で納得していると、一端手を休めていたトモエが「あれはあれで楽しかったけどな」と言って、再び石板を手にした。
そうしてそんなトモエを前に、スティーブンもお喋りを止める。小刻みに動かされる石達が互いにぶつかり合ってその身を削る音を聴きながら、その日の午後は穏やかに過ぎて行った。
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オリバーさんの庭の手伝いもそこそこに切り上げさせてもらえたので、久々に庭園内を散策する。手にはエマさんが持たせてくれたお昼ご飯のサンドイッチと、スティーブンがくれた本型の黒板。初夏の日射しから段々と鋭さを増してきた日射しが、日陰を作ってくれる木々の影を地面に縫い止めていく。
そよ風が吹いて、少し汗ばんでいた額の前髪を持ち上げる。最近では伸ばしっぱなしのまとめ髪から零れた房が耳元でそよいだ。
何となく痺れが取れない手を日に翳し、小刻みに震える手を見て溜息を一つ吐く。ここ数日久し振りの作業に調子に乗ってしまった結果、私の両手は腱鞘炎一歩前になってしまっていた。そりゃああれだけ来る日も来る日も石を削っていたらそうなるか……。
けれどそのおかげで何とかオウタの頭には間に合った。現在は向こうの世界で言えばおそらく七月上旬だろう。こちらの世界の暦は相変わらず憶えにくいので最近では体感に頼っている節があるが、これが馬鹿にできないのがこの仕事だから助かってはいる。
ふと、あることに思い至って指を折る――。
「え? あ、ヤバい。私もうすぐ三十三歳になるのか」
ということは簡単に計算しても、この世界に飛ばされてからもう一年ちょっと経つわけか。去年はそれどころじゃなかったせいで、三十二歳の誕生日をまるっと忘れていた。
歳をとると時間の感覚が早くなるとは色んな人から聞いていたけど、まさかここまでだとは。しかし別になる前に何かしたいことがあるのかと問われれば、何もない。振り返ってみたところで、今までの人生を特に何も考えずに行き当たりばったりで歳を重ねてきた自分がいるだけだ。
「こうやってみると歳の割に一向に賢くならないよな~……」
声に出してみるとより切なくなった。そういえばこちらに来てから独り言を言う癖は減ったな。いつも誰かしら側にいてくれるおかげでいつでも返事が返ってくるようになった。さすがに今日は誰もいないけれど――。
「おや、ご自分のことをよく分かっていらっしゃる」
いたよ。しかもこの屋敷内でもあまり会いたくない手合いが。
「……いきなり、人の独白に入ってこないで下さいよ、アイザックさん」
はあぁぁ~……と大袈裟に溜め息をついて“アナタに会えて嬉しくないです”と自己申告してやったにも関わらず、アイザックさんはいつものヒヤリとしてしまう笑みをくれた。
怖いだけでちっとも嬉しくないよ、とは思っていても言わないけど。
「貴女がここへ来てからまだ一年と少しだそうですね」
「あ、はい。スティー……いや、えっと、旦那様に訊いたんですか?」
「えぇ、そうです。今日は貴女に訊ねたいことがあったので、お一人になるのを待たせて頂いていたんですよ」
あ、これ駄目なヤツっぽい。この話の入り方って社会人は皆嫌だと思うんですけど……! 帰ってきたばかりでどんな虎の尾を踏んでしまったのか分からない私は焦った。
「えぇ、と、その、どんな内容でしょう、か?」
こういうインテリジェントが服を着ているような人種が、昔から大の苦手なチキンハートの私の声は、自分でも驚くほどか細くて頼りなかった。
「貴女は随分とこの屋敷で酷い目に遭ったというのに、どうして戻ってきたのですか?」
いきなりの切り込み方に少しはオブラートに包んでくれよとは思ったが、ここは率直に答えよう。
「スティ……旦那様と約束しましたから」
自分の生涯の中で“旦那様”という単語を使う日が来ようとは。いつも“家主様”とか“施工主様”とかしか使い慣れていない私は、この会話の内であと何回スティーブンの名前を呼びそうになるのか。
そしてそこにいつ突っ込まれるかハラハラしている。
「約束、ですか。それはどのようなものか訊いても?」
「そんな、別に他愛のない単純な約束ですよ? ただ、味方でいる。ずっと、何があっても見離さないっていうだけの……」
思わず言葉尻が小さくなる。だってアイザックさんの眉間に凄い皺が寄ってるんだもの。神経質っぽい人のそういう顔は怖いから! もはやその顔芸(?)だけでタジタジの私に気付いたのか、アイザックさんは小さく溜め息をついた。
「本当にそれだけですか?」
「え? はぁ、そうですけど――」
「……ふむ、そうですか」
視線を足元に落としてくれて助かった。アイスピックみたいな鋭さのあの視線にこれ以上晒されるようなら、もう背中を向けてにげだすところだ。
「三十三歳ですか……」
「それ、いま関係あります?」
「いえ何、当家の旦那様は随分と歳の割にしっかりとしておられたのですね、と」
何だなんだ……喧嘩売ってんのか、このオッサン。だいたいスティーブンの歳といったら二十五歳? あ、でももしかして二十六歳になってるのか?
一瞬ひくつきかけたこめかみを親指の腹で押さえる。神経が高ぶっているのがその脈打ち方で分かった。
「用がそれだけなら、もう行きますね?」
もともとアイザックさんとは言葉を教わる以外に接点がなかった私は、さっさとこの値踏みされているような感覚から逃げたかった。話を聞き出せたのだからアイザックさんももう用はないだろう。そう思って身を翻しかけたその時。
「いつですか?」
「はい? 何がですか?」
「会話の流れでお分かりになりませんか? 貴女の誕生日ですよ」
あまりにも意外すぎるその言葉に全身全霊で“分かるかよ!”と叫んでやりたかったが、チキンハートな私はそう心の中で叫ぶだけで精一杯だった。
*******
執務室のドアがノックされる音に、スティーブンは書類から目を上げた。
『アイザックです。少しお時間をお借りしてもよろしいですか、旦那様』
勝手に中に押し入ってくる彼女が戻ってからは、こういうおとないを不思議に感じてしまう。本来はこちらが正しいにもかかわらずだ。
「構わない。入れ」
そう声をかけながら少々このやりとりを面倒だと感じてしまうのは、だいぶ彼女に毒されている証だろう。部屋に入ってきたアイザックは折り目正しくその場で一礼してスティーブンの机に近付いてきた。
「どうした、仕事中に珍しいな」
素直な感想を口にするとアイザックが微妙な面持ちになる。しかしその表情もすぐにいつもの涼しいものになった。
「先ほど庭園内でトモエに会いまして」
「お前が庭園に――どういう風の吹き回しだ?」
年中屋敷内の仕事をしているイメージが強いアイザックにオウタの日射しは酷くそぐわない気がして、思わずそう訊ねた。
「おや、おかしいですか? わたしも時にはそういう日もございますよ」
「すまん、少し気になっただけだ。それでトモエがどうかしたのか?」
へそを曲げられてはかなわないのですぐに話を元に戻す。その意図に気付いているのかアイザックは薄く笑った。
「……彼女がここへ来てもう一年以上になります。その内の数ヶ月はよその使用人でしたが、まぁそこは良いでしょう」
そこで少しだけ逡巡するような素振りを見せたアイザックだったが、腹を決めたのかサラリと考えてもみなかった提案をしてきた。
「つきましては彼女がここへ戻ったことと、近くある誕生日を一緒に催してやるのはどうかと思いまして」
いつの間にそんなに親しくなったのかと問いただそうかと思ったスティーブンだったが、その提案の前に妙な詮索をするのも躊躇われた。何より彼女の帰還と誕生日を同時に祝ってやるのも面白そうだという、そんな子供じみたといっても言いような感覚で、あっさりと承諾したのだった。