3-5 今からお前ん家いくから。
初めての給料日。一月分とはいえ前半は怪我で何もしていない状況だったので、二週間分だけ頂いて後はエミリーさんに返した。エミリーさんは一月分請求しても良いと言ってくれたが、そこは職人としての矜持。
技術を売れない間のお金はもらいたくないのだと言うと、渋々といった様子だったけれど納得してくれた。
さて、先日のお忍びでは全く住居を探すどころではなかった私だが、あの日偶然通りかかった裏路地で良い店を見つけていたのだ。良い店と言っても、普通は女性が行ってもそこまで面白い場所ではない。だが一応は光り物を商っている店だ。
幸いにもジェイコブさんの知り合いの店だったらしく、用件を安くすませることが出来た。今はその帰り道だ。
“あ~、寂しかったよお前がいなくて! もう絶対に目を離したりしないからなぁ!!”と心の中で絶叫しつつ、しっかりと“ブツ”を抱えた。まぁ、要はやっと修理をする金が出来たので、あの忌々しい事件で焼けてしまった刈り込み鋏の柄を修理してもらっていたのだ。
他の鋏は黒ずんではいたものの、熱で多少は脆くなっていたりするかもしれないが、怖々研いでみたら見た目には綺麗になってくれた。しかし刃物は研げても柄をすげ替えるのはさすがに無理だし。
ついでと言ってはなんだが、全治一ヶ月半と診断されていた掌の火傷も痕は消えないらしいけれどもう皮膚が少し突っ張るくらいで痛みはない。あの事件も過去のことになりつつあるが、オリバーさん達からの手紙はまだ届かない。届いたからといってどうするかと言われると困る。
せっかくこんなに穏やかな日々が続いているのだから、わざわざ波風を立てるのは嫌だ。嫌だけれど……心にずっと引っかかったままの約束が私の心を迷わせた。
支払いを終えて薄くなってしまった給料袋を眺める。この国に紙幣のお金はないらしく中身は全部硬貨だ。通貨の価値が分からない私はジェイコブさんの知り合いに数えてもらって払ったから、今この中にある硬貨が幾らあるのか見当がつかない。
大体、来ない手紙を待つなんて私らしらしくなのだ。それは分かっている。あいつに言ったことだって出来ない口約束みたいにしたくはない。
でも怖いのだ。怖くてこれ以上藪をつついたりしたくない気持ちがある。けれど、それを殺してでも守ってやらなければならない約束事だってあるのも、また本心からくるもので……。悩んで足取りが重くなったせいで歩みが止まり、肩にぶつかった人が舌打ちをして通り過ぎていくのを聞いて、大通りの脇に身を寄せた。
立ち止まったまま流れる人波をしばし観察する。
考えれば考えるだけ深みにはまって行く感覚。もともと考え事に適さない脳味噌なのだ。だったらそれに合った使い方をするしかない。そう思って腹を括った私は、ある人物に接触してみることにした。
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ウィリアムはノックもなしにいきなり開け放たれたドアを見て――正確にはそこに立っていた人影を見て露骨に眉をしかめた。
「屋敷の主人の部屋に許しもなくいったい何のようだ? 妻や娘は貴様に丸め込まれているようだがわたしは違うぞ、この犬め」
忌々しそうにそう吐き捨てたウィリアムを見つめる目に、怒りはない。かといって怯えもまたない。ただジッと何を考えているのか分からない気の強そうな黒い双眸がウィリアムを見つめている。
「―――いったい何なんだ!? 用件があるならさっさとしろ!!」
その眼差しに堪えかねて怒鳴り散らすと、意外なことに彼女はウィリアムに向かって頭を下げた。
「……何のつもりだ?」
突然の行動に理解がついていかないウィリアムは不気味そうにトモエを見つめた。すると頭を上げたトモエが思いも寄らないことを言う。
「あんただろう。オリバーさん達からの手紙、握り、潰してるのは」
「はっ、突然何を……」
「あんたは、あんたなりに、奥様を愛してるんだな。だから手紙をなかったことにしたんだ。でも返してくれ。私は、約束を、守りたいんだ」
ここに来てから大分上達したとはいえ、まだ所々つっかえながら話すトモエにウィリアムは一瞬目を見張る。それはあまりにも真っ直ぐで無防備な表情だった。
その時初めて、トモエはこの美しく冷たい男の顔を見た気がしたのだが、またすぐにいつもの皮肉げな美貌の下に隠れてしまった。
「何のことかと思えば、馬鹿馬鹿しい。愛しているさ。当然だろう、妻だからな」
「じゃあ何で、浮気するんだ。好きなのに、傷付ける。分かってるはずだ、あんたが浮気相手の家に、行くとき、奥様は泣いてる」
「――――」
黙ったままのウィリアムをまたジッとあの目で探るように見つめながら、トモエが静かに言葉を続けようとするのをウィリアムが止める気配はない。
「いつか、出て行くって。ずっと言ってる」
昼下がりのサンルーフで、エミリーがマーガレットとトモエと一緒に毎日のように茶会を開いているのは、ウィリアムも知っていた。エミリーがトモエが来る前まで毎日湯水のようにしていた散財を止めたのも、その理由も、ウィリアムは知っていた。
「そんな気の引き方をするくらい、好きなら、言えばいい」
「毎日言っている。それを今更何だ? なぜそんなことを貴様に言われなければならん?」
「もっと、真剣に言ってやれば、私が出て、行っても平気な、くらい」
「ここを出て行ってどうする? 貴様のように得体の知れん人間をうち以外どこが雇う? それともおめおめ逃げ出したあの屋敷にでも帰るのか?」
「……分からない。でも、味方だって、見捨てないって、約束、した」
「貴様の言うことは矛盾だらけだ。わたしには理解できんな」
苦々しい気持ちでそう吐き出したウィリアムにトモエは困ったように微笑んだ。いや、違う。微笑んだのではなかった。
その証拠にこめかみの辺りが痙攣したように脈打つ。
「本当は仕返しに、行くんだ。年下に殴られて、ばかりは嫌だ。だから殴り返しに、行く」
スッと差し出された手にウィリアムが一歩下がる。明らかに初日の攻撃を警戒しているその様子に、トモエが鼻で笑う。その反応が気に入らないウィリアムは、咄嗟に差し出された火傷痕の残る手を叩こうとしたが……続くトモエの言葉に気付けばその手を取っていた。
「だからあんたも、一緒にどうだ?」
ずっと誰かがそう言い出してくれれば良いと、ずっと思っていた。しかしそれは自分と同じように怒りを持っている者でなくてはならない。
けれど出来の良い兄の出来の良い息子相手に、そんな気持ちを抱く者などいなかった。
「二人で、人の話を聞かないあのガキを、一緒に、凹ましてやろう」
こうしてこの日、このアッテンボロー家の一室で、“打倒セントモーリス家のスティーブン! 殴ろう、被害者の会”が結成されたのだった。
*******
ウィリアムが自室の豪奢な仕事机の引出から取り出した手紙の束を見て、私は盛大に溜め息をついたのは今から四日前。私とウィリアムは向かい合わせに座って馬車に揺られていた。今日はマーガレットもエミリーさんもお留守番だ。
「顔が綺麗で、なのに器のが小さくて、そのくせマメとか……ある意味、尊敬する」
目の前の優男はこうして欠点をならべたててみると、なかなかの地雷物件だ。エミリーさんならもっといろいろ選べただろうに、何故コイツにしようと思ったんだか……女心は難解だ。
「人の顔を見て褒めるか貶すかどちらかにしろ」
「褒めてるじゃ、ないか。小さい男だ」
「それは褒めると言わないだろうが!」
「きゃー、怒ったお顔もステキー……これで良いか?」
「――止めろ。虚しくなる……」
無感動なコメントに感動してくれたらしい。ウィリアムはそのまま窓の方を向いてしまった。私もそれにならって外を見る。そこはもう私がこの世界で一番良く知る、スティーブンが治めるセントモーリス領地内だった。遠くに一瞬だけ聖誕祭でスティーブンと語らったあの家が見える。
明るい時間に見たのは初めてだが、クリーム色の外観がチラリと掠めた。けれどそれもすぐに緑の中へと紛れてしまう。
「……柄にもなく緊張しているのか?」
急にウィリアムにそう言われて驚く。
まさにその通りというか、図星というか……最後に顔を合わせた経緯が気まずすぎて普通にしていようと思っても、あの場面が何度も何度もフラッシュバックのように繰り返されるのだ。
「妻が、あまりに辛そうなら引き返してやれと。引き返すか?」
「……いや、大丈夫だ。ありがとう」
私が素直に礼を述べるとウィリアムの奴、二度見しやがった。失礼な。
「今日は殴りに行くんだろう? そんな湿気た面構えでわたしにしたように殴れるのか?」
「それは心配ない。二度殴られたから、倍返しだ」
「――怖い女だ」
瞬間おや、と思う。最後のウィリアムの言葉は、その顔立ちにピッタリの優しい声音と表情だった。なる程、これは確かに少し“くる”な。
馬車道がだんだん舗装されて屋敷に近付いてきたのだと分かる。呼吸が浅く早くなっていくのが自分でも分かった。気分は最悪だと言っても過言ではない。ただ、その屋敷へと続く庭園が見えた時。
馬鹿げたことに“懐かしい”と肌で感じる自分がいた。
「出迎えは、誰が?」
「オリバーだ。他に誰にも連絡をしていないのだからそれ以外におるまい。まぁ……あのアイザックめは現れるだろうがな。あいつはこの屋敷で見る最初の顔だ」
「うへぇ……」
嘘だろう本当かよ、勘弁して欲しい。そんな心の中がダダ漏れの私に向かい、ウィリアムが何か悪いことを思いついたらしく、素晴らしく魅力的な笑顔をこちらに向けてきた。
「やぁ、トモエ。たった今、君にとってもお似合いな作戦を思いついたぞ。試してみないか?」
明らかにろくでもなさそうな申し出のようだったのに、ウィリアムのその顔があまりにも楽しそうだったので。乗らなければ勿体ない気がして思わず私は頷いてしまっていたのだった。




