3-3 再出発と行こうじゃないか。
このページは前半と中盤まで鬱展開があります(・ω・`)
苦手な方は飛ばしていただくか、ページ後半からお読み下さい!
飛ばしてしまっても話は繋がるはず……たぶん。
数日前から私はスティーブンに屋敷へ来いと言われなくなった。あの日を境にギクシャクしていたので呼び出しがかからないのは寂しいが、少し安堵している自分もいた。
「おりばーさん、ここ、みて、もらえ、ますか?」
久し振りの庭仕事は最近鬱屈としていた気分を上向かせてくれた。庭仕事はやっぱり良いな。身体を動かすことがなかったから、あんなにジメジメした気分になっていたのかもしれない。
「おぉ、良くできとるな。そろそろどこか簡単なところをトモエに任せてもええかもしれん」
「ほんとに!?」
「おぉ、おぉ、年頃の娘が大きな声を出すもんじゃないよ」
「だって、うれしい、ですから!」
オリバーさんに褒められて気分が一気に上向くあたり現金なものだと自分でも思うけれど、ニヤケる頬の緩みが止められない。締まりのない顔の私を見るオリバーさんの目が優しく細められた。
口には出さないけど、きっと心配させていたに違いない。申し訳ない気分を仕事への意欲に変えて頑張らないと、と気合いを入れていたら、ちょうど昼時になった。
「そろそろ昼にしよう。家でエマが待っとる。戻ったらすぐに作業を始められるように、道具はその木の下にでもまとめておくと良い」
「はい!」
おっと、また声が――。慌てて口を押さえてオリバーさんを盗み見ると、オリバーさんは嬉しそうに笑っていた。つられて私も笑う。二人して笑いながらエマさんの待つ家へ帰る道すがら、こんなに優しい気分になれたのは久し振りだったので嬉しくなってしまう。
しかし二人で昼食を終えて戻ってみると、木の下に置いていった道具類の入った袋と剪定メモの入ったオッサントートバッグがなくなっていた。あんなに目立つ荷物をどこかにやってしまったはずもなく、オリバーさんには申し訳ないが二人して辺りを探し回る。
少し離れた場所でオリバーさんがスティーブンのくれた黒板を見つけてくれたので、その周辺を探そうということになった時だった。
屋敷の方から吹いてくる風の中に、この世界では嗅ぎなれない匂いが混ざっている。その匂いに、私の胸はざわめく。この匂いを私は元の世界で嗅いだことがある。
それにこの世界ではまず嗅ぐことのない匂いなのは、オリバーさんを見ても分かった。その瞬間、私は屋敷の方へ向かって駆け出していた。
後ろからオリバーさんの声が追いかけてきていたが止まれない。止まるわけにはいかない。だって、間違いでなければこの匂いは……!
走って上がってしまった呼吸を整えながら匂いの元を辿る。風が巻いているのかなかなか特定できない焦りから頭がクラクラしてきた。
ようやく巻いていた風がおさまると、やけに匂いが濃くなった。その匂いを頼りに使用人達がよく集まっている食堂裏へと向かう。匂いの方角へと歩を進める間、気のせいであってくれという願いを胸に抱いていたが、近付いていくうちにそれが無駄なことに思えてきた。
走りたいのに膝がガクガクと震えて立っているのがやっとの状態だ。
――けれどその光景を見た途端、私は悲鳴のような叫び声を上げてそこへ飛び込んでいた。
真っ黒な煙、どす黒い火。
紙と、化繊の焼ける匂い。
大きく燃え上がっている焚き火の中に躊躇うことなく手を入れた。火に炙られて焼け焦げた化繊のオッサントートバッグと、道具類の入った帆布鞄を引きずり出して中を開ける。
道具類の入った帆布鞄はいくら燃焼速度が他より遅いとはいえ所詮布製で、引きすり出した時にはほとんど焼け落ちていた。
それに全体的に鋳鉄製で作られていた剪定鋏や肥後ナイフ、草木鋏は無事だが、刈り込み鋏は木で作られていた柄の部分が焼け落ちている。どの鋏の刃も火に炙られたことで黒ずんでしまった。
トートバッグの方は溶け出した化繊が掌に張り付いて、本来ならば触れられないほど熱いはずなのに何も感じない。当然のことながら中の紙に綴ってあった剪定メモも外側もグチャグチャだ。
手が自分の血と鞄の煤で汚れているが、気にならなかった。火で熱された鋏を握りしめた手から髪の毛の焼けるような匂いがする。けれどたとえそれが自分の皮膚が焼ける匂いであったとしても、絶対にこの手を離すことはできない。
そこへ私の悲鳴を聞きつけたらしいジェームズが、食堂の裏口から飛び出してきた。放心状態の私を見つけると物凄い形相で駆け寄ってくる。
だが他人事のようにそれ見ていた私の視線の隅に、クスクスと笑っている数人のメイドが映り込み、そいつ等を見つけた私はまだ熱い鋏を握りしめたまま近付いた。まさか自分達の方へ来るとは思っていなかったのか、メイド達の目に動揺が見える。間違いない。間違いなく、この馬鹿共だ。
そう思ったらもう怒り以外の一切の感情が消え失せた。その後はもう、ジェームズに後ろから取り押さえられるまでの記憶がない。
耳元でジェームズが「落ち着けトモエ!」と叫ぶ私の下では、許しを乞うて泣きじゃくるメイドの姿があり、頬が腫れ上がりくっきりとした拳の跡が残っている。
誰かが呼びに言ったのだろう。騒ぎを聞いて駆けつけたスティーブンの目が凶行に及んだ私を捉えた瞬間驚愕に見開かれて。血相を変えて近付いてきたスティーブンが振り上げたその手は、躊躇いなく私に振り下ろされた。
「――は、」
まるでデジャヴだ。
「また、おまえは、わたしの、はなしを、きかないで、なぐるんだな」
そう思ったらおかしくて、おかしくて、おかしくて、嗤ってしまう。
「わたしの、こきょうが、もえて、しまった――」
手の痛みも、頬の痛みも、この故郷を失った胸の痛みに勝るものか。気を失う直前に見たスティーブンの顔を、私はどんな表情で見つめていたのだろう?
*******
「――出て行った、だと?」
信じられない気持ちでオウム返しをしたスティーブンに、オリバーが深く頷いた。その後ろではエマが彼女が最後に着ていた焼け焦げたオーバーオールを愛おしそうに撫でている。
「どこに……」
「それはたとえ旦那様であっても、言えません」
頑としてそれ以上のことは言いそうにないオリバーを、これ以上詰問したところで彼女の居場所を教えるとは思えない。そう考えてエマを見たが、目をあわせてもくれなかった。
ただ、たった一言「今日はもうお帰り下さい」と言ったきり、老婦人はその口を開こうとはしなかった。こんなにいつも穏やかなこの老夫婦が憤るのを、幼い頃からスティーブンは見たことがない。それだけに今回のことが余程のことだったのだ。
三日前のあの騒ぎの後、屋敷内のゴタゴタを片付けてやっとここへ来てみればとうの彼女は行方が知れず、世話を任せていた老夫婦は口を開こうとしない。
「頼む。彼女に……謝りたいのだ」
最後に聞いたあの言葉が、頭の中にこびり付いて離れない。
そうどれだけ頭を下げて行方を問うても、二人は決して彼女の行方を教えてはくれなかった。うなだれて小屋を出ようとしたスティーブンの背中に、オリバーが静かだが厳しい声で言葉をかける。
「最初の時も、今回も。旦那様はあの子の言葉を訊いておやりにはならなんだ。こうなってしまったからにはもう、戻る戻らんはトモエ次第です」
返す言葉もなく小屋を出る。
空には月が輝いて、地上をその柔らかな光で照らし出した。
彼女の庭がある場所には黒い土が広がるだけで、まだ何もない。
あんなに楽しみにしていた庭がこの先完成することがないのかと思うと、唇の間から漏れる呻きのような泣き声を殺すことができなかった。
*******
「トモエ、その手袋をはめたらこの枝を目一杯しならせてくれ」
「わかりました!」
棘だらけの枝を体重をかけつつ、折れないようにしならせる。
「トモエ! それが終わったら休憩の時間にしましょう?」
蔓バラの誘引作業を手伝う私の背中に跳ねるような可愛らしい声がかけられた。
「こら、マーガレット。かってに、きゅうけいにしたらだめだよ」
苦笑してそう返す私に「構わないからお嬢様のところに行っておいで」とジェイコブさんが笑って言ってくれるので、お言葉に甘えてそうすることにした。
革製の丈夫な手袋を外すと、嫌でも真っ白い包帯が目に飛び込んでくる。忌々しい掌の火傷跡はまだひきつれるし醜く残っているが、もう痛みはあまり感じない。それに何かしていないと動かすのが億劫になる。
「その傷があるのに手伝ってもらって悪いね」
「いえ、とんでもないです。こうしていろいろ、おしえていただけて、とてもたのしいですから」
「そうかい? オリバーには礼を言わないとね、こんなに優秀な弟子を貸してくれるなんて。腰が悪いのを気にしてくれたんだろう?」
「ええ……きょねん、そういっていましたから」
会話の中にオリバーさんの名前が飛び出して一瞬、ビクリとしてしまう。けれど幸いジェイコブさんは気づかない。
オリバーさんと同年代のジェイコブさんは去年オリバーさんがお手伝いに来ていたウィリアムの屋敷の園丁さんだ。穏和な雰囲気もどことなく似ていて一緒に作業をしていると安心する。
ホッと胸をなで下ろしていたら、腰元にしびれを切らしたマーガレットが抱きついてきた。
「トモエったら! 早くいらして下さらないと、お母さまもお待ちですのに」
可愛いらしく唇を尖らせてそう言うマーガレットに、ジェイコブさんと顔を見合わせて笑った。
――さて、何故私が今マーガレットのところにいるかというと……遡ること三週間前。あの事件の夜に、オリバーさんがこう言ったのが始まりだった。
『トモエ、お前はこのままここにいたら壊れてしまう。そんなのはわしもエマも見たくない。だから、今から言うことをよくお聞き』
要約すればこのままスティーブンの屋敷にいては、いずれ精神が壊れてしまう。だから今はどこかに――知り合いの園丁を紹介するからそこに匿ってもらえるように手紙を書くからそれを持ってここを出ろ。屋敷内のほとぼりが冷めたら連絡する、と――。
そう言って、ここを紹介してくれたのだ。
しかし、いざマーガレットのいるこの屋敷の前に立ったら私は二人の言葉とは全く違うことをしでかした。スティーブンの遣いを語って応接室に通された私は、そこに現れたあの顔だけ野郎の顔面を思い切り殴りつけたのだ。
一緒にいた妖精さんが騒ぐかと思ったら、何故か涙が出るほどの爆笑をいただいてしまった。用件がすんだ私はそのまま逃走を試みたがあっさり警備に取り押さえられ、これまた何故か再び応接室に通された。
優男は怒り狂っていたけれど、隣の妖精さんはご機嫌なようだった。凶行の理由を訊かれた私は迷わず言った。『あいつを、いじめたから』だと。
そして当然あの屋敷を出てきた経緯も訊ねられたが、そこは『あいつと、おりあいが、わるくなった』からだと伝えるに留めた。そうしないと色々と面倒なことになりそうだったし、オリバーさん達に迷惑をかけられない。
私はあの日、ここに留まらずどこかへ消えてしまおうと思っていた。少しではあるが言葉も話せるようになったし、誰も私を知らない土地へ行ってずっと一人でいた方がもういっそ楽な気がしていたのだ。
――けれど、妖精さんから思ってもなかった提案をされた。
『アナタ面白いわね! その手、怪我をしているみたいだし、治るまでうちにいらっしゃいな。バラの手入れを手伝ってくれたらお給金もだすわよ?』
――決して、お給金に惹かれたわけでは……ある。
先立つもの欲しさに私はあっさりと提案を受け入れた。とりあえずは市井で部屋を借りて数ヶ月の生活が出来る金額を貯められるまで。そして絶対にここにいることをスティーブンに連絡しないという約束の元、この屋敷の空いている使用人部屋に間借りしているというわけだ。
久々の労働で得る対価はとても心を充実させてくれる。タダ飯ぐらいは本当に、金輪際ごめんだ。
「もぅトモエ、早くいらしてったら!」
グイグイと服の端をひくマーガレットは誕生日以来だが、あの時よりも去年初めて会った春先よりもずっと美しくなった。スティーブンとのことはマーガレットにも口止めをしておいたので、彼女がこうして私を誘ってくれるのも気を使ってのことだろう。
「はいはい、おじょうさま。いままいりますよ」
わざとおどけて口をきけば、弾けるような笑顔を向けてくれる。ふと、そんなマーガレットの目尻に浮かぶ笑い皺がスティーブンに似ていると思ったけれど、私は気のせいだと頭を振って笑い返した。
鬱展開お疲れさまでした(*´ω`*)
次回からは少しお話も上向くと思いますのでお付き合い頂けると嬉しいです。