3-2 彼女の後悔、彼の選択。
このページには鬱な要素があります(>ω<;)
苦手な方は飛ばして読むことをオススメします!
飛ばして読んでも内容は繋がるかと……たぶん。
「最近のトモエはどうかしたのか? 様子がおかしい気がするのだが……」
スティーブンがそう渋い表情をしたオリバーに訊ねるのも無理はなかった。
絵本の読み聞かせを始めてそろそろ春の八十日(約三月二十日前後)になろうとしているが、近頃の彼女は無断で休むことが多くなっている。けれどそれでも執務室にトモエが来ない日が三日も続くのは、初めてのことだった。
「いえ、それは……もうベリメの良い頃ですから。庭の仕事もそろそろ始める頃合いですので」
「もうか? まだ新芽が膨らんだくらいだろう?」
「ええ、その……ですが去年の暮れに、あの子と巻いたコモと言うのを剥がさねばならんのです」
「……それは今すぐでないと駄目なのか?」
「あの子が言うには、もう少し暖かくなってしまえばせっかく中で冬眠している虫が逃げてしまう、と」
オリバーはそう言って、スティーブンの不機嫌な表情を困った様子で見つめている。その表情は嘘をついているようには見えないが、かといって全てを話したようにも見えない。昔からこの老人は嘘がつけない質なのだ。
「まぁ良い。直接トモエに訊こう。彼女は自分の庭か?」
これ以上の尋問を無駄だと感じたスティーブンは「旦那様、」とオリバーが呼び止めるのも聞かず、庭園の端にある彼女の庭へと向かった。その足取りにはほんの少しだが苛立ちが見て取れ、荒く踏みしめられた地面に靴の跡が残った。
最近の彼女は以前とどこか違う。どこが、と訊かれてもすぐには答えにくいのだが……もっと正確に言うのなら“元に戻った”と言った方が正しいのかもしれない。最初に会った時のようにいきなり声をかけると、怯えたようにこちらを振り返ることがあった。
――それがとても、スティーブンは気に入らない。
「トモエ!」
約束の時間になっても現れずに、地面に座り込んで何かをしているその背中を見るとかける声も自然と尖る。しかしハッとした表情をして振り返った彼女を見て、スティーブンは自身の苛立ちが誤りであるような気がした。
「……すてぃーぶん」
目を見開いて訛りの抜けない声で自身を呼ぶ彼女を見てギクリとする。陽の光の下で彼女を見たのは久しぶりな気もするが問題はそこではない。
「ごめん、きょうもいけないんだ。どうしても、にわのしごとがしたくて」
スティーブンをチラリと見て逸らされた怯えた目、覇気のない声、色の失せた肌、少し痩けた頬。陽の光の下で見た彼女は、そのどれもがスティーブンの知る彼女とかけ離れていた。
絶句したスティーブンの表情に気付いた彼女は、無理に笑顔を浮かべてみせる。だが、ぎこちなく上がった口角には笑顔の欠片もない。
「そんなかお、するなよ。きずつく、だろう?」
立ち上がってスティーブンに近寄る彼女の足元には、大量の庭を描いた製図が散らばっていた。スティーブンに近付くにつれてその表情に以前の、こうなる前の彼女が戻ってくる。
「あしたは、いくよ。ちょっと、ちょうしが、よくないだけだ」
伸ばした手が頭に触れる。クシャリと撫でる手に、以前のような荒々しさはなかった。左右に撫でるその手を、スティーブンが頭から退かす。彼女は少しだけ驚いた表情をしてスティーブンを見上げていたが、何かを察してその手を引っ込めた。
「あしたは、おまえの、しってるわたしだ。だから、きょうはかえりな?」
スティーブンが慌てて何か言葉をかける前に、彼女は再び座り込んで製図を描き始めてしまった。彼女が、おかしい。そのことに気付いていたはずなのに。
執務室の中で見る彼女はいつも“以前のように”元気だった。だが執務室から出て行ったあとの彼女をスティーブンは見ていない。
言いようのない不安にかられたスティーブンが、彼女を問いただそうと一歩踏み出した肩を誰かに後ろから強引に引っ張られる。驚いて振り返ると、そこには苦しげな表情をしたオリバーが立っていた。
「今日のところはお帰り下さいませんか、旦那様」
重く低い声音がこれ以上彼女を苦しめるなと物語っている。まだしばらく逡巡していたスティーブンは、結局オリバーに言われるままに彼女の庭をあとにした。
《彼女に会える明日が怖い》
そんな風に思ったのは、彼女と出会ってから初めてのことだった。
*******
昨日はスティーブンに随分と情けないところを見せてしまった。きっとあのメンタルの弱いスティーブンのことだから心配しているに違いない。悪いことをしてしまったと思う反面、心配してくれる相手がいるのはやはり嬉しいものだ。
今日もあるであろう嫌がらせにも何とか立ち向かえるだろう。まぁ、それよりもまずは三日も無断で休んだことで落とされるだろうアイザックの雷が怖いのだが……。三日間ずっと庭の製図をしていたおかげで少しだけ心も落ち着いたし、頑張って聞き流そう。
そんなことを考えるうちに、いつの間にかスティーブンの執務室前に来ていた。勝手知ったるもので、軽くドアをノックした私はスティーブンの了解を聞くのと同時に部屋に入り込む。
「おはよう、すてぃーぶん」
メイド達曰わく訛りのきつい田舎言葉らしいが、通じれば問題もないだろう。使わないと慣れないし。
ただ勿論スティーブンに貰った黒板もちゃんと持ってきている。聞き取りにくい素振りをされたら、まだ黒板の力を借りなければならないからだ。しかしふと、声をかけたはずなのにまだスティーブンから返事がないことに気付く。
「すてぃーぶん?」
おかしいな。目の前のスティーブンはちゃんと私を目視しているはずなのに、近寄っても来ない。どこか困っている様子だ。
……昨日の様子を見られたからだろう。仕方がないのでこちらから近付く。
「きにするなって、いった、よな?」
手を伸ばそうかと思ったが、昨日のことがあるので止めた。不安な時に不安定な人間に触れられると、不安が増幅されるだけだからだ。だから私は二歩分の間を空けて声をかけた。
「きのうは、ごめんな。ふあんに、させた。よみきかせ、いやなら、あした、でなおすぞ?」
この世界に来てあまり喋らなかったせいか、少し前から声が出にくい。初めて名前を呼ぶ約束を守った日のことを思い出す。聞き取りにくいからか何度も何度も呼ばせるので、最終的に真っ正面から大声で呼ぶ羽目になったな。
そんなことをボンヤリ考えていた私は、スティーブンがこちらに歩み寄っていたのに気付かなかった。
「――こら、まえも、いった、だろう。すぐに、だきしめる、よくない」
大した抵抗もしないでその胸に頭を押し付けられる。心音は、少しだけ早い。ただ、どうしてだろう。今はずっとこうしていて欲しい気分だった。一瞬その背中に腕を回そうかと考えて、ここが屋敷内の執務室であることに思い至る。
――手を、拒絶の為に前に押し出す。すると抱擁はあっさりと解かれて、二人の間に隙間ができる。
「あしたのほうが、よさそうだ」
そう言ってみたものの、まだ部屋から出る気にはなれない。どうしようかと悩んでいたら、またスティーブンが抱きしめてくる。今度はさっきよりも少しだけ強い力で。
「すてぃーぶん……」
苦笑混じりに押し返そうとした私の頭に大きなその手が触れる。不器用に左右に撫でられると、鼻の奥がつんとした。このまま撫でられていたら泣かされそうだ。そんなのは年上のプライドが許さない。
慌ててもがいてみるも、抵抗虚しくさらに強く抱きしめられた。疲れて気弱になっている時に強く抱きしめられると涙腺が弱くなる。だからこれは仕方がないことだと、そう自分に言い訳してスティーブンの背中に腕を回す。胸に顔を押し付けて腹に力を入れ、何とか涙を飲み込んだ。
――もっとこの時、注意していれば良かった。
それでもこの時だけはどうしても、誰かに抱きしめて欲しかったんだ。
*******
「旦那様、少しよろしいですか?」
アイザックがこういう前置きをする時は大抵ろくでもないことか、お小言のどちらか。またはそれのどちらもであるのが常だ。
スティーブンは今年の麦畑の視察予定が書かれた書類を読み進める手を止めて、視線を執事長に向ける。明らかに警戒しているスティーブンにアイザックが人好きのしない冷たい印象の微笑みを向けた。
「おや、その表情は何か思い当たる節がございますか?」
「――妙な勘ぐりはよせ。どうせまた叔父上からの手紙で縁談の話でも出たのだろう?もしくは……」
ウィリアムの話題から一転、スティーブンは言い淀んだ。当然その隙を見逃すアイザックではない。
「そう、思い当たることがございますね。ウィリアム様からのお手紙は毎年のことですから……今回はトモエのことです」
アイザックに彼女の名前を出されたスティーブンは、危うく手にしていた書類を握りつぶしそうになった。続く言葉を聞きたくはないが、アイザックはスティーブンの反応に満足そうに頷くとそのまま話し始めた。
「ここしばらく――というより、旦那様が読み聞かせを始められた頃から彼女がメイド達に嫌がらせを受けております」
この報告に一瞬時間が止まった。勿論実際に止まったわけではないが、スティーブンにはそれだけの威力があった。全く予期しなかった報告に目を見開いている若い当主に、アイザックは深い溜め息をつく。
「もしやお気づきでなかったのですか? あの娘は毎日何の仕事もせずに旦那様と過ごすだけ。他の使用人がどう思うかお分かりになりませんでしたか」
その言葉には呆れも憤りもない。事実を淡々と述べているだけだ。
「ですが本来使用人とは主人のなすことに忠実で、口答えはおろか言葉を交わす機会も下級使用人にはありません。それを最近入ったばかりの最も下級の使用人がしている。――先日、使用人食堂でとある噂を耳にしました」
アイザックの瞳に執事長としての威厳めいた光が宿る。長年勤めてきた主家の若い当主を窘める使用人の長たる自負が。
「口さがない噂は慎むようにその場で厳重に注意しておきましたが……何の噂かはお分かりですね?」
もはや書類を読むどころではなくなったスティーブンにアイザックはさらなる追い討ちをかけた。
「彼女一人に情をかけるおつもりであれば、僭越ではございますが、先に身を固めることをお勧めさせていただきます。であれば、メイド達も下らない噂話に現をぬかすこともしなくなるでしょう」
それは暗にスティーブンに彼女を切り捨てろと言っているも同然だった。しかしアイザックの言葉にはほんの少しではあるが同情が滲んでいる。
最初に彼女の教育係をかって出たのはアイザックだ。彼女が自身の知らない場所で今までどんな仕打ちを受けていたのか。
ここしばらくの彼女を思い返してみれば分かりそうなものを、彼女を手元に置けることに浮かれていた自分に、スティーブンはかつて叔父のウィリアムにすら向けたことのない殺意を抱いた。
「彼女をこのまま手元に置くのであればその手段は二択です。一つはオリバーの元に彼女を住まわせ、他の下級使用人と同じように接する。もう一つはウィリアム様からのご提案をお受けになられる。どちらかの道以外はございません。どうか、ご決断を」
ただの己の我が儘だとしても。スティーブンには彼女を手離す道はなかった。それが彼女をこの先苦しめることになるとしても、だ。
――スティーブンは決断する。
「彼女をオリバーの元へ。それ以外の外出を禁じ、必要とあれば見張りをつけろ」
一定の範囲内であれ、実質的な監禁とさほど変わらない状況に彼女を押し込めることになろうとも。
「――彼女は“ただの使用人”だ」
しかしこの血を吐くような判断を下した僅か数日後に、あの事件は起こったのだった。