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2-10  ハロー、ミスターサリバン先生。



 翌日。まだ日も昇りきらない時間にオリバー達の待つ小屋に帰ると、二人して無断外泊を怒られた。


 オリバーとエマの話ではスティーブン達がいないとわかったエミリーとマーガレットは、ここに長くは留まらずに帰ったという。その諦めの良さにスティーブンは不気味なものを感じたが、今回は彼女を連れ去られなかっただけで充分だった。


 年は越してしまったものの、昨夜食べるはずだった夕食を温めなおして四人で食事をとったのだが……狭い食卓に大人が四人ともなると、ギュウギュウになってしまう。しかし広くても誰も席についていない食卓よりもずっと良いとスティーブンは思った。


 皿に取り分けられた料理は彼女とエマの自信作だという。オリバーも嬉しそうに頷いて四人で新年の挨拶と共に朝からワインをあおった。


 小さな家族の食卓。それがこんなに温かいとは、少し彼女が羨ましい。贈り物の交換を先に済ませてしまったスティーブンは、彼女がオリバーとエマに自信なさそうに贈り物を手渡すのを見守る。


 エマには不思議な幾何学模様の素朴な木彫りのブローチ。オリバーにはピカピカに磨き上げた庭道具一式と、実に彼女らしい相手を観察した贈り物だった。二人が喜ぶ顔を見ている嬉しそうな横顔を見て、スティーブンも嬉しくなる。

 

 そして問題の勝敗だが――。


 オリバーに完敗したのは言うまでもない。


 彼女は早速庭に植える植物を考えたり、製図をひきたいとオリバーにせがむ。多少悔しい気持ちはあったものの、あそこまで喜ぶ顔を見られたことはスティーブンにとっても悪いことではなかった。


 それもオリバーの勝ち誇った顔を見るまでだったが……。


 エマからはいつもオリバーのお下がりだったオーバーオールを彼女の為に仕立てた物を渡している。オリーブ色のオーバーオールは彼女に良く似合う。ジェームズからは鍋つかみが、ジョンからは作業用の手袋が贈られてきていた。


 《二人とも昨夜は心配していましたわ》とエマが教えてくれたので、後で屋敷に戻る前にでも覗いていこうということになった。


 二人の前ではしゃいでいる彼女を見ていると、昨夜のことが遠いことのように感じて少し寂しいとは我が儘だろうかと感じる一方で、楽しい時間はあっという間に過ぎ、もうそろそろ仕事の為に屋敷に戻る頃になる。


 三人は新年明けの五日間は仕事を休んで身体を休めるようにと言葉をかけ、スティーブンは彼女とオリバー達に別れを告げた。


 一人で屋敷に戻ろうとするスティーブンに【途中まで送る】とトモエが綴り、それでは辞退することもないからと連れ立って表に出た。オリバー達が手を振って見送る姿が木々に紛れて見えなくなると、急に隣を歩いていたトモエが立ち止まる。


 何事かとスティーブンが立ち止まって彼女を見た。すると前に回り込んできたトモエが突然抱きしめてくる。背の釣り合いから腰の辺りに抱き付く形のせいで、ちょうど胸の辺りに彼女の頭がくる。一瞬驚いたが悪い気はしなかった。


 彼女なりの励ましにスティーブンも親愛の情を込めて抱きしめ返す。そうして別れた屋敷への帰り道は、いつもより少し足取りが軽かった。



*******



 年明けの五日をのんびりと過ごした私は今、何故だかスティーブンの屋敷で行われる朝礼に参加させられていた。ここまで注目される人生ではなかった私は、すぐにでもオリバーさん達のもとへ逃げ帰りたい気持ちで一杯である。


 隣に立つスティーブンに恨みがましい視線を向けるが、ふとその表情がいつもより固い気がした。自分の屋敷内だというのに緊張しているみたいだが……。


 整列した人達の中で頭一つ分飛び出したジェームズの赤ら顔が見える。見事な赤毛に大きな身体だから黒いお仕着せの中でとても目立つ。目があったことに気付いたジェームズが手を振ってきたので、こちらも控えめに振り返す。


「今日からこの屋敷に使用人が増える。この者は園丁のオリバーの元に最近住み込みで庭仕事を教わりにきたトモエだ。彼女は他国の出身者なので私達の言葉が理解できないが、読み書きは私達と同様の水準だ。彼女を呼び止める際は身振りで指示してやって欲しい」

 

 隣のスティーブンが何か言った途端に目の前の人達がざわめきだした。その中でジェームズだけが嬉しそうな顔をしている。ちらりと周辺を見回してみても、困惑している私に向けられた視線はどれもあまり友好的ではないようだ。特に若いメイドさん。それに執事さんらしき人もだ。


「話しかける時は彼女の持っている黒板に書き込んでやってくれ。手間をとらせるがこれからこの屋敷内で見かけることもあると思う。その時は皆よくしてやってくれ。以上だ」

 

 スティーブンの演説(?)が終わると皆さんの表情がさらに微妙なことになってしまった。オイオイ、何を言ったんだよ……明らかに歓迎されてないじゃないか。


 しかし冷や冷やしている私をよそに、皆さんがやけに規律正しい一礼をした。スティーブンはそれに鷹揚に一つ頷くと部屋から出る戸口に向かってしまう。その場に残された私が一瞬真っ白になっていると部屋から先に出たはずのスティーブンがこちらに手招きしている。


 視線が集中する中をギクシャクしながら戸口へと向かう。その背中に何かヒソヒソと話し声が聞こえたけど、たぶんろくなことは言われてないな。言葉は通じなくてもその声音から察せられた。


 廊下に出てしばらくはどちらも親しい素振りは見せないで歩く。どこで誰が見ているか知れないのは怖いものだ。テレビでやっていた英国ドラマの中のメイド達は、それこそ恐ろしいくらいのバトルを繰り広げていた。


 この国がそうだとは言わないが似たような空気をさっきの部屋で感じた身としてはちょっとこの先が思いやられる。いくつか廊下の角を曲がって、ようやく先を歩いていたスティーブンが立ち止まった。少しの間人の気配を探っていたスティーブンがやっとこちらを振り向く。


【さっきのは何だったんだよ?朝から何の説明もなく連れてきてアレだ。お前が秘密主義なのは知ってるけどな、こっちは滅茶苦茶怖かったぞ】


 抑えていた不満をこれでもかと黒板に書き込んだ。考えてみて欲しい。今までそんなに人と関わりを持ってこなかった人間が何の説明もなしに大勢の前に引きずり出される気持ちを。


【マーガレットのパーティーで知ってるだろう? 私は視線恐怖症持ちなんだ! 次に何の説明もなかったらぶん殴っ――】


 てやるからな、と書こうとした私の手をスティーブンが握る。クソ……一歩がデカい奴はこれだから嫌なんだ。握り込んだ手をなかなか離そうとしないスティーブン。


 ……んん? この状況は屋敷の人間に見られるとヤバいのでは? そう焦る私にお構いなしでスティーブンがさらに距離を詰めてくる。もう後少しで頭突きができそうな距離にまで近付いた時だ。


「……旦那様、屋敷内でそういう行為をされるのでしたらせめて自室になされた方が良いかと。どこにメイド達の目があるかもしれませんので」


 ほら見たことか! と心臓が縮み上がる。背後からの声に驚きすぎて硬直している私を見て、スティーブンが咽の奥で笑った。それが段々と肩に背中にと伝わって今や全身で笑いを殺している。


 手を離してくれたのはありがたいがその手で口を押さえるなよ。


「……旦那様」


「すまん、これの反応が思いのほか良くてな。お前がついてきているのは分かっていた。今から始まるのは説教か? だとしたら悪いが、それを聞いている暇はないぞアイザック」


「でしたらその様なお戯れはなさらないで下さいませ。もしもここにいたのがわたしでなければどうされるおつもりですか?」


「お前だという確信がなければやらない」


 私の上で飛び交う会話の内容は全く分からないが、これは……セーフか? スティーブンを伺うと軽く目の縁に涙が浮かんでいる。笑いすぎだろうが、こっちがどれだけびっくりしたと思ってるんだと睨む。


 視線に気付いたスティーブンはまたおかしなツボにはまったのか身体を震わせている。


「随分とお気に召されておいでのご様子ですが……。その娘は本当に言葉を話せないのですか? 旦那様の気を引くためということは?」


 背後の声が止まないので振り返ろうとしたら、強く肩を掴まれた。


「……一度は聞き流すが次はないぞ、アイザック」


 スティーブンはうっすらと笑っている。なのにその声には、隠しようのない怒気が滲んでいた。どういった会話でこんなに怒るのか分からないが、何か嫌みを言われたのだろうか。だったら――。


【あんまりコイツを苛めないでやってくれないか】


 聖誕祭の夜を思い出してしまった私はつい、そう黒板に書き込んで振り返ってしまった。振り返ってからもう少し丁寧な文面にすれば良かったと後悔したがもう遅い。


 そこにいたのは、さっき私を歓迎していない枠の目で見ていた執事さんだった。頭に血が上っていて声が老けているというのに気付いていても抑えられなかったんだよ……。


 シルバーグレーの髪をオールバックにした初老の男性。身長はそこそこあるけど身体は細い。切れ長で神経質そうな瞳は深い緑色をしている。取っ付きにくい雰囲気の人だ。


 ――ええい、ままよ! すっかり開き直った私は一旦文字を消した後、さらに書き込んだ。


【私を歓迎していないのは見れば分かる。気に食わないんだろうけど、だったら直接私に言えばいい。自分の屋敷内なのにコイツが緊張するなんておかしいだろう】


 ここでも心が休まらないなんてあんまりだ。味方のいない試合なんてどうかしてるぜ。


「ほぅ、これはこれは――」


「トモエ……」


 ギラリと執事さんの目が光った。あ~……これは怒らせたかな。そう思っていたら意外にも執事さんは笑い出してしまった。何だか最近笑われてばかりだ。不本意すぎる。


 しかししかし、何を思ったのか執事さんは背後にスティーブンを庇っていた私の目の前まで歩いてくると恭しくお辞儀をしてくれた。全く理解の及ばない状況に目を丸くしていたら、背後のスティーブンが私の黒板を取り上げて嬉しそうに微笑んだ。


「さすが旦那様の気に入りだけに良い度胸をしておられますな。こちらの口のきき方を知らない使用人にはわたし自ら躾をつけても宜しいですか?」


 執事さんからひたりと向けられた視線に妙に胸の奥がざわつく。


「――頼めるか?」


「御意のままに」


 勝手に何かの盟約を取り決められている雰囲気にゾッとするが、もう遅い。執事さんは明らかに危険な笑顔を向けて私の黒板にこう書き込んだ。


【覚悟しなさい小娘】と――……。



*******



 さっきからもう何度目か。普段であれば静寂に包まれているはずの図書室に乾いた音が響いた。アイザックの持つ物差しが彼女の手の甲を打つ。もはや手を引っ込めることもしなくなったトモエは、死んだ魚のような目でそれを受けていた。


 ――あの出会いから一週間。


 彼女がアイザックに啖呵を切った翌日からこのシゴキ……もとい、教育が始まったのだがこれがかなりの厳しさで、今朝もオリバーからもう少し加減をしてやって欲しいと言われたほどだった。


 だが、アイザックにはこの他にも山ほど仕事があるのでそうもいかない。


 メイド長とも話し合った結果、トモエが目の届かない場所で他のメイドから何かされないとも限らないという見解が一致したため、メイド達が苦手としているアイザックにトモエの身柄を任せることになった。


「おやおや、本当に飲み込みの悪い頭でいらっしゃる。まだお若いのにその様に吸収が悪いと将来困りますぞ」


 限られた時間でいかに物を憶えさせるか。楽しげに物差しを操るアイザックを見るトモエの目には怒りも哀しみもない。ただの無だ。


 そういう表情をしていると本当に癖のない顔なのだなと感心してしまうほど、彼女の顔は無個性だ。


「アイザック……あまり苛めるな。トモエから生気がなくなっている。詰め込むだけでは疲れるばかりで効率も下がる。一度休憩を挟んだらどうだ」


「甘やかすのはわたしのやり方ではありませんが、旦那様がそう仰るのでしたらしかたがございません。ではお茶の用意をさせて参りましょうか」


 アイザックは一瞬不満そうな顔をしたものの、納得してジェームズのいる使用人用の食堂へ行ってしまう。二人だけで残された図書室はほんの少し前なのに懐かしい気がした。


【庭仕事したい】


【まだ季節じゃないから言葉の発音を憶えると言ったのはトモエだろう?】


【憶えきれん】


【憶えてくれ】


 アイザックは厳しいが有能だ。トモエもこうして文句を書き込みはするものの、かなり頑張っている。


 このままいけば、早ければ(シュリフ)には声を使って意志の疎通をはかれるかもしれない。そう思えばこそスティーブンはアイザックの厳しいシゴキにも口を挟めないのだ。


【俺は早くお前と話してみたい】


【そりゃあ……私だって、そうだけどさぁ】


【頼みがある】


【は? この期に及んで頼みごととか良い度胸だな?】


 かなり気が立っているのか言葉が荒いトモエにスティーブンは苦笑する。それに気付いた彼女はバツ悪そうな表情を浮かべて黒板に向かう。


【冗談だよ。言ってみろ】


 黒板のその文字に温かいものを感じてスティーブンは微笑む。


【一番最初に俺の名前を呼んで欲しい】


 このシゴキ生活が始まった日から、それだけは絶対にオリバー達にも譲れないと思っていたのだ。だからこうして二人だけになるチャンスまで作った。黒板を見た彼女は小さく笑う。


【気が早い奴だな】


【それだけ待ち遠しいんだと思ってくれ】


 こうして軽口を叩ける相手が彼女であればいい。そんな願いを込めた黒板の文字に、トモエは苦笑して返答した。


【分かったよ、私が最初に呼ぶ名前はスティーブン。お前で良いよ】


 その返答を聞けただけで。今日の執務がだいぶ捗りそうだった。


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