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2-9・1 冬の夜の夢



 バーラムを駆けさせながら腕の中で震えているトモエを抱き寄せる。身体を硬くしたのが腕に伝わるが、聖誕祭の寒さは堪えるので我慢していてくれと胸の中で詫びた。


 バーラムの鬣を掴んでいた手を引き離して手綱を操る自身の手の中に握り込むと、思いのほか小さかった彼女の手はすっぽりとおさまってしまった。ゴツッ、と胸の辺りに頭突きをされたがあまり痛くない。


 暗闇で顔が見えないので分かりづらいが照れ隠しのようだ。こんな時なのに口許が綻ぶ。


 バーラムの背に乗ったままスティーブンはある場所に向かって駆けていた。本当はもっと違う形で連れて行きたかった場所だったのだが、この寒空の下で他に暖をとれそうな場所を思い付かない。


 月が、星が、瞬き照らす夜の草原は、まるで銀の波間を泳いでいるような幻想的な光景だ。キンとした空気がこの後に雪を降らせるだろうと予感させるが、今はまだ冴え冴えとした光で満ちている。


 バーラムの脚を遅めて振り返る。そこには銀の波があるだけでもう屋敷の灯りは見えない。ならばせめてこの光景を少しでもゆっくり彼女と見ていたかった。


 バーラムの速度を常歩まで落として草原を行くこと数十分、腕の中で急にトモエが歌い始めた。


 独特の音階はこの国にはない柔らかなもので、哀しげな旋律が彼女の女性にしては低くて深みのある声に良くあう。異国の言葉で歌を聴くのは珍しくないが、彼女の国の言葉はこういった歌に波長があうらしい。


 バーラムも耳を傾けているのか、緩やかで安定した歩みをしてくれているので、さっきまでのささくれて余裕のない気分が和んだ。彼女もバーラムの背がそれほど揺れないようになると気分が乗ったのか、次第に歌に感情が籠もる。


 低く高く、緩やかに。まるで今この時を歌にしたかのようだ。


 けれどそう長い歌ではなかったらしく、すぐに終わってしまう。


 残念に感じたのも束の間、彼女はすっかり歌う気分になったようでその歌が終わるとまた違う曲を口ずさみ始めた。今度の歌もさっきの歌と同じ、緩やかで哀しげな旋律。


 もしかすると彼女の国はこうした叙情的な景色が多いのかも知れない。


 ――だとすれば、きっと。きっととても優しくて美しい景色が広がる国に違いない。彼女が今も帰りたくなる、そんな国。スティーブンは歌うトモエの頭に顎を乗せて、彼女の視線の先を追う。


 ユラユラ揺れる馬上から見えるのはサラサラ流れる銀の波。


 寒空の下で聴く彼女の声は時に空に昇るように、時に水に潜るように草原に響く。不思議な歌の旋律は複雑でもあり、単調でもある。


 いくつかの歌を聴いていると同調出来そうな気がする歌もあった。中でもスティーブンが一番気に入ったのは一番最初に聴いた歌だった。


 もう一度あの歌を聴きたくて、スティーブンは握り込んでいた彼女の手を離すと、その身体を両端からしっかり支えたまま掌を上向かせる。その掌は今まで社交の場で会ってきた女性達の誰とも違う。


 表面はゴツゴツと硬く、指先はザラザラに荒れている。


 一目でそれとわかる、働く人間の手だ。


 顎の下にあったトモエの頭が少しだけ上向きそうになったが、それを押さえ込む。バランスが一瞬崩れかけたのを察した彼女は再び上向けられた掌に視線を落とした。その掌にスティーブンの太くて長い指が走ると、トモエが声を上げる。


 どうやらくすぐったかったようだが、互いの掌を一旦重ねて触ることを確認する。そうして再び走らされたスティーブンの指先に、トモエが意識を集中させた。


 黒板のようにはいかないので一文字ずつゆっくりと指で掌になぞり書く。すると書かれた文字の意味を頭の中で組み立てた彼女が、笑う気配がした。


 【最初の、歌を、もう一度】


 そんなスティーブンの望み通り、トモエは再び最初の歌を歌い出す。最後まで歌い終えれば、その掌にスティーブンの指先が同じ文面を綴る。そのリクエストに呆れることもなく、彼女はゆったり歌い続けた。


 途中からはそれに合わせてスティーブンも加わる。少し驚いた彼女の気配を感じたが、それもすぐに消えた。


 ―――腕の中に抱え込んだ彼女の声が、胸の内に響いて心地良い。


 今だけは言葉が通じなくても構わない。


 今日だけは、今だけは。


 銀の波はサラサラと、馬上の二人はユラユラ揺れる。



*******



 私が歌う声にスティーブンの声が重なった時は驚いた。日本語は確か世界の言語の中でも屈指の複雑さだと聞いたことがある。フィンランド語と並ぶと何かで読んだ。


 ともすればマーガレットと同様に耳と地頭が良い可能性がある。それともこの国の人は他民族の言語を吸収しやすい性質でもあるのだろうか? だとしたら羨ましい。


 それはともかく、スティーブンの歌声はなかなか心地良い。


 内側から響いてくるような伸びのある低音が、この曲にも合っていて一人で歌うより感情が籠もる。しかし随分と気に入ったのか何度もリクエストしてくるものだから、ついにはこれだけ歌う羽目になってしまった。


 さっきから繰り返し歌っている“月の砂漠”とは正反対の景色なのに、今の状態に妙にしっくりきている。馬鹿親父が酒に酔うと大声で歌っていたから何となく憶えてしまった歌なのだが、こういう場所で歌うと本来の叙情的な歌詞が活きるな。


 金色がないものの、銀色に溢れる景色はとても美しい。寒空の下に拉致された時は後で殴ろうと思っていたのに、我ながら現金なものだ。背中から覆い被さるようにして風除けになってくれているスティーブンにも多少は感謝する。


 そもそも連れ出さなければいいのだが。コイツは何か勘違いしているだけで、そもそもあの二人が私を拉致する理由がない……ハズ。多少自信はないが、あの日は何も壊したりしていない……と思う。


 まぁ、ないとも言い切れないなと考え直す。あれだけ動揺して走ったのだ。何かにぶつかって壊したりしていても気付かなかった可能性はある。そんなことを歌う合間、途切れ途切れに考えていた。


 随分まったりしながらバーラムに揺られていた私とスティーブンだったが、不意に前方に家の囲いらしきものが見えた。まだ少し遠いから分かりづらいものの、庭がある。


 庭木が茂っているせいで肝心の家が見えないが、このまま近付いていけば分かるだろう。


 私が前方に気を取られているのに気付いたスティーブンがバーラムの腹を軽く蹴る。利口なバーラムは揺れがひどくならない程度の速歩に入った。遠く感じた距離が一気に近付く。うーん、便利だ。


 あちらの世界にもしも戻れたら乗馬を習ってみても良いかもしれない。


 そんなことを考えている間にもう庭の門扉だ。低い焼きレンガの塀は侵入者を拒むと言うよりこの内側と外側の世界を区切るために存在しているらしく、圧迫感があまりない。


 可愛らしい門扉も含めてまるで“秘密の花園”だ。庭師になったのはあの本の影響も大きかった気がする。懐かしいな――。


 バーラムの背中で感慨に耽っていると、いつの間にか地面に降りていたスティーブンが下から手を差し伸べている。やっぱり乗馬を習う線はなしだ。悔しいがコイツがいないと降りられないようでは論外だろう。


 教えてくれる人に毎回助けてくれとは言えないし、諦めるか……。そんなことを考えながら渋々スティーブンに手を伸ばすと、グッと身体を乗り出した私の腕をいきなりスティーブンが引っ張る。


 結果「うぉっ!?」と可愛げの微塵も感じさせない声を上げて、その腕の中に抱き留められた。どうせまた笑っているのだろうと見上げると、意外にもその表情は暗い。


 首から下げた半分になってしまった黒板に【どうかしたのか?】と書き込もうとした、その時……急に抱きしめられた。もしや寒かったのだろうか? だとしても反応に困るな。


 しかし落ち込んでいるのかもしれないと思い直して抱きしめ返してみた。私の身長ではちょうどこのデカい図体の弟分の胸の位置くらいに頭がくる。気のせいか心持ち心音が早い。


 まずは落ち着かせようと外套の上から背中をさすってやる。“大丈夫、怖くない”こんな真面目な時に某有名アニメの台詞が頭に浮かんで、そんな自分の俗物加減に思わず吹き出してしまった。


 おっと、イカンと真面目な顔を作って上を見ると怪訝な表情をしたスティーブンと目があう。そんな表情のスティーブンを引き剥がして何事もなかったような顔で黒板に【取り敢えず中に入ろう】と書き込んだ。スティーブンは何か言いたそうにしていたけれど、渋々頷いた。


 門扉は軽く軋んだ音を立てて私達を迎え入れてくれる。庭の中は荒れてはいるものの、要所要所に手入れの跡がある。暗くて詳しいことまでは分からないが、そこまで荒れてはいない様子だ。


 奥の方に目を凝らすと、小屋というには可愛らしい建物が建っていた。ちょうど〇ルバニア〇ァミリーのような感じの家。ぜひ明るい時間に全貌を見てみたいものだが、あれは誰の家だろうか? 


 庭がこの状態で、家の中にも灯りらしいものはない。振り返ればスティーブンが門柱にバーラムを繋いでいるところだった。ひとまず【あの家、入れるのかな?】と黒板で訊ねるが、月明かりが陰ってきたせいで読み辛い。


 風もだいぶ冷たくなってきたので、とにかくダメ元で家に近づく。ドアノブに手をかけようとしたらスティーブンが後ろからヌッと現れ、鍵らしき物を差し込んで開けてしまった。


 鍵があるってことはお前の家の管理物件か。なら最初から言えよ……とは思うけれど、鍵を開けたスティーブンはそんなツッコミをいれて良さそうな感じではない。


 一歩踏み入れた室内は埃と土の匂いがした。何となくだが使われなくなってまだそう年月を経ていない気がする。気候のせいかカビや湿気の心配もしなくてよさそうだ。


 手探りで歩を進めている私と違い、スティーブンは何がどこにあるか把握しているらしい。ここは下手に動かない方が良さそうだと判断して近くにあった小さな椅子に腰を下ろす。


 木を積み上げる音と、マッチをする音がした。少しの静寂の後、室内が仄かな灯りに照らし出された。灯りに目を慣らしてから部屋の中を見回してみるも、最初に思ったのは“ああ、やっぱり”だった。おそらくここは誰かの、たぶんスティーブンの近しい人の保養所だったのだろう。


 一人用のベッドの傍らにある長椅子とせいぜい二、三人分の飲み物しか置けそうにないテーブル。


 それから――暇を持て余させないですむように、この小屋には不釣り合いな大きさの本棚。品の良い家具の中に小さなドレッサーがあった。どうやらここにいたのは女性らしい。


 私が部屋の中を観察している間、スティーブンは大きな背中を丸めて暖炉の火を見つめていた。隣に屈み込むとその顔がこちらを向く。


 何と書けば良いのか一瞬悩んだものの【暖かいな】と笑って黒板を見せると、ほんの微かに笑った。しばらく二人で暖炉の火が大きくなるのを見ていたが、急にスティーブンが外套の中を漁り始める。


 何かと思って覗き込んだ私の目の前に、新書版サイズより少し大きい箱が差し出された。どこにこんな物を隠し持っていたんだと訝しむ私に、押し付けるように渡してくるので受け取る。


 こちらが受け取ったことを確認すると、早速【開けてみてくれ】と黒板に書き込まれたので言われるままに開けた。箱の中から現れたのは同じ大きさの本……だろうか? 随分と凝った木製の装丁に蔦植物のレリーフを彫り込んである。


 困惑気味にスティーブンを見ると、内容の説明は追加されず【開いてみてくれ】と書かれたままの黒板を向けられる。


 困惑しつつもソッと表紙……だと思っていた物を開くと、中には見慣れた黒い板が張り付けられていた。意外性に目を丸くしているとスティーブンが笑う気配がして顔を上げる。


【聖誕祭の贈り物だ。受け取ってくれるか?】


 そう書かれた黒板を向けられた私は先を越されたことに少し腹が立ったものの、そのちょっと気障でセンスの良い贈り物にさっそく書き込む。


【凄く格好良い。ありがとうな】


 私の短い礼に、スティーブンが嬉しそうに目を細めた。灰がかった青い瞳に暖炉の火が踊る。綺麗だな、と思う。最近見慣れた顔だからか、以前のように好みでないとは言い切れなくなってきた。


 身内の欲目だろうか? 長く見つめすぎたのかスティーブンが首を傾げている。たぶん“どうした?”とその目は言っているのだろう。


 慌てて首を振って何でもないと告げるが、これだけは言わねば気が済まない。私は新しくなった黒板にできるだけ音を立てないように書き込んだ。



*******



【お前ばっかり良い格好してずるいぞ。私だって用意したのに!】


 贈ったばかりの黒板に書き込まれた文字に、思わず声を上げて笑ったスティーブンの肩にトモエの拳がぶつかる。笑いの止まらないスティーブンに対して、トモエは怒りがおさまらない様子だ。


 けれどそれも、スティーブンが外套の下から取り出した小さな包みを見た途端おさまった。


【――何でお前が持ってんだよ】


 そう書き込まれた黒板の返事をさっきまで彼女が愛用していた黒板に書き込む。


【トモエを連れ出す時にエマが持たせてくれた】


 それを読んだ彼女はスティーブンの手からその包みをもぎ取ると、今度はそれを両手で差し出してきた。


【……ほら、お返しに。聖誕祭のプレゼント】


 負けず嫌いな彼女らしい渡し方にスティーブンは笑うのを止めて、差し出された小さな包みを見つめる。


【小さくて、悪いけど】


 あまり見つめすぎたせいで気を悪くしたと勘違いされたようだ。


【いや、まさかもらえるとは思っていなかったから、】


【少し驚いただけだ。その、開けてみても構わないか?】


 スティーブンの文字を追っていたトモエが、コクリと頷いた。了承を得たところで小さな包みを開く。そこにあった物を見たスティーブンの目が見開かれる。顔を上げると彼女の満足した表情がすぐそこにあった。


【あれだな、あの話を思い出すよ】


【どんな話だ?】


【結婚してまだ間もない若い夫婦がいた。貧しい生活の中でも幸せで、仲も良い。今日みたいな特別な日に夫は妻の美しい髪を飾る櫛を、妻は夫が大切にしていた父親の形見の懐中時計に付ける銀の鎖を贈ってやりたかったんだ。でも、そんな金はどこにもなくて―――】


 心なしか彼女の表情が陰る。しかしそれは単に暖炉の火が揺らめいたせいかもしれない。


【……それで?】


【うん、それでな。妻は髪を売って銀の鎖を買い、夫は懐中時計を売って鼈甲の櫛を買うんだ。そしてお互いにそれを贈りあって、それを必要としていた物を既に失っていることに気付くんだ。でも、それで良い。二人は貧しい生活だったけど……お互いを大切に一生を共に生きるんだ】


 少し迷ったようにチョークを持つ手が止まり、すぐに【それに今の状況がちょっとだけ似ているな】と彼女は照れくさそうに、そしてどこか寂しそうに言葉を締めくくった。


 暖炉の火がはぜる。


 暖かな部屋の中で。


 ご馳走はなくても。


 ―――ここは少し、幸せだ。

 

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