第2話 一人ぼっちの十字軍①
チーズが焦げる芳ばしい香りが厨房に広がり、目ざとく嗅ぎつけたミトラが窯の前へと駆け寄ってくる。白パンの上にヤギ乳のチーズを乗せただけの簡単な料理であったが、初めて食べた時からミトラはすっかりその味の虜になっていたのだった。
「まったく、ミトラは食いしん坊だねえ」
「これはお店に出す分だから、つまみ食いしたらダメだぞ」
パン屋の夫婦であるメイとジュードがこっそり手を伸ばそうとしていたミトラを戒める。ミトラは照れたように舌を出しながら頬を赤らめた。
「だっておじ様たちのパン、とっても美味しいんですもの。毎日食べても飽きないくらいだわ」
「町のお客さんが全員、あんたみたいな舌だったら商売繁盛なのにねえ。でもそれだったら、材料がなくなって逆に大変かも」
呆れたように溜息をつくメイに、ミトラはむっとして唇を尖らせた。私、そんなに食いしん坊じゃないもん。
「冗談だよ、冗談。ほら、パンを一つあげるから、店に並べるのを手伝ってくれるかい?」
「やったぁ! おばさま、大好き!」
エプロンをきたメイのふくよかな胸に、ミトラは思いっきり抱きついた。まるで親に甘える子猫のようなその動作に、やれやれとメイは肩をすくめながらも優しく彼女の髪を撫でてやる。くすぐったそうにふるふると首を振るミトラであったが、もっと頭を撫でろと言わんばかりにメイの胸に頬ずりをした。
「まったくもう、あんたは変わってるねえ」
悪態をつきながらも、メイは無意識に頬が緩んでいた。それを夫に目で指摘されて、慌ててミトラを引き剥がす。彼女はまだ抱きついていたいようだったが、ずっとこの調子では開店が遅れてしまいそうだといわれて、渋々パンを運ぶ手伝いに戻った。
通りに面した窓から見えるようにして焼きたてのパンを並べながら、ミトラは街並みをぼおっと眺める。石畳の大きな道路の両岸では、あちこちで町民たちが店開きの準備をしていた。今日もまた、この町ザクセンは賑やかになりそうだった。
中央の王都と東の都を繋ぐちょうど中間地点に位置する、通商で賑わうこの町でミトラは転生した。王都に比べれば人口は少ないが、それでも大通りは日夜人影が絶えることはない、大きな町であった。ターバンのような布を被り、馬に乗って西へと去っていく浅黒い肌の集団や、地図を広げてあちこち指差しながら東へと歩いていく冒険者風の男女たち。軒並みでは商人たちが声高に叫んで商品を売りさばき、夜になれば絵画みたいな星空が町を染め上げる。まるで絵本に出てくるおとぎの国。この異世界、テラ・マグラニカのことを、ミトラは好きになり始めていた。
そのもっとも大きい要因はパン屋の夫婦、ジュードとメイに出会えたことだろう。転生した時のあまりにこの異世界にそぐわない服装に奇異の視線を受け、ミトラは行き場を失っていた。言葉は通じるものの、誰もミトラを助けてくれる人はいなかった。路銀もなく、これではそのまま死んでいたほうがましだったのではないかと絶望に暮れていたところ、手を差し伸べたのがジュードたちだった。
彼らはミトラの事情を何も聞かず、黙って家に居候させてくれている。基本的には無口だが、根はやさしいジュードと、肝っ玉で面倒見がよいメイ。幼いころに両親を亡くした彼女にとって、夫婦と過ごす日々はまるで本物の家族といるかのようで、とても心地が良かった。
ずっとこの幸せな日々が続きますように。彼女は朝日に目を細めながらそっと神様にお祈りする。派手な活躍や血沸き肉躍る冒険譚など、彼女には必要なかった。ただこの安らかなひと時だけで、ミトラの転生は満たされていた。
だが、その幸福な一幕は転生者にとってはまやかしに過ぎない。この世界に彼女らを転生させた神は、そんなものを望んではいないのだから。もっと無情に溢れた、より残酷な展開を望む神の思惑は、破滅の足音となってミトラのすぐそばまでにじり寄ってきている。
通りを挟んだ向こう側、店舗と店舗の間の、日差しによって生まれた影の中から、闇にまぎれてミトラをじっと見つめる人影があった。フードを目深に被り、表情は窺い知ることはできないが、纏う空気は尋常ではなく冷たく、そしてその眼差しは死人のように曇っていた。
男は何も言わず、その物陰から幸せな家族を、その中で眩いばかりの笑顔で夫婦に囲まれているミトラのことを観察している。何を思い、これからどうするつもりなのか。無感情な様子であったが、ふと思いついたように口を開き、まるで言い訳をするような苦々しい口調でポツリと漏らした。
「悪く思うなよ。君に恨みはないが、それでも俺は君を殺さないといけないんだ」