第1話 ペーパームーン⑤
超絶魅了。
目を合わせた男性を魅了し、操り人形と化す瞳術。転生者には数十秒ほど視線を巡らせる必要があるものの、その効果が絶大であることは今の状況を鑑みれば火を見るより明らかだった。殺す、殺す、殺すと頭の中で何度も念じながら、シラミネの横顔に拳を繰り出すイメージを描く。しかし、まるで金縛りにあったかのように、サカキの身体は言うことを聞かなかった。
「頑張っても無駄でーす。一度私の魅了にかかったやつは、死ぬまで奴隷決定なんだからね。ふふっ、あんたがちょろくて助かったわ」
息が耳にかかるような至近距離でシラミネが囁いた。かと思えば、強引にサカキの顎を掴んで、シラミネは彼の唇に口づけた。まるで蛇のように、シラミネの舌が歯の隙間から入り込んできて、彼の咥内を蹂躙していく。唾液が絡み合う淫靡な音に、味わったことのない快感が津波のように押しつけてきて、サカキは頭がどうにかなってしまいそうだった。
シラミネはたっぷりとキスを楽しんだ後、余韻を残すかのように柔らかく唇を離した。二人の混じり合った唾がまるで吊り橋みたいに繋がって、顔が離れていくのに従い、粘度を保ちながらゆっくりと地の底へと消えていく。
「どう? 私の奴隷も悪くないでしょ?」
「ふざけんな! 俺は勇者なんだぞ!」
「へ? 勇者? 何それ、妄想? キモっ!」
馬鹿にしたようにシラミネが言葉尻を上げた。苛立ちは募るが、殺気には変わらない。シラミネのチカラは、もはやサカキを完全に飲み込みつつあった。
「いやー、あんたが勇者とかそりゃないっしょ。だって普通さ、勇者っていうのは女の子を襲って死姦なんて、絶対にしないもん」
「……お前、見てたのか?」
「一部始終じっくりとね。あたしも生きてる間は色々見たくないもん見てきたけど、さっきのはその中でもベスト3には入るね。生娘だったら一生もんのトラウマだよ、ありゃ」
サカキの両腕に、リナの感触が蘇った。目は生気を失っていて、次第に冷えていく彼女の体を、サカキは優しく抱いたのだ。まるで、恋人にするかのように彼女の首筋を愛撫しながら、何度も何度もリナの中で果てた。
生きている間は、残念ながら彼女と理解しあえることはなかった。だが、リナが死んでしまったあの瞬間だけは、二人を阻む境界線は消え去って、ひとつになることができたのだ。あの神秘的な行為を、シラミネは死姦だのトラウマだのと馬鹿にしている。
「あれ? もしかしてあんた、思い出して起ってんの? やべー、マジもんの異常者じゃん。怖すぎて漏らしそうなんですけど」
自身を抱きかかえるように両腕を交差させながらも、台詞に反してシラミネの目は愉悦にまみれていた。その目に、サカキは既視感を覚える。自分が異世界転生の夢を語った時に感じた、あの愚か者のクラスメートたちの目と同じだ。俺を侮蔑し、優越感を味わい、心底見下している。
絶対に殺して、そして肉塊になるまで犯してやる。あいつらにやったのと同じように。
シラミネの力によって消されそうになる怒りを、より狂暴な願望で上塗りしていく。そうすることで、なんとかシラミネに対抗しようとする意識だけは保つことができた。しかし、やはり彼女に危害を加えようとしたところで、指先ひとつ動かすことはできなかった。
「ああ、今は殺せない。じゃあ後で殺そう」
「殺す殺すって物騒ね、あんた。何度も言うけどさ、この力はなんだっけ、その、チート? とにかくどうしようもない能力なんだよ。あんたが死ぬまで、絶対に解除はできない」
「死ぬ? なんだ、死ねばこの気色悪い呪いから解き放たれるのか」
意外と、簡単だな。言うが早いか、サカキは自らの頭を鷲掴みにし、渾身の力を込めて捩じった。オークの腕を引きちぎった時の何倍もの力で。一瞬で頸椎が砕けて、身体の奥から鈍い音とともに痺れに似た鈍い痛みが込み上げてくる。痛い、止めろ。理性が全力で彼の腕を引き留めようと警鐘を鳴らしていたが、狂気でそれらを覆い尽くす。痛みがなんだ、そんなもので俺は止められない。
「殺す、お前だけは絶対に殺してやる……!」
口から生温かい血液がこぼれ、視界がうっすらとぼやけてきても、サカキは力を緩めなかった。シラミネの両目が開かれて、驚愕の表情を浮かべている。はは、ざまあみろ。ようやく素の彼女の顔が見れて、サカキは胸がすくのを感じた。
そして、それが彼の見た最後の光景となった。
力なく、サカキの体は道へと倒れ伏せた。圧力に耐えられなかった首の皮膚が千切れ、中からは血にまみれた白い骨が飛び出していた。びくびくと小刻みに痙攣を繰り返していたが、それも次第に小さくなっていき、路傍の石と同じく、何の意思も持たないただの無機物へと変化していく。
完全に停止してしまったサカキの死体を、シラミネはじっと見つめていた。固まった表情で驚いた様子のまま、身じろぎひとつしなかったが、しばらくすると開ききっていた瞼はゆっくりと細められていき、ついさっきまでサカキにそうしていたように、魅惑的な微笑みへと戻っていった。
「やっぱり、あんたは異常だ。もしかしたら、私と同じくらいにね」
180度近く曲がった首にかろうじて繋がっていた頭を軽く蹴飛ばしながら、シラミネはひとり呟く。彼女のつま先に当たってサカキの首は完全に身体から分離し、コロコロと転がって霧の向こうへと消えていった。